「それじゃあ、これは洗ってつくろっておくわね。まだ使うのでしょう?」
「……いや、それは……」
 慌てて言い直そうとしたが、リーフィのほうは、あ、と何か気付いたような顔になった。
「そうだわ。血の跡を見られるとよくないものね。ちょっと、玄関先あたりに、水をまいてくるから、ちょっとそこで待っていてね」
「………」
 ジャッキールは口をあけはしたのだが、結局それ以上何も言えずに黙り込み、呆然と外に出て行くリーフィを見送ってしまった。



 夜道をひたひたと帰りながら、ゼダは、かすかににやついていた。
「今頃、あの野郎、オレがいねえことに気付いて焦ってやがるだろうなあ」
 そういって、ゼダは忍び笑いを禁じえなかった。
 先ほどまで、シャーと一緒に、不穏な輩と剣を交えていたゼダだが、シャーが彼らを押さえ込むのに一生懸命になっているうちに、自分だけするりと抜けてきたのだった。それは随分鮮やかなもので、敵のうちの数人も気付かなかったし、シャーですら気付いていないほどだった。それで、今、ゼダは、一人、人気のない道を夜陰にまぎれつつ、帰途についているのだった。
 それにしても、気付いた時のシャーの顔を思い浮かべると。ゼダの口元には、大きく笑みが広がる。シャーの奴は、滅多に見られないほど焦って、それから、烈火のごとく怒り出すに決まっているのである。あの青みを帯びた三白眼が、天をにらんでいるに違いない。
「へへへ、まァ、おめえさんにゃあ悪いが、オレは今日は疲れちまってるんだよ」
 ゼダは、そういって笑った。さて、これからどうしようか。さすがにしけこむにも、刻が遅い。ザフのところによれば、どうせ上着はどうしたのかとか、色々ととやかく言われるのが目に見えている。忠実で機転の利くいい使用人だが、ゼダとしてはいい加減坊ちゃん扱いはよして欲しいところもあるのだった。
 赤い上着もないままに、ゼダはふらふら歩きながら、顎をなでやる。
「シーリーンところに寄るってのも悪いだろうしな。アレはもう休んでいるだろうし、休んでなければかえって心配だ」
 会っていない間に、なにか無茶をしていないかと、それはそれで心配だが、自分が行くと、あの娘が過剰に気を遣うことをゼダはよく知っている。だから、時々しか寄らないのであるが、それにしても、シーリーンの名前が、いきなり自分の口から飛び出たことに、ゼダは薄く自嘲の笑みを浮かべた。
 ということは、今日は大人しくどこぞの宿にでも泊まることにしようか。
 ゼダがそう考え、金の算段をしようとしたとき、ふと小さな声が聞こえた。
「確かに渡してくれるのだな?」
「はい」
 ゼダは、息を潜めると、そっとそちらの方に近づく。といっても、近づきすぎては、相手に悟られる。ゼダは、相手の声が聞こえて、しかも、悟られないぎりぎりの場所に位置を取った。
 壊れかけのレンガ塀の向こうの道で、馬車が止まっているのがかすかに見えた。ゼダは、その塀に身をつけながら、話をきく。
 馬車からほんの少し顔が覗いているのは、貴族風の男だった。
(カディン卿だな)
 その、見覚えのある風貌をちらりと垣間見、ゼダは素早く相手を判断した。これはまた、絶妙なタイミングで出会ったものだ。先ほど、自分とあの黒衣の男を襲ったのは、まず間違いなくカディンの手先に違いないのである。ということは、ここに来ているのは、さしずめ高みの見物といったところか。
 では、もう一人は?
 ゼダは、相手を探ってみるが、その顔ははっきりとしない上に、馬車の陰に隠れてしまっていて見えない。もう少し前に行けば見えるかもしれないが、そういう危険を冒すのはゼダとしてもまずいと思った。ここの位置からは馬車にいるカディンと男しか見えないが、カディンが一人で歩き回るはずはない。必ず、ボディーガードの男達が数人ついているはずである。
「まあ、慌てる必要もないでしょう。もう少しお待ちください」
「とはいえ、本当に渡してくれるのだろうな?」
 カディンは、もう一度確認するようにいい、わずかに眉をひそめた。
「ええ、ご心配には及びません。全て終わりましたら必ず」
「そうか、ならば、貴様のすすめにしたがった甲斐があるというものだ」
 カディンは、信用することにしたのか、少々ほっとした顔を覗かせた。
「しかし、先ほどのことは本当か? あの傭兵、深手を負ったのだな?」
「卿。私の方からも、隊長からきいております。ですが、そこから、数名を斬って逃げおおせたという話です」
 カディンの側についているらしい男が、そう補足した。
「しかし、あの傷では逃げられるとは考えられません。役人もいることですし」
「確かに。貴様がそういうのであれば、そうであろうな」
 カディンは、そういい、腕を組んだ。


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