はっ、とジャッキールは軽く笑った。そして、一瞬、その唇が笑みの形を崩し、こちらをその目が向いた時、ジャッキールの上体がぐっと伸びた。直後、目の前に刃物の光がまぶしくよぎる。ゼダは咄嗟に、身を低めて横に飛んでいた。
鋭い風の音と共に、掠った服がやぶれる音が聞こえた。ぎりぎりでそれをかわしたゼダは、さらにそのまま逃げ、続いてきた軽めの一撃を剣を縦にして弾く。
(何が月が南中するまでだ? もう勝負をしかけてきやがって!)
ゼダは心の中で吐き捨てる。先ほどの一撃は受け止められないと判断したゼダの行動は正しかった。彼が受けたところで、今のは受け流せるようなものではない。押し切られて、肩から切り裂かれていたはずだ。
「いい判断だ! だが、それがいつまで続くかな!」
ジャッキールの声が追ってくる。避けられたとはいえ、ゼダの不利は一切かわっていない。ここから反撃に転じるべきか、だが安易に反撃するのはアブナイ。
と、その時、ゼダは、何かの違和感に気付いた。が、すでに戦闘にとらわれたジャッキールは、まだそれには気付かない。ゼダは、相手を避けながら気付いた違和感について口を開こうとした。もし、彼が感じたことが「当たり」なら、こんなところで戦っている場合ではない。
だが、彼が口を開くまでもなかった。その次の瞬間、遠くの方で悲鳴があがったのだ。
その悲鳴は、闇に消されるようなわずかなものだったが、それでも、さすがに彼の熱くなった頭を冷やすのに十分だった。戦い以外の現実に引き戻され、彼は、はっと顔を上げる。そして、彼はようやく周囲の状況に気付いたようだった。動きをとめたジャッキールから、いくらか離れたゼダは、からかうように声をあげる。
「お? 顔が変わったな? 何かゴシュジン様におおせつかった用事でも思い出したのかよ。それとも、純粋にアブネエことに気付いたのか? ええ? 狂犬!」
「チッ、生意気を……!」
ジャッキールは、ゼダにそう応じるが、だが、すでに彼の表情は先ほどまでのものと違っていた。そして、ゼダもその理由に気付いている。
先ほどの悲鳴と別に、もうひとつ、後ろでことが起こりかけている。いつのまにか、彼らは周りを取り囲まれているのだった。
「時間をかけすぎたみたいだな」
「……全くだ。少々遊びに熱を入れすぎたようだ」
ジャッキールは、やや唸るようにしながらも同意するしかない。そろ、と衣服の裾をする数人の音が聞こえると同時に、明らかな気配が辺りを包む。
「ああ、なるほどね」
ゼダは、にやりとして、剣を腰の近くに引き寄せた。ゼダは、自分に付けねらわれる理由がないのをしっている。おまけに、役人ならともかく、周りを囲んだ連中は、そんな話が通じそうなまっとうな人間でもなさそうだ。自分でないなら、狙われているのは、間違いなく目の前のこの狂犬じみた傭兵。おまけに、先ほどから見れば、実にいい剣を持っている。
「オッサン、あんたが原因てわけ」
ひく、と眉をひそめ、ジャッキールはゼダを見てから顔をそらす。
「ふん、生憎、貴様の首は次まで預けることになりそうだな、小僧」
「ははは、残念だな。お互いに」
どちらかというと自分が不利だったくせに、そこを偉そうに切って捨ててしまえる辺りのゼダの切り替えの早さに、ジャッキールもさすがに舌を巻く。
「さて、どうするつもりだい?」
「知れたこと。邪魔するなら斬り捨てて走り去るまで。そうだろう?」
「まあな。じゃあ、オレはあっち側に逃げるとするかね」
「……」
要するに、ゼダに、あんたは反対側を通って逃げろと示唆されたわけである。とはいえ、こんなところで揉めても仕方がない。ジャッキールは、先ほどの悲鳴が気にかかっているのだし、特に異論を出すことはなかった。
「さて、じゃあ、そういう方向で。その辺で斬られて死んでたら、ま、花の一本でも手向けてやるぜ」
「ふん」
ゼダの軽口を軽くあしらい、ジャッキールはちらりと周りを見る。彼らはすでに姿を現していた。全員剣を抜いて、すぐに飛び掛ることもできる位置まで近づいてきている。
「じゃあな! 狂犬野郎!」
ゼダは突如としてそう声をかけた。同時に、左側にいた男が、悲鳴をあげる。ゼダが投げた小刀が手に刺さったのだ。ゼダはそのままだっと走り出し、その後を追うように影がついていく。
一方のジャッキールもそれを合図に、同時にそこを飛び出している。目の前に立ちふさがってきた男を突き伏せ、そのまま通り抜ける。狭い路地を押し通りながら、ジャッキールは、先ほどの悲鳴の方向へと向かった。もう手遅れかもしれないが、それでも、今夜は何かがあるような気がした。この月夜が自分に作用したように、必ず相手も、血に飢えてうずくその手を押さえきれなくなるはずだからである。
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