パリーアは、嫌な予感にとりつかれつつも、見なければいけないような気がして、そうっと音のした方に歩いていった。確かにそこには誰かが倒れているようだった。月の光のせいで黒い影が地面に落ちている。
「あの……」
 そう声をかけようとして、パリーアは、ひっと息を飲み込んだ。月の光があまりに明るいものだから、暗い夜でも一体先ほど何が起こったのかすぐ理解できた。影の落ちた地面には、影でない黒が徐々に広がりつつある。それが、血であることは、想像力を駆使するまでもなく容易にわかることだった。
「おい……」
 唐突に、陰気な低い声がして、パリーアはびくりと身をすくめた。背後を振り向くと、そこには背の高い男の影がある。その男が剣を持っているのを見て、パリーアは、先ほどのシルエットの男が戻ってきたのだと思った。
「あああ……」
 震え上がりながら、思わず後ずさる彼女を見ながら、男は軽く首をかしげた。背の高い男は、全身黒い服を着ていた。その顔は冷たく、月明かりを浴びても、なお、青ざめているようだった。
「よ、寄らないで……!」
「待て。俺は……」
 男は、首を軽くふり、彼女の方に手を伸ばす。それを見た途端、パリーアの緊張は限界を突破した。
「きゃあああああ!」
 絶叫して走り出すパリーアは、慌ててきた道を戻り始める。必死で、追いつかれないように走る彼女には、男が呼び止める声は聞こえなかった。
 男は、ちらりとそちらに目を向けるが、逃げた彼女をそれ以上追おうとはしなかった。そして、彼女が先ほど立ち止まっていた場所を見やり、そのままそこにひざまずく。倒れている酔っ払いは、すでに事切れているようだった。
「これは……」
 男は、どちらかというと端正な顔をしかめた。彼になら、それはすぐにわかった。これは、ある剣によって斬られたものに違いない。しかも、その剣は、彼がこの前から探しているシロモノであるに違いないと思った。ハルミッドを斬った手と、それは同じ手口だったのだ。
「まだ近くにいるはずだが……」
 男は立ち上がり、周りを見回した。すでに目標は消えていた。あたりには血生臭い気配が漂うばかりである。
 男は舌打ちすると、黒い装束を翻し、再び月明かりの中から、闇へと姿を消していく。この血の匂いを追っていけば、絶対に目的の人間にめぐり会えるはずなのだ。
「……絶対に逃さん!」
 黒いマントが月明かりの下に広がる。やがて人が集まってくるだろう事を予想しながら、彼もそこから姿を消した。

 王都で起こったその事件は、やがてまた大きな噂へと変わる。そして、そのたびに目撃される黒衣の剣士の噂も、また様々な尾ひれがついて広がっていくことになるのだった――



 その日、晴れ晴れとしているのは彼だけだった。
 ザファルバーンの王都の片隅にあるカタスレニア地区。その場末の酒場に、ごろつき崩れの男達が、今日も昼間からたまっている。そんな中に、急に底抜けに明るい声が飛び込んできた。
「やー、皆さん、今日もつつがなく飲んでますかーっ!」
 どんよりした酒場に、場違いに明るく飛び込んできたのは、今日も今日とて、金を持たずに酒場に遊びに来たいつもの三白眼男だった。
 ここ数日ふらっと姿を見せなかったシャー=ルギィズだが、たまに姿を消すこともあるので、別になんらおかしくもない。ちょっと姿を見せないと、どこかでとんでもない目にあっていそうな気もして不安なのだが、隣にいると鬱陶しい。それが、いつものシャー=ルギィズで、今日も相変わらず、いるといるとで鬱陶しい。だが、それでもシャーが現れると、何故か妙に場が盛り上がるのであるが、今日だけはどうも、彼の姿を見ても誰も声を上げようとしない。
 一方、そういう違和感を感じることもないほど、今日のシャーは上機嫌だった。場の空気など全く読まずに、妙に完璧なステップでぐるぐる回りながら、彼は酒場の中に入ってきた。
「今日は、オレものすごい機嫌がいいのよー! 酒を際限なく飲めるようなそういう気分〜! ね、お前達、オレにおごりたいでしょう! そういう顔してるよー!」
 くるくるくると回りながらそんなことを言うシャーをみやりながら、みなはため息をついた。
「兄貴、飲んでる場合ですか?」
 カッチェラが冷めた目でこちらを見てきた。
「いまや町中殺人鬼のことで持ちきりですよ」
「ナニソレ?」
 シャーといえば、何も知らないのかきょとんと例の三白眼をぱちぱちと瞬かせている。
「本気で知らないんですか?」
「ぜーんぜん」
 シャーは、肩をすくめて言った。
「ん〜? なんかあったの?」
「……数日間姿を見せないと思ったから、寧ろ通り魔の犠牲になってるかと思いましたよ」
 別の弟分が、あきれ混じりにため息をつく。無事だった兄貴は、苦笑した。


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