身を引いたが、それだけでは避けるに十分でない。
ちょうどしたたかに鞘で左肩をたたかれる形になり、ジャッキールは初めて悲鳴をあげた。追撃は、右手の真剣だ。それをかろうじて身を翻して避け、ジャッキールは、十歩ほど向こうに逃げ延びる。だが、すぐに立つことはできず、ジャッキールは、そこで膝を突いて、左肩をおさえた。
「……やっぱりな」
ラタイの笑い声が不気味に響いた。
「普段の動きがぜんぜんできないじゃないか、ジャッキールの旦那」
「……き、貴様……」
剣を持った右手の指先が震えて、かたかた金属の音を立てている。青いジャッキールの顔には、汗が浮かび、苦痛を押し殺しているのがはっきりと見て取れた。
「その体じゃ、普段みたいな芸当はできないぜ。普段のあんたなら、俺を斬るなんて朝飯前だろうがな! 本当は、それを振るだけでも、結構限界なんだろう!」
「き、貴様……、わざと、左肩を……!」
「卑怯だとでもいうのかい、ダンナ」
ラタイは、あざ笑った。
「ふ、さすがのオレでも、アンタにはかなうはずもないのはわかっている。何せ、あんたは、特別だからな」
「た、確かにな……」
ジャッキールは、悪寒に震える唇をかみ締めながら言った。
「貴様の言うことは正論だ……」
左肩をおさえながら、ジャッキールは、青い笑みを浮かべた。かみ締めた唇は真っ白になっており、血がわずかににじんでいた。
ラタイは、冷たく言い放つ。
「あの時、あんな子供をかばったりなどするからだ。お前みたいな殺人鬼が、慈悲心など出して気まぐれか?」
「……何とでも言え……!」
ジャッキールははき捨てるように言った。
「俺は、……ただ、目の前で、子供を見殺しにするのが堪えられなかっただけだ……!」
「あんたの口からそういう言葉が出るとはな」
ラタイはあざ笑った。
「だが、ちょうどいいじゃないか。死ぬ前に善行が積めてよかったな」
ジャッキールは、乾いて血がにじんだ唇を湿らせると、左肩から手を離した。
「ふん、馬鹿にするな。……俺は余力は十分残しているつもりだがな」
「その格好でよくもいえるな」
「偽りかどうかは、……その身で確かめてみろ」
ジャッキールは、ふらりと立ち上がった。吊り下げられた左腕から、薄く血がにじんでいるのが見えていた。
「戯言を……!」
ラタイは、いらだったように目を細めた。そのとき、突然、ふわりとジャッキールの背後に何か見えた気がした。
陽炎のようにゆらめきながら現れたものは、ジャッキールにふわりと浮かぶように寄り添いながら、こちらを見ていた。
それは黒髪の異国の女だ。波打つつやのある黒髪に、遠くを見るような美しい瞳の。しかし、その瞳には、凄然とした美しさだけでなく、ぞっとするような刃物の冷たさと、赤い狂気を秘めていた。
「な、なんだ、あれは……」
ラタイは、女を凝視した。そんなところに女がいるはずがない。リーフィは、シャーの傍にいるし、第一、その女の服は、このあたりの習俗とは明らかに違った。
――あなた、は、
女は、異国の言葉でつぶやいた。冷たい瑠璃硝子のような声だ。
――無関係のものを殺しすぎたわ、ね……?
それがラタイに告げられているものなのかどうかはわからない。それは、その女がメフィティスに対した声だったのかもしれない。
それは、本当にジャッキールに憑いているのか。あるいは、ラタイの狂気が生み出した幻だったのか。ただ、冷たく視線を送る、そこにいないはずの女に、ラタイは恐怖した。
「何だ! お前は誰だ!」
突然、そうおびえたように叫びだしたラタイに、ジャッキールの声が浴びせられる。
「何を言っている? ……こちらから行くぞ!」
「死ね! 消えろ悪霊め!」
突然、ラタイは奇声を上げて、剣を振り回しながら飛び込んできた。だが、その攻撃には、先ほどまであった冷静さというのが全くない。計算のまったくされていない攻撃をかわすのは簡単だった。ジャッキールは、それを難なくかわすと、思い切り駆け込んで攻勢に出た。
「まだわからんのか! 俺が狙っているのは、貴様ではなく……」
答えは返ってこない。ジャッキールの目が冷たく閃いた。ジャッキールには、どこをどう攻撃すればいいのか、すでに見えているのだ。最初から、ジャッキールは、その一点を狙っていたのだった。今まで、ラタイに攻撃しなったのは、もっとも消耗が激しく、弱った場所を見抜くためだ。彼にはそうしなければならない理由があったのである。
そして、ジャッキールの攻撃に備えてラタイが剣で防御姿勢に入ったのを見る。狙っていた角度と勢い、そして位置。ジャッキールの計算は、そのときすべて完成した。
「……そのおぞましい魔物だ!」
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