「お、覚えていろ!」
 とうとう、男は、そう吐き捨てて逃げ出した。いや、吐き捨てるのが精一杯だった。その全てをみることもなく、青年は、上着を跳ね上げると身を翻しながら嘲笑う。
「度胸があるのなら、月のない晩にでもオレを待ち伏せしてみやがれ。返り討ち覚悟でって事だがな」
 低い声でそう脅し、彼は上着を肩にかけながら、娘の方まで進み、ふと表情をゆるめた。
「大丈夫か?」
「ゼ、ゼダさま」
 シーリーンは驚いていた。その反応をみて、ゼダは軽く首をかしげる。
「おや、オレがきちゃいけねえのか?」
 シーリーンは、首をふって大きな瞳で彼を見上げた。
「でも、今日はいらっしゃる予定ではなかったし……」
「予定を変えたんだよ」
 ゼダは、にやりとした。シーリーンが首をかしげる前に、彼は笑っていった。
「お前の顔を見たかったからにきまってるじゃねえか。オレだって、おめえの事が心配だったのよ」
 ゼダはそういって、一瞬、ふと人好きのする顔をのぞかせる。どちらかというとあどけない顔立ちに、まったくといっていいほど幼さの残らない瞳をした男は、自分の顔が他人から見られるかということを知っているらしい。
 相手が遊び人なのは、もうすでに知っているのだが、それでもシーリーンの頬には、少しだけ朱がさした。
 ウェイアード=カドゥサ、というのが彼の公式の名前である。大富豪カドゥサの一人息子である彼が遊び人であることは、有名な話だ。だが、その彼が、ゼダという名前を名乗っているのを知るものは少ない。
 ゼダは、ウェイアードという名前で呼ばれることを嫌い、心を許したなじみの女や部下には、すべてゼダで呼ばせている。その名を知っているものの中でも、普段おとなしい男のふりをしている彼の正体をしるものはごくわずかでもあった。
 誤解されることもあるが、ゼダは女性にとことん優しい男ではある。金で心を買ったりはしないし、金でかった相手でも別に無理を通そうとしたことはない。
 彼の本性を知る妓女達が、彼と遊ばなくなってからも、彼の正体について口をつぐんでいるのは、金のためというよりは、ゼダのある種の人徳ゆえといえるかもしれない。
「それで、体の調子はどうだ? 少しはよくなったかい?」
「え、ええ。おかげさまでかなり……」
 シーリーンはそっと俯くが、ふと何かに気付いたように慌てていった。
「あ、あの……お煙草は?」
「おめえは、煙は駄目なんだろうが。なら、酒だけでもいいんだよ」
 この前、咳き込んだのを覚えられていたのだろうか。シーリーンは申し訳なさそうな顔になりかけたが、その前にゼダが、さっと手を差し出した。
「酒でも注いでくれ」
「あ、は、はい!」
 シーリーンは、慌てて立ち上がり、廊下に出て誰か酒を持ってきてくれるように頼んでいた。それを見上げながら、ゼダは、上着を相変わらずひっかけたまま、そこに座る。見る限り、彼女はこの前よりはいくらか顔色がよくなっているようだ。彼があげたきれいな髪飾りも、彼女によくあっているようでもある。ゼダは、安堵のため息を、こっそりと知られぬように漏らすのだった。


 ここのところ、ゼダは、部下の縄張りや花街を渡り歩きながら転々としていた。というのも、ここのところ起きている殺人事件とやらに、自分が関わっているという噂が流れたためだ。もちろん、彼には身に覚えもないことである。
 表向きは、ザフに全てを任せているので、あえて自分は隠れておくことにしたのだが、それにしてもゼダにもその事件のことは気にかかる。自分も巻き込まれた形であるし、調べてもいいだろうともおもったのもある。
 だが、行動を起こす前にどうしても彼女のことが気にかかったのもあり、隠れる目的ついでにここに通ってきたのだ。
 酒を注いでもらいながら、ゼダはふと眉をひそめた。何となくシーリーンの顔が曇っているような気がしたのだった。
「どうした? 加減が悪いのかい?」
「い、いいえ。違います」
 シーリーンは、慌てて首を振った。ゼダは、いぶかしげにさらに訊く。
「じゃあ、どうしてだ?」
 はい、と答え、シーリーンは、目を床に落とした。
「ゼダさまは、わたしにあれこれよくしてくださいますが、わたしのほうはお世話になりっぱなしで……」
 シーリーンはため息をつく。
「あまり気もつかないし、わたしはご迷惑ばかり」
「またそういうことを気にしているのか? ……かまわねえよ。オレは、どうせ気まぐれで金をばら撒くぼんくら息子だ。むしろ人助けになるぐらいだったら、オレがありがたいぐらいよ」
「でも、わたしは何も出来ません」
 シーリーンがため息をつくと、ゼダは杯を一度おき、優しく微笑する。
「見返りが欲しくて通ってるんじゃねえ。おめえの顔を見に来ただけだといってるだろう?」


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