今日は、ゼダといるときとは違い、かっちりした服装をしているザフは、貴族か富豪の、上品な側近といったように見えた。
「はい。ザフさんについてきていただけるだけでも、充分ご迷惑なのに、これ以上ご迷惑をおかけするわけには参りません」
ザフは、それなら仕方がない。と思う。シーリーンをあまり気遣わせる方がよくないだろう。少しの時間だし、自分が守っていれば、まさかうわさの、例の通り魔にも会うまい。
歓楽街の大通り。だが、こちらは、どちらかというと上品な客しか来ない歓楽街の表の方だった。だから、それほどたちの悪い人間もいない。
「ここなら、時々坊ちゃんが通っていると思いますし、会えるかもしれませんね」
「まあ、ザフさん」
ザフが、シーリーンの本音を言い当てたようにそんなことを言うものだから、彼女は頬を赤らめてわずかに目を伏せた。
ザフはふと気づいたようにいった。
「ああ、そうだ。この周りの店に、少々聞いて見ましょう。坊ちゃんが立ち寄っていたら、きっと亭主が覚えていると思いますし」
「ありがとう。ザフさん。では、わたし、こちらで待っています」
シーリーンは、にこりと微笑んでいった。ザフは、ええ、では、といって進みかけ、一度振り返った。
「シーリーン様。どこにも行かず、こちらでお待ちくださいね」
「はい」
うなずく彼女をみて、ザフはようやく安心したように、足を進めて近くの店に入っていった。
シーリーンは、夜の街の片隅で、一人、ふっと息をつく。本当に、久しぶりの外の世界だった。恐いことも多いし、自分は外で自由に生きられるほど強くないのはわかっている。けれども、シーリーンにも、高楼でいつも眺めている外の世界は、どこか眩く映るものだった。
もしかしたら、シーリーンには、外の世界を自由に闊歩しているゼダに憧れを抱いているのかもしれなかった。彼にも、きっと表に出さないだけで、何かに縛られていることもあるかもしれないが、それでも、その中で目いっぱい好き勝手やっている気がするからだ。多分、そういうところが魅力的で、そういう彼が自分を気にかけてくれるのが、恐れ多い気がするのかもしれない。
「あ」
シーリーンは、ふと口を押さえた。先ほど、曲がり角の暗がりに、赤い上着が消えた気がした。シーリーンは、自分でも知らないうちに駆け出していた。
た、と、暗い路地裏に駆け込んで、シーリーンは,すぐに立ち止まった。先ほどゼダだと思った影は、今はどこにも見えなかった。シーリーンは、ため息をついて、あがった息を整える。弱い体には、少し走っただけでも、きびしいものだ。
ゼダがいないのは仕方がない。まだ会えるときもあるかもしれない。シーリーンは、そう思い直し、再び大通りに出ようと、ちらりと後ろを振り返った。誰か、男の影が向こうにあった。
シーリーンは、心配して自分を探しに来たザフだと確信した。
「ごめんなさい。今戻ろうとしたところなの」
ザフは、しかし答えない。ゆっくりと、こちらに歩み寄ってくる。シーリーンは、相手に声が聞こえないのかとおもい、もう一度言い直す。
「ザフさん、ごめんなさい。ゼダ様を見かけた気がして……」
相手は、それでも答えない。何か変だ。そう思ったが、シーリーンは、まだ相手を疑うまでいたらなかった。
「ザフさん? どうしたの?」
だが、相手は答えない。シーリーンは、ようやく不気味さを感じて後ずさった。
「だ、誰……!」
相手は足音を立てながら忍び寄ってくる。シーリーンは、袖を掴みながら身をすくませた。そして、その瞳に、刃物の光が入り、彼女はその男がどういう男であるのか、瞬時に理解した。
慌てて彼女は、きびすを返した。路地裏に向かって走る。その後を、冷たい足音が追ってくる。暗い不案内な道は、シーリーンにとって、まるでどろどろした黒い靄の中のようで、それだけでも恐かった。だが、後ろから迫る足音の方が、確実な死のにおいを漂わせて、もっと恐ろしいものだった。
息苦しい。胸を押さえながら、シーリーンは、もつれそうになる足をそのまま進める。その前を、ふと薄い水色の薄絹がふわりとよぎった気がした。シーリーンは、それを見ると同時に、その場に倒れこむ。
「……どうしたの?」
薄い水色の薄絹は、女の着物だ。シーリーンは、ゆれる視界の中で、その薄絹を着た若い娘が、こちらを覗き込むのを理解した。自分とそれほど年齢が違うとは思えないが、相手の方がぐっと大人びた印象があった。
無表情な娘は、それでもいくらか心配そうな様子を見せながら、彼女を抱き起こす。
「あなた。大丈夫?」
「すみません……。わたし……」
飛び込んできた女性の袖にすがるシーリーンは、荒い息のまま、真っ青な顔におびえの色を浮かべていた。
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