辺境遊戯・幻想の冒険者達/©渡来亜輝彦2004
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 第十一章:歯車:歯車-6

うめきながら、ファルケンは手を前の枯れ木に伸ばした。地面をはいずるようにしながら、なるべく前に進もうとする。あの場所、火をつけた封印の場所から、早く遠ざかりたかった。グランカランの許しを得たとはいえ、やはり自分が破壊した場所をみるのは、ひどく辛かったからである。それでも引きずってきた割れた魔幻灯が、がらがらと音を立てて地面でこすれていた。
(やっぱり、…オレはゼンクの生まれ変わりだったのか…)
 ファルケンは、苦しみをおさえながら前進した。近くに木があるのに気づいて、かすかに上体をあげる。
(だって、結局、火をつけてしまった……これで、立派な反逆者だよ…)
 ゆっくりと立ち上がり、ファルケンは木の幹に寄りかかった。息をつく。傍らに自分のシェンタールであるランタンを落とす。忌々しいシェンタールだったが、愛着もあった。嫌いにはなれない。辺境が嫌いになれないのと同じように同じく、魔幻灯の炎は、彼の目には幼い日に宝石のように綺麗に見えた。
 ――…ゼンク?
 誰かが不意に記憶のかなたであざ笑ったような気がした。
 ――人の意見を真に受けやがって、お前って奴はどうしてそんなに、馬鹿なんだ?
 レックハルドかもしれないと思ったが、服装は夢の中のハールシャーだった。長煙管みたいなパイプをくわえて煙を吐いている。でも、あのどことなく寂しげに、しかし、普段はそう見せないように、ふっと笑うのは、多分良く知っている行商人のレックハルドだった。
 ――安心しなって。お前は自分が思ってるほど、多分悪党じゃねえよ。オレと違ってな。
 ファルケンは、顔をあげた。日蝕の終った明るい空に、誰かの顔が思い浮かぶような気がした。
 ――"ザナファル"。お前はザナファルだよ。ゼンクじゃない。
 夢の続きかもしれないとファルケンは思う。どちらが現実でどれが夢なのか分からなくなってきた。唯一つ、胸から徐々に上がってくるこの苦しさ以外は。
「最期に、オレをそうやって励ましてくれるのかい?」
 ファルケンは、笑った。自分の妄想かもしれないと思いながら、自分も一緒に笑った。
「……そうだったらいいな。どんなに辛くてもいいよ。オレは一度でいいから、英雄になりたかった。人から尊敬されたかった」
 太陽の光がまぶしかった。ファルケンは、うつむいたが、涙は目には見えなかった。
「オレには無理なことだけど…、そういってくれるなら、とても嬉しいよ。あんたや、マリスさんだけでも、オレをいい奴だって言ってくれたら、それでいいよ」
 もう限界だとファルケンは思う。指先が奇妙に震え始めた。
「やっぱり、オレは、…一人で死ぬんだな」
 ファルケンは寂しげに言った。目の前が、暗くなり始めてきた。せっかく見えた青い空なのに、もったいないなとファルケンは漠然と思った。
(…オレにはそれが似合いなのかも…)
 その時、不意に声が聞こえた。
「ファルケン! そこにいたのか!」
 ファルケンは、反射的にそちらを見た。そこには、レックハルドらしい人の姿があった。というのも、どうも顔が良く見えなかったからだ。ただ、声と感じでわかった。
 あれはレックハルドだ。間違いなく。
「ファルケン!」
 ファルケンは、返事をせず、うっすらと微笑んだ。木にもたれかかるようにしていたその顔には、血のようなものが塗られていて、その顔色は分からなかった。もしそれがなかったら、今、ファルケンの顔色が、青を通り越して土気色に近いことがわかったかもしれないが。
「…ああ、レック」
 ファルケンはそれだけを言った。
(良かった…あんたは無事だったんだな…)
 そう思いながら息をついた。
(…だったら、オレの死は…無駄じゃない……)
 不意にファルケンは体を軽く折り、口のあたりを押さえた。駆け寄っていたレックハルドは、様子がおかしいのをみて、ふと立ち止まる。
「おい、おまえ、どうし…」
 そう呼びかけようとして、レックハルドは息を呑んだ。
 ファルケンの手の指の間から、赤い液体が飛び散った。右手を赤く染めたまま、ファルケンはそのまま、がくりと膝をついた。その後、そのままゆっくり放物線を描いて前のめりに倒れこむ。
「ファル…!」
 レックハルドは慌ててファルケンに駆け寄り、手を伸ばしたが、ファルケンの右手がそれを跳ね除けるように払った。レックハルドの手を払ったのでないと分かったのは、右手がそのまま彼の服をかきやぶるように、胸の辺りをつかんだからだった。
 左手を地面に突っ張らせ、ファルケンは苦しげに、血の塊を吐き出した。唇から、幾筋もの赤い血が流れ落ち、ぼたぼたと音を立てて地面を汚す。
「…あ…ああ…」
 レックハルドは、意味のなさない言葉を吐き出しながら、立ち尽くしていた。何か声をかけなければと思うが、それ以上声が出ない。そして、手を出して助けなければと思うが、どうすればいいかわからなかった。
「がはっ! う…」
 もう一度血を吐き、ファルケンは手で自分の体重を支えられなくなったらしく、自分の血の池の中に突っ伏した。少し仰向けになった彼が咳き込むたび、唇に血が滲んだ。苦しみに歪むファルケンの顔は、半分血に染まり、荒い息をつくたびにかすかに揺れる。
 まるで、違う世界の悪夢を見ているような気分だった。レックハルドは首を振る。
(ファルケンが、こんな風になるわけがない。)
 違う、これは悪夢だ。
 と、レックハルドは心の中で叫んだ。
(夢であってくれ! オレの見ている悪夢だって!)
 呆然としているレックハルドの後ろから、ダルシュが飛び出してきた。そして、この情景を一見して、ぎょっとする。すぐさま、ダルシュは顔色を変えた。
「お、おい!」
 レックハルドの肩をつかみ、ダルシュは苦しそうなファルケンと彼を交互に見比べる。
「どうした! あいつ、どうしたんだよ!」
 そういって、ダルシュはレックハルドの肩をゆすぶった。
「毒でも飲まされたのか! 答えろ!」
 自分も真っ青になったまま、取り憑かれたようにファルケンを見ていた彼は、ふと呟いた。
「レ、レナルを…」
 レックハルドは、ようやく発声方法を思い出したかのように叫んだ。
「レナルを呼んでくれ!」
「レナル? ああ! わかった!」
 深い辺境の中では医者は呼べない。だとしたら、一番医術に精通したレナルを呼ぶしかないと判断したのだろう。ダルシュは慌てて、きびすをかえすと、草の中に消えた。
「すぐ戻るからな! すぐだ!」
 たっと足音がして、それがやがて遠くなる。レックハルドはふらふらとひざまずき、ファルケンに近寄った。彼は動きもしない。
「ファルケン…」
 びくり、とファルケンの体が動いた。レックハルドは驚いて足をとめる。その前で、ファルケンがわずかに上体を起こし、絶叫しながら、胸の辺りをかきむしった。服が破れたが、それでも収まらずに地面に突っ伏す。歯を食いしばり、がくがくと体を震わせながら、ファルケンは苦痛に耐えているようだった。
「ど、どうすれば…、オ、オレは…ファルケ…」
 レックハルドが口を開いたとき、突然、声が空気を裂いて聞こえた。
「レック!」
 レックハルドは、撃たれでもしたように、体を強張らせた。
「…た、助け、助け…てくれ…」
 髪の毛の間からファルケンの目が、切実な光をたたえて、こちらを見ていた。レックハルドは思わず目をそらした。だが、ファルケンの叫びはレックハルドが考えたものとは違った。ファルケンは本当に助けろといったのではなかった。「今すぐ殺して、楽にしてくれ」と言う意味合いでいったのだ。
「た、頼む…! 一思いに、…し、死なせてくれよ…レック……!」
 思わず耳をふさぎそうになるような叫びだった。できることなら、この場から逃げてしまいたかった。だが、レックハルドは動けない。この凄惨な光景をの前から逃げられず、金縛りにあったように、指先すら動かすこともままならない。
 腰の短剣が目に入る。この短剣でとどめを刺せといっているのだろうか。息が詰まりそうになりながらも、レックハルドは一瞬考えてみた。
 この短剣でファルケンの喉を…。そうすれば、この悲惨な光景はそれだけで終わりを告げる。しかし、それは――ファルケンの命を自分が完全に断ち切るということだ。
 そう思ったとたん、全身から血の気が引いた。先ほどの、妖魔に襲われたときの、あの感覚が蘇り、レックハルドは首を振る。
「そんなことできねえ! オレには無理だ――!」
 レックハルドはファルケンを直視できず、また短剣を直視できなかった。指先が震えて動かない。
「…ゆ、許して…くれ! …許してくれよ!」
 レックハルドは震える唇でようやくそれだけをつむぎだす。そらしきれずに、目を戻すと、ファルケンはこちらを見てはいなかった。きつく閉じられた目が、乱れた髪の合間から、微かに見えるだけだ。罪悪感と、無力感を感じながらもレックハルドの全身は、震えるだけで命令をきこうともしない。
「オレは…オレには、む、無理なんだ! 許してくれよ! ファルケン! 他の、他の方法を…他の方法を…!」
 泣きたかったが、涙などでもしなかった。自分が切り刻まれるような顔をして、レックハルドはそこに立ち尽くしていた。
(他の方法を、オレに他のお前を助ける方法を教えてくれ! お願いだ!)
 叫びたかったのに、なぜか声がもう出なかった。
 ファルケンの左手は、草を引きちぎり、それでもまだわなわなと痙攣していた。血を吐きながらのたうちまわる様子から、レックハルドは何度も目をそらそうとする。だが、どこを見ようとしても、目をつぶろうとしても、目の前の情景だけは逃れられなかった。
(悪夢だ。)
 もう一度レックハルドは思った。
(これは、オレの夢だ。頼むよ、そうであってくれ!)
「あああああああ!」
 ファルケンの悲鳴で我に返る。仰向けのファルケンは左手を空に向かって差し上げた。そして、ふと、その手から力が抜け、地面に落ちる。
「あ、あぁ…」
 短いうめきを残し、ファルケンはがくりと首をたれた。
「ファルケン!」
 今までの呪縛が解けたように、レックハルドはファルケンの元に駆け寄った。ファルケンは、動かない。閉じられた目に、怯えながらそっと首に手をやる。まだ脈が打っているのがわかり、レックハルドはわずかにため息をついた。
 だが、ファルケンが瀕死の状態らしいのは変わらない。レックハルドの頭の中は、まだ半ば混乱していた。
(どうしよう…。どうすれば…)
 レックハルドは、彼らしくもなくおろおろと手荷物を漁りだした。何か、手当てをしなければ、ファルケンは――。だが、気持ちが焦っても、何をすればいいのか分からない。レックハルドには、ファルケンがどうしてこんな風になったのかすら見当もつかなかった。
 小刻みに震える指先が、うまく物をつかんでくれない。いろいろなものを落としながら、レックハルドは指先を地面に打ちつけた。
「ちきしょう!」
 レックハルドは自分を呪いながら、また鼓舞するように叫んだ。
「畜生! こんなときぐらい、ちゃんと動け!」
 薬草とタオルと、水を飲む為に持ち歩いている椀を取り出して、残りのものはそこにばら撒いたままにしておいた。
 そうすると、レックハルドは、まだ自分の血の上に寝ているファルケンがかわいそうになって、慌ててその体を引っ張り、綺麗な草の上に彼を寝かせた。
 暴れたせいか、服の前が開いていた。不意に胸に目が止まる。なぜか、そこには刺青のようないような文様が黒い色で描かれていた。少なくとも、ファルケンは刺青をしていなかったが、今はそんなことを考えている場合ではないと、彼はそれを無視した。
 近くに湖がある。レックハルドは走っていって、水を持っていた椀に汲んできた。それでタオルをぬらし、顔を拭いて汚れを取ってやる。汗を浮かべたファルケンは、わずかにうめいて顔を倒した。まだ苦しいのか、息が荒い。
「そうだ…薬を飲まさなきゃ…」
 もし、これが毒でも飲まされた結果なのなら解毒剤を、しかし、様子から見て痛み止めから飲ませたほうがいいのか。
 わずかに迷ったが、ファルケンの様子を見て、レックハルドは、痛み止めになると、ファルケンにきかされた覚えのある薬草を取り出した。ちょうどいい具合に、それは小刻みに刻まれたまま小さな瓶の中に水に浸された状態になっていた。水の中に成分が溶け出しているようだ。レックハルドは、椀にいれたそれと水とを混ぜてから、ファルケンの口にあてがった。
 飲ませると、ファルケンは、血と薬の混じった液体を咳き込んで吐き出した。そのせいだったのかどうかはわからないが、ファルケンはゆっくりと目を開けた。そして、レックハルドのほうに目を向けた。
「だ、大丈夫か? …オレがわかるよな?」
 ファルケンは青ざめた顔に少しだけ淡い笑みを浮かべた。
「あ、ああ…そうか…オレは気絶してたのか?」
 それがほんの少し自嘲の色を帯びていたのは、おそらくそれは自分に向けたものであったからだろう。
「…な、情けないな…。…あれぐらい…覚悟してたはずなのに…。あの時、オレ、…なんかレックに言ったよな。め、迷惑…だったよな」
 そういって、軽く咳き込む。唇の端に赤い飛まつが飛んだ。
「ごめんよ…。そんなこと、一番辛いのはレックなのに…。オレ、あの時……」
 ファルケンの力のない謝罪を聞きながら、レックハルドは首を振った。
「何のことだ? オレはよくわかんねえな」
 レックハルドはわざと知らない振りをした。
「これを飲ませたんだ。…気分はどうだ? 良くなったよな?」
 レックハルドは、器の中のものを見せた。それをファルケンが理解できたのかどうかはわからないが、ファルケンは、確かに落ち着いているように見える。息は荒いが、先ほどのような激痛には見舞われていないようだった。
「ああ、…もう、苦しくは、ないよ…。ありがとう」
 ファルケンは、不安そうな顔で、レックハルドを見ていた。そして、申し訳なさそうな口調で訊く。
「レックは…オレを許してくれたのか?」
「何が? オレを騙したってか? あんなの、騙したうちにはいらねえよ」
 レックハルドはわざと明るく笑った。だが、ファルケンの表情は変わらない。
「…ごめんよ…金貨は…なくしてしまったんだ…。司祭 ( スーシャー ) に取り上げられて、捨てられたかもしれない。あんな高価なもの…もらったのに……」
「馬鹿。お前にやったもんだから、お前がなくそうがオレは関係ねえよ。それにその辺に落ちてるかもしれないし、…気にするなって」
 軽くファルケンの肩をたたく。そして、不意に思い出して立ち上がった。ファルケンが不安そうな顔をしたのがわかる。その表情を見るのが辛くて、レックハルドはすぐにきびすを返した。
「水を汲んできてやるよ。近くに湖があるんだ。薬はまずいし、…水、飲みたいだろ?」
 レックハルドは動揺を必死で隠しながら、微笑んでいった。
「すぐに戻ってくるから、ちょっと待っててくれ」
 そういって進もうとして、レックハルドは服の裾に力を感じた。
「…待ってくれ…」
血だらけでボロボロになった指先が、レックハルドの長い上着の裾をつかんでいた。ファルケンは、頼み込むような目を上に上げて、苦しそうに呟いた。
「レック…ここにいてくれ…」
「な、何でだよ。水がないと、困るだろ?」
「お願いだから…話をきいてくれ…。最期の頼みだよ…。オレはもうだめなんだ。…あんたが戻ってくるころには、…もう…」
「やめろ!」
 レックハルドは、怒ったような口調で言った。
「お前はちょっと調子が悪いだけだ! シレッキでまたしばらく静養すればすぐに良くなる! 死ぬわけなんかないだろうが!」
「…レック」
 レックハルドは、首を振った。
「もうすぐレナルが来てくれる! そうすれば、お前もちょっとは楽にしてくれるよ。な、そんな事いうんじゃねえよ!」
 レックハルドは、裾をつかむファルケンの手を払い、そこに座った。
「たいした怪我じゃねえんだよ! …絶対に治る! な、そうだろ!」
 ファルケンは黙って、それを聞いていた。レックハルドは、わざといたずらぽく笑うと、懐からいつも持っている地図を取り出した。広くカルヴァネスからディルハート、果ては彼の故郷のマジェンダについて概要と方角が描かれてあった。それをファルケンの目の前に広げ、レックハルドは言った。
「…体を治して、それから一緒にまた旅をしようぜ。お前の好きなだけ逗留させてやるよ。そうすれば、すぐに治るって! 今度はどこへ行こうか? なあ、お前の好きなところを選ばせてやるよ」
 ファルケンはうっすらと笑うばかりで、地図を指差そうともしない。レックハルドは苛立って、少しきつい口調で言った。
「選ばせてやるといってるだろ! はやく地図見て考えろよ!」
 ファルケンは少し首を振る。そして、申し訳なさそうに笑った。
「ごめんよ、レック…オレ、もう、それが見えないんだ。…」
 レックハルドは、目を見開き、地図を落とした。それを拾おうともせず、彼はわざと明るい声で言う。声が涙声になるのを必死で我慢しながら彼は明るく言った。
「じゃ、じゃあ、オレが決める。…今度は西へ行こう。国境を越えてディルハート側へ。オレは、あのあたりはあまりしらねえんだ。お前、行ったことあるんだよな! な、案内してくれるだろ?」
「ああ…」
 そういって、ファルケンは近くの割れたランタンを指差した。焦げてしまったが、まだ形は崩れていない。少し大きめのそれの痛々しい姿が、レックハルドには少し辛かった。見えないというファルケンは、それがどこにあるかは把握できていても、その様子はおそらく知らないだろう。無残な姿になった魔幻灯自身が、レックハルドには今のファルケンと重なった。 
「オレの魔幻灯を…。それをレックにあげるよ。…あれは道しるべの意味ももつんだ…。だから、オレの代わりに、あんたを、あんな…」
 ファルケンは急に大きく喘ぎ、咳き込んだ。
「ファルケン!」
 慌ててレックハルドは、ファルケンにとりすがった。ぼろぼろになったファルケンの左手がゆっくりとレックハルドのほうに差し上げられ、レックハルドは慌ててそれを両手でつかんだ。
 ファルケンは、口から血を滲ませながら、なぜかひどく柔らかに笑った。
「…ごめんよ…。オレは、やっぱり、…無理だったみたいだ。あんたとの契約も、約束も…」
「な、何言って…すぐに治るって言ってるだろ!」
「レック…あんたなら一人でやっていけるから、…オレがいなくても…」
「ダ、ダメだ!」
 レックハルドは悲鳴のように叫んだ。
「…オレはまだ、マリスさんと話もろくにできて…」
「あんたなら、大丈夫だよ。…きっと、マリスさんと…オレには分かるような気がする」
 レックハルドの目から、涙が一筋だけ零れ落ちた。もう、それも見えていないだろうファルケンには、その様子はわからない。彼は明るく微笑んだ。
「でも、良かった…。オレ、きっと一人で死ぬと思ってたから…。だから、オレにとっては上等な死に方だと思うんだ。…そうだろ?」
「バ、バカなことを!」
 レックハルドに構わず、ファルケンは続けた。もしかしたら、声も聞こえていないのかもしれない。
「オレは、レックに会えて嬉しかったよ…」
 それから、少しだけ、哀しげに微笑む。
「ただ、……辺境に永遠に還ることができないのは辛いけど…オレ…」
 その言葉の意味は、レックハルドにはわからない。
「でも、オレは後悔はしないよ」
 ファルケンは小さな声で言った。わずかに目を閉じ、うっすらと微笑んだ。それは、満足げでもあり、皮肉っぽくもあった。
「後悔なんてしないよ…。…だから……」
 ふと、声が途切れた。レックハルドは顔をあげる。ファルケンの左手の力が急速に緩み、そのままレックハルドの手から滑り落ちて、地面に落ちる。
「おい…」
 レックハルドは、一瞬呆然として、ただ黙ってファルケンの顔を見ていた。ファルケンは、ただ、眠っているような顔をしていた。
 今度も気絶しただけだ。と、レックハルドは、耳を打つような鼓動の中、そう考える。胸の奥のほうがきりきりと痛んだが、違うと必死に言い聞かせた。
「ファルケン?」
 レックハルドは、恐る恐る顔に手を触れる。そして、びくりと手を引いた。
「おい! レナルをつれてきたぞ!」
 ダルシュが肩で息をしながら飛び込んできた。レックハルドはそちらに目も向けず、ただ呆然とファルケンの顔を見ていた。もう、息もしていないファルケンは、うっすらと微笑を残していた。それがわずかに皮肉っぽく見えるのは、誰に向けてのものだったのだろう。
「おい…、どうした?」
 ダルシュは、息を収めながらレックハルドのほうに歩み寄ってきた。後ろでレナルが、心配そうな顔をしてそれを眺めている。
「まさか…、ファルケンのやつ…死ん…」
 ダルシュがそういいかけたとき、レックハルドが突然自分のコートの裾を跳ね上げながら片膝を立てた。そして、ファルケンの胸倉をつかみ上げたのだった。
「おい! ふざけんなよ! お前、オレとの契約はどうなったんだ! ええ! この大馬鹿野郎が!」
 いきなり、怒鳴り始めたレックハルドに、ダルシュは驚いた。
「契約不履行じゃねえか! 何考えてんだ!」
「おい! やめろ!」
 慌てたダルシュに押さえつけられながら、それでもレックハルドは、感情のままに喚いた。
「約束したじゃねえか! オレがマリスさんとつりあえるまで協力するって! 約束したじゃねえかよ!」
「やめろって言ってるだろ!」
 レナルも、レックハルドを止めに入るが、その手はすぐに払われる。
「とっとと目え覚まして、何か言い訳しろよ! そんな、オレを馬鹿にするみたいにわらいやがって畜生が!」
「い、いい加減にしろよ、お前、ファルケンは…」
 ダルシュが手を引き剥がそうとしたとき、不意にレックハルドはファルケンから手をはなして、肩を落とした。ダルシュとレナルは、その様子に一旦、彼から手を引く。
「どうしてだ……!」
 レックハルドは、うつむいたまま感情を抑えるような重い声で言った。
「どうしてお前みたいな奴がこんなことになるんだよ! 目を覚ませ!」
 ファルケンの体を揺さぶっても、もう何も反応は返ってこなかった。レックハルドは、あふれる涙を、今度は我慢しなかった。
 レックハルドは、ファルケンの体に覆い被さるようにして声をあげて泣き始めた。ダルシュとレナルが見ていることも、もう気にせずにただ感情の赴くままに声をあげ、子供のように泣きじゃくった。
 ダルシュも、レナルも、それを直視することができず、お互い地面に視線を落としながら黙っていた。

『生き残りたいと願うなら
   お前の優しいその心を
      一番最初に殺すがいい
               レックハルド=ハールシャー』   
           
  
 火柱が突然消えた。赤い空は一気に普通の闇になり、息をつく間に太陽が姿を見せ始めている。別の方向から煙が上がり始めたのを見て、サライはわずかに顔をしかめた。
『シールコルスチェーン、は、現れなかったな。』
 ギレスが唸るようにいった。
『そんなにあれは調子が悪いのか?』
「というよりは、奴には、この事態を裁けるほどの自信がないのだろうな。…今回は、しかも、相手が相手だ。あの男の心の傷に触れるんだろう」
『なるほど。』
 ギレスは納得したかのような声をあげた。それから、気の毒そうな声で、彼は静かにこういった。
『だが、あの若い狼にはかわいそうなことをした。しかし、これから一体どうなる?』
「…ギレス、やはりその方は衰えたのではないか?」
 サライが嘲笑ったのがはっきりわかった。ギレスはむっとして、彼をにらむようにした。
『何だと! どういう意味だ? 大体、おぬし、不謹慎ではないのか?』
 ギレスが責めるような口調になった。サライは目を閉じ、わずかに微笑む。
「あれは終わりではない。始まりの始まりだ。この前、私ははっきりとそれを悟った」
 サライは、あの覆面の狼人を思い出しながら言った。
「本番はこれからだ」
 謎めいた言葉をのこし、サライはふくみをこめてギレスのほうを見た。
「そろそろ、おぬしも、関わらねばならないときではないのか?」
 ギレスが少し緊張したのがわかった。サライは再び、空を見上げた。向こうから上がる煙は、すでに薄くなり、やがて消えていった。
 ほとんどすべてを予見しながら、さすがにあのレックハルドがどんな顔をしているかと思うと、サライの心も少し憂鬱になった。





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©akihiko wataragi