「もし、呼びに来たら私は少し用で席を外したが、すぐ戻るといえ」
 そして、ふっとあざ笑うような笑みを浮かべる。
「まさかとは思うが、一人で行動しても無駄だぞ。妙な了見など起こすな」
 ラティーナは無言で相手を睨んだ。行動したくても、そんなことが許される状況ではない。それがわかっているせいか、ザミルは、ラティーナをそこに置いて、女官と早足にどこかにいってしまった。
(……あなたの思うとおりに全てが進むと思わないで!)
 ラティーナはぐっと拳を握りしめた。そのままそっと立ち上がる。
 そうだ、どうせ一人ではどうにもならない。どこにシャルルの部屋があるのかも知らないし、このまま歩いても女官や近衛兵に止められるかも知れない。だが、ラティーナは、そもそも捨て身だったのだ。
(あなたが思っているほど、あたしは甘くないわ!)
 ラティーナはそう強く思い、隠し持った短剣を握った。ふらふらとわずかに歩き出す。シャルルの部屋がどこにあるのかもわからないが、何もしないでザミルの言うままになるのは嫌だった。ザミルに仕組まれたからシャルルを殺すのではない。自分は自分の意志で、ラハッドを死に追いやったあの男に鉄槌を下すのだ。それが終われば死んでも構わない。
 付近は異様なほど静まり返っていて、人気がなかった。報告は入っているはずなのに、シャルルの居室の付近は驚くほど人がいない。それがどういう理由からのものか、おそらくラティーナは知らないだろう。ラゲイラかザミルの差し金だとでも思ったかも知れない。外の警備にしか気が向いていないことも考えられただろう。
 ふと半開きの扉が目に入った。そこにそっと近づいて、そして扉の内を覗く。部屋の中に、青いタペストリーがかかっていた。そこには、王家の紋章らしいものがかたどってある。剣を象徴に据えたそれは、血塗られたこの王家にはあまりにもぴったりすぎて、ラティーナは皮肉に思った。
 と、誰か人の気配がした。中に誰かいるらしい。足音を忍ばせて、そっと内側に片足を入れる。絨毯で足音は消される。そっと中をうかがうが、人の姿はなさそうだった。ラティーナは、何となく安堵して胸をなで下ろした。と、その時。
「ああ、セイルかい? ザミルは呼んできてくれたかな?」
 ふいに声がした。ソファの方に誰かが座っている。頭には水色の布を巻き、青い上着を着ているのがここからでもわかる。どこか頼りなげな痩せた印象があるが、優しい声だった。
(まさか……)
 ラティーナは、一瞬顔の血の気が全て引いたような気がした。ふっとめまいのように、目の前がぐるりと回る。
「そろそろ呼んできてくれてもいいよ。……私が話をしよう」
 声はもう一度聞こえた。その声の語った内容で、彼女は、その男が誰であるか、はっきりと悟る。
(こいつが……シャルル=ダ・フール!)
 思わず短剣を取り落としそうになる。指先がかたかたと震えて、上手く動かない。顔色も真っ青なままで、唇はまっしろになっていた。
 それでも、彼女が足をふらりと進めたのは、それほど決意が固かったからだろう。
「カッファも彼も怒るかも知れないが、それでも、本来私も片を付けなければならない問題なんだ」
 シャルルは、振り返りもしていないのにラティーナをセイルという部下と間違えているらしく、そうぺらぺらと話している。
(こいつが……)
「だから、今回は私に任せて欲しいんだよ」
(ラハッドを……)
 ラティーナの目に、優しかったラハッドの顔が思い浮かんだ。
「決めつけはよくないし、ひとまずは話し合ってみないとならないだろう?」
(殺しさえしなければ……)
 あの時のラハッドの白い顔が、口許の赤い血が、あの時の張り裂けそうな感情が、全部いっしょくたになって押し寄せてきた。ラティーナは、そのまま足を進めた。いつの間にか指のふるえは止まっていた。手に銀色に輝く短剣をかざしながら、彼女はつかつかと進んだ。
 シャルルは後ろを向いたままだ。顔は見ないでおいたほうがいい。シャーがシャルルの影武者を勤めていたぐらいだから、きっと顔は似ているのだ。シャーを思い出せば殺せない。
「どうしたんだい? 返事をしないなんて、おしゃべりな君らしくないな、セイル」
 シャルルは、怪訝に思っているらしいがそれでも振り返ろうとしなかった。
(あたしはラハッドと幸せに生きられたのに!)
 ラティーナは短剣に渾身の力を込めた。
(全部お前が悪いんだ!)
 ラティーナは、かかげた短剣を振り下ろした。


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