ぱしゃっと音を立てながら、シャーは水に足をつっこんだ。サンダル履きの足で、水面をけりつけながらそのまま走っていく。
「アズラーッド」
背中から声をかけられ、シャーは振り返った。ジャッキールは、曰くありげな笑みを浮かべていた。その顔がいかにも意地悪そうで、シャーはふと首を傾げる。
「貴様がシャルルを嫌おうが、貴様はシャルルを助けるだろうな。なぜなら、シャルルは、今、死にたくないからだ」
目を丸くするシャーを後目に、やや得意げにジャッキールは続けた。
「一介の剣士の俺には所詮わからんがな、王族というのは、実に面倒なものだ……。そうだろう? アズラーッド?」
シャーは、驚いたような顔をして、それからにやりとした。
「……さぁ」
シャーは、肩をすくめた。
「オレも一介の剣士だから全然わかんないよ」
それから、困惑したような目をむけた。
「ったくよ、あんた、ホーント、性格悪いんじゃねえのお? だーから、女の子にもてないんだ。陰気だしっ!」
ふん、とジャッキールは鼻先で笑った。シャーの立てる、水のぱしゃぱしゃという音が遠くなる。そのまま、彼は通路の奥の闇に消えていった。
「先ほどはああいったが、哀れといえば何のしがらみもない俺より貴様のほうが哀れかもしれん。……剣では、しがらみは切れんからな。不憫といえば不憫だが」
ジャッキールは、目を閉じ、彼には聞こえない小声でポツリとつぶやいた。そして、自分もきびすを返すと、そのまま自分がさししめした右側の通路への道を急いだ。
彼にとっては、すでに自分の役割は終わったも同然であった。後は、彼は手駒の一つとして決められたとおりに動けばいい。なぜならば、後はあのシャー=ルギィズが全ての決着をつけることになるのだから。
……そして、もちろんシャルル=ダ・フール自身が……
ジャッキールは右側の通路へと入り込んだ。そして、彼はまだ気づいていなかった。先ほどのシャーとジャッキールの会話の一部始終を、一人の男が通路の闇に紛れて、全て聞いていたということを――。
そこで微笑むのは、上品な貴公子だった。くるりと巻いた髪の毛に、大きくて優しい瞳、整った鼻に青白い顔。とても美しい青年だといえるかもしれない。少し顔色が不健康そうではあるが、すっきりとした顔立ちで、すらりとした鼻に、穏やかで知的な目、どこかしらラハッドなどと共通した気品の感じられる顔だった。
「あ、あなたがシャルル?」
シャルルらしい青年はゆったりと微笑んだ。
「でも、シャーと、あなたは、ま、まるで別人じゃないの……?」
「ああ、そうか。君はまだ知らなかったのかな?」
シャルルは優しい笑みを浮かべた。その笑みは、上品でいて優しくて、ラハッド王子と似たような空気が漂っていた。ラティーナは、思わず敵意を忘れた。
「……だ、だって、そうでしょう? シャーはあなたの影武者をつとめていたと聞いたわ。でも、あなたとシャーでは顔が違いすぎる。……影武者だなんて」
「彼がそれでいいといったんだよ。……だから、そうしたんだ。もっとも、もっと詳しく話さなければならないようだけどね」
想像していたシャルルとはまったく違い、ラティーナは思わず短剣を下げてしまった。シャーが影武者を勤めていたぐらいだから、ああいう顔をしているのかと思ったが、まったく違う。おまけに、到底、彼があれほど憎みそうな気がしない男だった。
「君に先にあえて良かったよ、サーヴァンの姫君。一応、ハダートからそういう噂を聞いてはいたんだけどね。君に先に事情を話した方が、彼もいいだろうと思って」
「……ま、待って。あなたは…………」
ラティーナは戸惑いながら、後退した。顔をじっと見ている内にとうとう思い出した。ラティーナは何度か、城の行事に呼ばれたことがある。シャルルはその時いなかったが、彼はいたような気がする。その時呼ばれた名前を、彼女はようやく思い出したのだ。
「あなたは…………もしかして……」
「ラティーナさんといったかな? 手短に話をしなければならないが、シャルルは、ラハッドを…………」
シャルルがそう話し掛けたとき、突然、扉が開いた。
「兄上、ザミルでございます。……危急の用で…………」
そういいかけ、顔をあげる。ラティーナが先に来ていることにも驚いたようだったが、ザミルは明らかにシャルルの方をみて驚愕していた。
シャルルは、ラティーナから目を離し、ザミルの方を見やった。
「……ザミル、久しぶりだね」
「お、お前は――」
シャルルは、すっとラティーナからザミルの方に向き直った。病気がちの彼の身体は痩せていて、少し頼りなげにも見えたが、彼には独特の、王者の気迫といえるような雰囲気が備わっていた。
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