ハルミッドは、わずかに顔を上げて、ぽつりとつぶやいた。服が赤く染まっているのを見ながら、ジャッキールは、ハルミッドが肩口から斬られているらしいことを知った。伸ばしてくる手にも赤い色がはっきりと見える。
「しっかりしろ! 何があった!」
ジャッキールは、ハルミッドを抱き起こしたが、一目見てもう助からないことはよくわかった。その顔には、すでに死相が浮かびつつあった。ジャッキールは、弱った老人の虚ろな瞳をみやりながらたずねる。
「誰だ! 誰にやられた!」
「メフィティス、メフィティスが……」
虚ろだが、この期に及んでいまだに剣に取り憑かれたような目は、狂気と紙一重の光を帯びているようだった。何かに取り憑かれたような瞳に、少し寒気を感じながらも、ジャッキールはその言葉をはっきりといった聞いた。
「メフィティス?」
ジャッキールは片眉をひそめた。メフィティスというのは、先ほど鑑定した剣の名前だ。
「あの剣がどうしたというのだ?」
「アレは失敗作だ……。そのままにしておくと……大変なことに……」
声はどんどん小さくなっていく。ジャッキールは、耳をつけるようにしながら聞き取った。
「あれを回収して捨ててしまわないと……」
「なんだ……。何が起こる?」
ジャッキールは、そう訊いたが返事はもうかえってこなかった。ハルミッド、と声をかけようとしたが、ジャッキールは首を振った。目を閉じた彼は、すでに事切れているようだった。
ため息をつき、ジャッキールは、ハルミッドをそのまま床に下ろした。
「……メフィティス、といったな」
うわごとのようにつぶやいていたハルミッドの言葉に、ジャッキールは慌てて室内を探す。ハルミッドの工房の壁には、様々な剣が並んでいたが、メフィティスらしい剣は見当たらなかった。
「まさか……」
もしかして、先ほどの夜盗の狙いは――。ジャッキールが、そう頭をめぐらせてるとき、ふと、悲鳴が聞こえた。
「うわああ! 師匠が!」
ジャッキールは、扉の方を振り向く。そこには、テルラが立っている。その目に浮かぶ驚愕の色が、やがてジャッキールの方に向けられた。そのとき、ジャッキールは、彼が今何を思っているかを理解した。
「ま、待て!」
抜き身の剣を持ち、黒では目立たないが、うっすらと返り血を浴びてもいるかもしれない。そもそもがどこか薄暗い殺気を帯びている、血の匂いのするようなジャッキールである。この状況で、疑われないわけがない。おまけに、テルラは最初からジャッキールに対して警戒心を抱いていた。
「お、お前が、師匠を殺したんだな!」
「お、俺ではない!」
ジャッキールは、さすがに焦った様子で首を振った。
「俺が駆けつけたとき、すでに下手人は去っていたのだ! 俺ではない!」
だが、テルラは聞き入れない。叫びながら逃げていくテルラを見ながら、ジャッキールは慌てて立ち上がった。
「ちょっと待て! 俺ではない! 話をきけ!」
テルラをおいかけて、外に出ようとしたジャッキールは、ふと馬蹄の音をきいた。それが何を意味するかすぐにはわからなかったのだが、テルラがそちらに大声で何か言いながら、近づいていっているのを見やり、ジャッキールは、身を翻した。テルラの安堵したような声と、話している内容が聞こえ、ジャッキールは自分の考え方が正しかったことを知る。
ちらりと背後に目をやると、闇に慣れた目に、見覚えのある旗が映った。
(野盗の取り締まりにあたっている役人か?)
ザファルバーンにも治安維持の警察的な組織はある。だが、こんなはずれの村にすぐに来るとは思えなかった。先ほどの夜盗が呼んだのだろうか。それにしても。
ジャッキールは、その黒ずくめの体を夜陰に紛らわせ、駆け出す。後ろから、事に気付いたらしい役人達の声が追ってくる。ジャッキールは、そのまま長身をくらませるように近くの茂みの方に逃げ込んだ。
「どっちに逃げた!」
「あっちだ!」
「黒い服装の男だったぞ! 剣を持っていた!」
声がいくつか響く。ジャッキールは、軽く息を整えながらも、気配を殺す。さすがにここで大立ち回りをやるわけにはいかない。
数人の足音が去っていく。音が遠ざかり、背後に気配がなくなってからジャッキールは、ようやく一息つく。
「……アレは役人のようだが……連中が誘き寄せたのか?」
チッ、とジャッキールは舌打ちをした。いくらなんでも役人が来るのが早すぎやしないだろうか。だが、役人が相手になると、さすがのジャッキールも少々困る。
「まずいな。役人を斬ると、後が面倒だ」
つかまるのも面倒だが、だからといって斬り捨ててしまえば、本当につかまる口実を作ってしまう。
「かといって、このままでは、俺が本当にハルミッドを殺したとしか思われないな」
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