力だけならバレンのほうが強い。シャーは、思わぬ一撃に煽られて、後退しながらたたらを踏んだ。だが、その口調が示すとおり、彼にはふざけるだけの余裕がある。
「今の、ちょっと感心したぜ。さすがのオレ様も見誤ったって感じかな。そこまで動けるとは思わなかったぜ、バレンさん。」
 シャーが口笛を吹きながら楽しそうに言った。大きな三白眼の目が、わずかに細くなる。
「どーせ、ぶちのめすなら雑魚よりも強い奴をやったほうがいいからなあ。せいぜい楽しませてくれよ…!」
「ほざきやがってッ!」
 怒りに任せて一閃したが、それはシャーにがっちり押さえ込まれた。受け方にもあるのだろうが、痩せた細いからだのシャーのどこにそんな力があったのかわからない。バレンは唸りをあげながら、彼を押さえつけようとしたが、びくとも動かなかった。
「くそっ! てめえ!」
 ぎりぎりと音を立てる鋼の音に、いらだった声をあげると、シャーは不意ににやりとした。
「力だけじゃあ勝てないぜ、バレンさん。…たまにゃ、頭使えよ。」
 人が変わったようなシャーの表情に、バレンは少しだけ恐怖を覚える。
 その瞬間だ。バレンが、シャーの表情に怯えを見せたとき、不意に彼は身を引いたのである。滑らかな猫のような動きで彼は身を沈め、刀が振り降りてくる前に自分の手にある剣で斜めに空気を裂いたのだ。
 途端、赤い飛沫が空中に飛ぶ。リーフィは血の予感に身を硬くしたが、それはバレンの右腕を浅く切り裂いただけだった。だが、それと同時にバレンは握っていた刀を取り落としてしまっていた。彼を戦意喪失に追い込むにはそれで充分だったのだ。
 今、バレンの命はシャーの機嫌一つにかかっている。月光にうすら笑うシャーの、青みがかった瞳だけが獣のように光って見えた。
 血が一筋張り付く刃をびゅっと振るい、シャーは冷徹な目で男を見た。路上に飛び散る赤いあとには、目もくれないでただ冷たい目でバレンをみているだけだった。リーフィですら、ぞくっとするほど、その時のシャーは知らない別の男のようだった。
「今なら、命だけは助けてやるぜ……。退きなよ…。」
 シャーの声はあくまで静かだ。だが、高圧的に叫ぶよりも、効果的でもあった。まず、ぎゃあああと声をあげて逃げ始めたのは、バレンの戦いを見ていた彼の部下達である。一人が逃げれば、他の連中もそれに便乗した。叫び声をあげながら、彼らはそのまま一目散に逃げていく。声も出ないバレンだけを残して、とっとと逃げ去っていく。
「お、おい! お前らっ!」
 ようやく声を絞り出したバレンは、突然突きつけられた切っ先に、ひっ、と喉の奥で悲鳴を上げた。
「で、あんたはどうするんだ?」
 シャーはへたりこんでいたバレンを見下ろしながら訊いた。
「さっきも言ったよな…。今なら命だけは助けてやる。リーフィから手を引きな。ついでに借用書も破ってやれよ。…そうだ、あんた、今もってるんだろォ?」
 ひょいとシャーは切っ先をバレンの喉に触れさせた。冷たい射抜くような青い瞳をむけ、彼は続ける。
「…どうせ、リーフィに取引を持ちかける気だったんだろうが。借金をちゃらにしてやるから、その中のものをよこせってさ。」
「う…、それは…」
 バレンは低く唸る。
「さて、それをオレに渡せばあんたを解放してやるよ。十数えてやっから、その間にオレに渡せ。それとも、五秒のほうがいいか?」
「まま、待て! わかった! 渡せばいいんだな!」
 バレンは焦って震える指先を懐に突っ込んだ。そのまま、一枚の紙切れをぐしゃぐしゃにしながら出してくる。バレンの指先が紙を握り締めるたびにがさがさと音が鳴った。
「こ、これだ!」
「ありがとさん。」
 シャーは、剣を握っているのと反対側の手でそれを受け取ると空中で広げて月明かりに照らした。ざっと読み、それが本物であることを確認し、彼は突然あとずさった。
「筆跡からみても本物だな。いいだろう。とっとと逃げな。」
 シャーはそういうと、バレンから引いた刀に紙をひっかけ真っ二つに裂いた。それから手で復元できないようにばらばらにちぎる。シャーの注意の半分が紙切れにいった瞬間、バレンはようやく我に返った。そのまま、ばたばたと立ち上がり、よろけながら必死で立ち退いていく。シャーはそれを追いかける事もなく、ただ借用書をびりびりにすると、それを宵闇の空気の中に撒き散らした。
 リーフィはようやくそっと身を起こす。シャーは彼女に背を向けたままだ。どんな表情をしているのかもわからない。
「シャー…あなた…」
 リーフィの声に、シャーは首を振った。
「まだ、そこから動かない方がいいよ。リーフィちゃん。真打っていうのはねえ、最後にでてくるから価値があるもんなんだよ。」


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