無表情な女、つまり、リーフィは、彼女の様子に異変を感じた。
「追われているの?」
シーリーンが、うなずく前に、彼女はシーリーンの走ってきた方を見やった。そして、そこにつけてくる誰かの存在を知った。とっさにリーフィは、懐に隠してある短剣をにぎりしめ、シーリーンにささやいた。
「あなたは、早く逃げなさい。後は私が何とかするわ」
「で、でも、あなたは……」
思わぬ言葉に心配そうになる彼女に、シーリーンは、そっと言った。
「大丈夫。うまくやるわ。だから、そちらに。このまままっすぐに行くと大通りに出るわよ」
さあ、早く、とリーフィが強く促す。その声に押されて、彼女は思わず再び進みだす。
「あ、ありがとう。……お、お気をつけて!」
「ええ」
シーリーンが、走り出したのを見て、リーフィはすばやく立ち上がる。向こうから彼女を尾行してきていた男は、シーリーンの速度が落ちたのにあわせて、走らずに歩いてこちらにきていた。
リーフィは、そのまま走り出す。闇の中では、きっと彼女の姿とシーリーンの姿の見分けがつかないだろう。
今日は、少し不自然だった。あれほど事件続きなのに、役人の目を感じない。以前は、少し歩いただけで、すぐに彼らの影を感じることができたのに、今夜は、「張ってない」らしいのだ。
「あきらめたか、目星がついたかどっちかだろうがな」
ゼダは、そうつぶやいた。いくらなんでも諦めたということはないだろう。さすがに、彼らは国王の配下なのだから、早々簡単に敗北宣言をするわけにはいかない。となると、目星がついたというのが正解かもしれない。その目星のついた人間の周辺に、部下を配置しているから、街に散開していた役人たちの数が少なく見えているのだろう。
ゼダは、というと、例によって少々花街をふらりと大周りしてくるつもりだった。ザフに見つかると、あれこれうるさいが、シーリーンのことは少々気になる。あれのことだから、むやみに心配していそうな気がするので、一応顔ぐらい見せておこう、というゼダにしては殊勝な気持ちになったのだった。
ゼダにとって、シーリーンは、ちょっと心配な娘を預かっているぐらいの心境なので、時々陰ながらでも様子をみてあげないと、という気持ちがあった。実際、ゼダとシーリーンの関係は、恋人といえるようなものでもないし、それどころか、遊びにもならないようなものだ。ゼダが一方的に面倒を見ているだけに近い。
ゼダは、他人には気まぐれをきどっているようで、しかし、その態度はかつての彼と少々違うようなところがあるのも事実である。一番それに敏感に気づいているのは、腹心のザフに違いなく、ゼダ自身はあまり気づいていないのかもしれない。
「それにしても」
と、ゼダは、やや明るすぎる月を見上げながらつぶやいた。
「オレもいちいち親切だよなあ。あの三白眼に情報くれてやって……」
そもそも、ゼダの行動は、すべてが気まぐれといえば気まぐれで、今回の事件にかかわったのは、一番最初に自分が疑われたことからだった。けれども、別にシャーに情報をやることはないのである。そもそも、シャーとは、もともと敵同士のようなものだし、義理を立てる必要などない。
シーリーンのこともそうだが、ゼダが少しだけ変わりつつあるのは、シャーとかかわってからかもしれない。だが、それについて気づいているのは、やっぱりザフだけなのかもしれなかった。
「ま、大体のことはあいつとあの黒服がどうにかしてくれるだろうし、オレは後から高みの見物なり……」
そう自分を納得させるための独り言なのか、そんなことをいいながら、ゼダは歩いていく。ゼダは、あまり大通りは歩かない。一応ザフのほうが、カドゥサの御曹司ということになっているので、ゼダは素の彼でいるときは、あまり自分を見せて歩くことを好まないのだ。そうでもしないと、せっかく普段猫を被っているのが台無しである。
そういうわけで、ゼダは裏道を歩いていたが、そもそも人がいない今夜。裏道に人気があろうはずもなかった。
不意に、目の前に、幽霊のようにふわりと薄い色の布が舞った。ゼダは、反射的に身構えるが、相手が彼に害を加えるようなものでないのも、すぐにわかった。薄絹の布は、女の服だ。幽霊のように見えたのは、女がふらつきながらこちらまで歩いてきて、そのままバランスを崩したからである。
ゼダは、慌てて女の方に駆け寄った。間一髪、彼女が倒れこむ前に、どうにか受け止めることができ、ゼダは彼女を抱え起こした。
「お、おいおい、大丈夫か?」
そう声をかけて、ゼダは、はっと表情を変えた。そこにいる女性の顔には見覚えがありすぎた。どこかはかなげな印象のある若い娘。もとより顔色はすぐれないが、今は真っ青になっていた。
「シーリーン!」
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