シャーは、もう一度テーブルを蹴った。サンダル履きの足の指から血がにじんでいたが、それにすら気を止めなかった。誰もシャーを止める者はいない。いつもは、怒りなど表には出さない彼を、止める権利はその時、彼らにはなかった。




 まちはずれに馬車がとまっていた。兵舎での争いもおさまったらしく、街は静まりかえっている。一人の男が足音を忍ばせながら駆け寄ってきた。そして、中の男にそっと報告する。
「どうやら、企ては失敗した模様です」
「……でしょうな。この静けさは……」
 ラゲイラはため息をついた。
「ザミル王子はやはり油断をしましたね。すべて、あのハビアスが打った手といってもいい。シャルル=ダ・フールはそれほど悪運の強い男なのでしょう。あれほど甘く見るなと言っておいたのですが。……私もやり方を変えねばなりません……」
 それから、と言いにくそうに伝令の男が言った。
「ジャッキール様が裏切ったとか……、ベガードを殺したとの目撃証言があります。彼の生死行方はともにわかりません」
「ジャッキールさまが?」
 ラゲイラは指を組み替えて、なにやら考えた後、少しため息をついた。
「あの男は、あれで古風で律儀なところがあります。敵に塩を送ったのを誰かに見られたのかも知れません。ベガードもおろかなことを。彼がそうするのはわかっていました。当初、私が彼と結んだ約束の中にも、彼のそういう行動は許すとしていましたからね。けれど、あの男は、こちらが信じている限り、裏切ったりはしなかったでしょう」
 彼は、ぽつりとつぶやいた。
「おそらく、ザミル王子ですね。ベガードに、反逆罪で彼を殺せと命じたのでしょう。……彼は、約束が破られたと思ったのかもしれません」
 ラゲイラは、静かに光る目を返して男を見た。
「もう彼は戻らないでしょう。……よろしい、新しい傭兵を雇いなさい」
「は、はい」
 そして、男は下がっていく。
「やはり、彼は私とは道を異にする運命だったのかもしれません」
 やがて闇に消える男をみながら、ラゲイラは馬車を操る御者に告げた。
「さあ、参りましょう。……ひとまず身を隠さねば、我々が危なくなる」
 御者はうなずくと、馬を鞭打つ。進み始めた風景を見ながら、ラゲイラはこれからのことを考えていた。一体誰を使うか、一体どんな手だてをつかうか。
 遠くの宮殿は、まだ灯がともっているようにみえた。ラゲイラは、そっと宮殿を眺めながら、深いため息をついた。
「あなたとの勝負は長丁場になりそうだ。シャルル=ダ・フール」
 そうぽつりと言い残して、ラゲイラは去っていく。からからと回る車輪の音が、寒い真夜中の街に響いていった。



「陛下ー! 大丈夫ですかっ!」
 大声がその場の緊張を破る。赤い燃えているような髪の将軍が武装したまま走り込んできた。
「なんだ、遅かったな。ジートリュー」
 ハダートは、相変わらず壁に寄りかかったまま、嘲笑うように言った。
「で、ラゲイラは捕まえたか? どーせ、逃がしたんだろ」
「やっ、やっかましいわっ! 今、それを言おうとしたのだ!」
 図星を指され、ジートリューはかっとしたが、ハダートは相変わらず皮肉っぽい口調で続けた。
「大体、お前は粗が多すぎるからなあ。丁寧に探さないからこういうことになるんだ」
「何だと! 状況見て立場を決める貴様と一緒にするな! 私は大変だったんだ!」
 ジートリューが、その髪の毛に近いほど顔を赤くして、しらけた顔のハダートの胸倉をつかんだ。
「あっ、いいよいいよ。いいから、喧嘩しないでよ」
 いきなりシャーが割り込んできた。先ほどまで、周りが声をかけられないほどだったシャーの顔には、怒りのかけらも残っていない。
「いいからいいから」
 シャーは手を振って、いつものようにへらっと笑った。
「二人とももういいから。どうせあの狸オヤジだろ。……逃げると思ってたよ。多分、ザミル以外にも王様候補がいるんでしょ。……しばらく地下にもぐるだろうから、平和になっていいじゃない」
「し、しかし……!」
 まだジートリューが食い下がろうとするのを、ハダートが目でたしなめた。本人がそういうのだから、これ以上追求するなということらしい。
「今回は色々ごめんよ、お二人さん。オレ、迷惑かけちゃってさあ。特にハダートちゃん、色々フォローありがとう〜」
 シャーがなれなれしくそういい、ハダートの肩に手をかける。
「これからは、せめて不意打ちでやられて連れ去られるのだけはやめてください」
 ため息混じりにハダートは言った。
「あー、ごめんね〜。……ついついやられちゃってさあ」
「殿下は昔からついついが多いですからなあ。ついとかいって、移動中、姿くらませた時は、我々カッファと共に、どう殴り倒そうかと思ったものですが! これも懐かしい!」


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