(こ、こんの野郎。ぶつかった相手がオレだって知ったときに、わざとすぐに追われてることをいわなかったな!)
 妙ににやにやしているゼダに、シャーはますます腹をたてた。
「ネズミ野郎、後で覚えてやがれ!」
 だが、ゼダは相変わらずである。にやりと口元を歪ませて笑って、こんなことをいってのける。
「悪いね、オレは物忘れがひどいもんで。女の名前と顔でもない限り、ぜんぜん頭にはいらねえんだよ」
 ひくりとシャーの口元が引きつった。
(いっそこのこと、この場で一緒に始末してやろうか! このドブネズミ!)
 シャーは、そんなことを心のうちで吐き捨てつつ、目の前に迫る男達を見やった。ともあれ、今はネズミなど相手にしていられない。




 黒い闇に赤い光が飛んだ。
 地面に叩きつけられた後、すりむいた膝の痛みを感じながらレルが見たのは、そんな赤い色だった。でも、それを赤い色と見たのは、視覚が混乱したからかもしれない。なぜなら、暗い夜に月明かりだけでその色がはっきりと見えるはずもないし、第一、その赤が飛んだのは、闇夜よりも黒い布の上にだったからである。
 一度火花が飛んだあとだったような気がする。いきなり、地面に水滴が落ちる音がして、レルは、起き上がった。
 目の前には男が立っていた。先ほど、入ってきた黒服の男だが、その男の足元で、ぼたぼたと音が鳴っていた。
「……き、貴様ァ……!」
 ジャッキールは、呻くような声で相手に言った。相手は、何も答えない。顔をみせないまま、暗闇にいる。
「お、おじさん!」
 レルは、ようやく状況を把握した。あの時、あの男が自分を突き飛ばしたとき、目の前の黒服の男は剣を振るうところだった。あの時、斬られると思ったのだ。しかし、彼女にやってきたのは別の衝撃だった。いきなり腕をつかまれて、そのまま彼女は前に引っ張り込まれたのだ。そのままレルは転んでしまっていた。
 そうだった。ジャッキールは、あの時、振り下ろせた剣を止めたのである。そして、レルを助けた彼には、大きな隙が出来てしまった。簡単に払えたはずの一撃をそのまま、左肩に受けてしまった。それでも、ジャッキールは、最低の防御に入ってはいたようだった。それは彼がかろうじて致命傷をおわなかったことでわかる。剣をかえして、ぎりぎりで傷をなるべく浅くすることはできたのだろう。
 だが、裾まで引き裂かれた黒いマントは、すでにさらに血で黒く濡れていた。
「あ……」
 レルは、口を押さえた。いくら剣を知らない彼女でも、黒服の男が自分のせいで傷を追った事実ぐらい把握できる。レルに気付いて、ジャッキールはそちらに目を向けた。
「何をしている! 早く逃げろ!」
「お、おじさん……」
「早く行けといっているのがわからんのか! 殺されるぞ!」
 その声にびくりと方を震わせて、彼女は慌てて走りだす。ジャッキールは、彼女が駆け出したのを確認し、男の方に目を向けた。彼は、ジャッキールに追撃をくわえるでもなく、少女を追いかけるでもなく、ジャッキールが目を返した直後、突然走りだした。逃げようとしているのに気付き、ジャッキールは、剣を振るったが、相手のほうが早い。剣が空を切り、男はそのまま、夜の闇に乗じて消えていく。
「待て!」
 ジャッキールは、そのまま足を運びかけたが、目の前の視界が揺らいだ。直後、一瞬遅れて激痛がジャッキールを襲った。眉をひそめつつ、ジャッキールは左肩を押さえて、片ひざをついた。
「ぐ……。くそっ!」
 奥歯をかみしめ、ジャッキールは、顔をあげる。すでに、男は逃げてしまっている。
「くそ、こんなときに……! あんなしくじりを!」
 一気に血の気がひいた顔が、いつにもまして蒼白に月の光にうつっている。剣を握っている右手で左肩を押さえるが、そう簡単には血が止まらない。
 ふいに、ばたばたと複数人が追ってくる足音が聞こえた。ジャッキールは、思わず唇を噛んだ。先ほど置いてきた例の男達が、まだ彼を追いかけていたのである。
「ふん、……しつこい連中だ」
 ジャッキールは、右手を離して、そのままふらりと立ち上がった。足元にできた血だまりに、黒いマントを伝って血がまだ流れ落ちて音を立てていた。
 すでに周りに、男達が散らばっていた。ジャッキールを取り囲む形を完全にとってから、隊長らしき男が進み出てきた。
「……ジャッキールとかいったな?」
「やはり、カディンの手先か? ……おおよそ、そのようなことだと思っていた。……フェブリスが狙いか?」
 ジャッキールは、目を伏せるようにしながら相手をにらんだ。
「あの方は、剣が欲しいだけだ。貴様の命などどうでもいい」


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