と、その時、不意にシャルルがこちらを振り返ったのだ。ラティーナは、びくりとした。しかし、何があっても短剣を下ろす手は止めない気だった。なのに、ラティーナは一瞬、驚いて、短剣を下ろす手を止めてしまったのだった。それは、シャルルの顔を見てしまったからである。それは――。
「あ、あなた……ど、どうして?」
 シャルルとおぼしき人物は、さすがに面食らった様子だったが、ラティーナを見て、そうか。と軽くうなずいた。
「もしかして、君がサーヴァンの姫君かな?」
 シャルルは、にっこりほほえんで、短剣をかまえたままのラティーナの方を見た。驚いて口を開いたままの彼女に、シャルルは、その短剣を見ながらおっとりと言った。
「そうか。サーヴァンの姫君。見たところ、まず、君の誤解を解かなければならないようだ」


 走る。走る。走って、また切り返す。
 暗黒の世界から僅かに照りかえる冷たい光が、敵の刃の位置を教えてくれる。シャーは暗い道を移動しながら、ジャッキールと斬り合っていた。
「ち、畜生」
 息を切らしながら、シャーは走る。このまま、なるべくなら逃げ切ってしまいたかったが、ジャッキールはそれほど甘くない。
 うすい光の中、ジャッキールの影が揺らめいている。いささか場違いな水の音がさらさら静かに聞こえてくる。くっとジャッキールの笑い声があがった。
「俺を舐めたな! アズラーッド!」
 ビッと横から飛んでくる鋭い突きを、すんでのところでかわし、シャーは、地下道の壁際、ちょうど路面に水がかぶっていない、ひときわ高い場所を伝うようにして逃げる。こちらのほうが水の抵抗がない分早いのだ。
 人二人分ほどの、通路状態になっているそこを走りながら、シャーは、ジャッキールを巻こうとしたが、いきなり、マントを引っ張られ、シャーは、仰向けにバランスを崩す。
「くそっ! しつこいぜ!」
 シャーは、毒づきながら後ろに向けて剣をつくが、ジャッキールが振ってくるほうが早かった。剣ごと弾き飛ばされ、シャーは壁にぶつかりながら、下に倒れこむ。追い討ちのジャッキールの剣が、路面の湿った石畳に突き刺さるのは、シャーがそのまま転げて水のあるほうに逃げ込もうとしたからだ。 
「逃がすか!」
 すかさずジャッキールの左手が、シャーの喉もとを押さえつける。シャーは喉を締め付けられる形になって、一瞬咳き込んだ。
「死ね!」
 すかさず、ジャッキールは右手の剣をそのまま振り下ろしてきた。シャーは、体をひねって紙一重でそれを避けると、ジャッキールの手をふりほどいて、そのまま転げて地下水道の中に逃げ込んだ。
 水の上まで来て、ようやく両足をつけて起き上がり、シャーはそのまま走る。だが、ジャッキールはすばやくついてきていた。
「そう簡単に抜けさせんぞ!」
 鋭く光る剣が、暗闇の中から浮かび上がるように飛び込んでくる。
「い」
 シャーは、キッとジャッキールをにらみつけた。迫ってくるジャッキールの剣が巻いた髪の毛を掠る。
「いい加減に」
 シャーは、逃げるのをやめてジャッキールに向かって飛び込んだ。
「しやがれェーっ!」
 シャーは、そのまま懐に飛び込みながら、ジャッキールに剣を向けたが、すかさず、ジャッキールは振るったばかりの剣を返して、それを弾き、そのまま下に向けて鋭く突きおろしてきた。
「チッ!」
 シャーは、舌打ちし、それを紙一重でかわすと、切っ先をたたきこもうとしたが、それはジャッキールも計算していたのだろう。ぎりぎりのところで、刀は彼の柄によって弾かれた。だが、シャーもそれはおおよそ予想していたのだ。
「これで、どうだ!」
 シャーは、弾かれた剣をそのままに、柄のほうを向けてジャッキールに振りあげた。そのまま走りこむ。うまく彼の懐に飛び込んだシャーは、体ごとぶち当たるように、ジャッキールの鳩尾に柄頭を容赦なく叩き込んだ。
「……!」
 ジャッキールが一瞬、息を詰まらせるのがわかった。そのまま、彼を突き飛ばす。ジャッキールは、そのまま勢いで背後の壁に激しくぶつかり、その衝撃で前に飛ばされ、水路の中に倒れこんだ。水しぶきが飛び、大きな音が立つ。
 短く息を切りながら、シャーはそこから離れた。 急に、さきほどまで気にならなかった水音が、ごうごうと響きだした。物音は聞こえない。ジャッキールの姿は、というと、右の半身を水につけ、水路の歩道に半分ひっかかっている。黒いマントが水に揺らされ、死体のようにも見えた。
「や、やったか!?」


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