ジャッキールは、そんな視線を気にする暇もなく、ただすたすたと歩いていった。彼の向かう先は、この屋敷の主人がいるはずの場所である。
 ラゲイラの寝所の近くまで来ると、女の召使が、まだ何か歩いているのが見えた。今日はラゲイラも忙しくしていて眠っていないということだろう。
 ジャッキールは、彼女に近づく。彼に気づいて、少し身構える召使に、彼は丁重な言葉遣いでこう言った。
「夜分にすまぬが、卿にお目通りしたい。非礼は承知の上なのだが、至急伝えたいことがある」
「ど、どなたでしょう……」
 召使の女は、ぎくりとしたように彼を見た。彼の顔は知っているはずだったが、それほど印象が違うのか、彼女はジャッキールを見間違えたらしかった。
「ジャッキールがきたと伝えていただきたいのだが」
「ジャッキールさま?」
 彼がそういうと、彼女は目をしばたかせてジャッキールを見上げた。相変わらず不気味で恐ろしい印象はあるのだが、今日はジャッキールが少し元気がないせいもあって、ずいぶん印象が違って見えた。
「は、はい。……か、かしこまりました」
 召使は、彼の変化に驚きながらも、一礼して向こうのほうに歩いていく。ジャッキールがしばらくそこでたたずんで待っていると、割りに早く彼女は彼の前に戻ってきた。だが、その顔が少しこわばっているのを見て、ジャッキールは軽く失望を覚えた。
「申し訳ありません、ジャッキール様。ラゲイラ様は、現在忙しくされておりまして、あなたとお話をするお時間がないとのことです。あなたには申し訳ないとおっしゃられておりましたが……その……」
 主人からの言葉を伝え、彼女はジャッキールのほうをおびえながら見やった。前は目が直接見えなかったが、今度は目の表情が直接うかがえるので、少し怖かったのだ。もしかしたらジャッキールが怒り出すのではないかと思い、彼女は身をかたくしていたが、ジャッキールの目に浮かんでいるのは、予想通りになったことへの失望ぐらいだった。
「……そうか。卿はお忙しいのだな。ならば、仕方がない」
 ジャッキールは、ため息をついて目を伏せ、思い立ったように顔を上げた。
「では、卿にこうお伝え願おう。……事がすみ、私が戻らねば、そのときは死んだと思っていただきたい。と」
「え……」
 驚く召使に、彼は再び言った。
「戻らぬときは死んだと思っていただきたいと……。そういう覚悟であるというように伝えてもらいたい」
 ジャッキールはそういうと、懐から銀貨を何枚か出して、召使の手に握らせた。予想以上に多い硬貨と恐いことで有名なジャッキールの殊勝な態度に、彼女は驚きながら、こくりとうなずいた。
 ジャッキールは黙ってマントを翻して、来た道を戻った。
 冷たい空気が、肌を刺すようだ。
 ラゲイラが会うのを拒否したということは、自分は、暗殺計画の中心には入らないのだろう。
(……俺のここでの役目は終わったな)
 ジャッキールはそう確信した。伝えようと思ったこともあったのだが、それを今、自分が口にしたところで、ラゲイラは信じないかもしれない。いや、その前に、彼に伝える方法もない。
(いいや、これでよかったのだ)
 ジャッキールは唇を噛みながらそう思った。
(俺は、最初から権力闘争にはかかわらないという約束だったはずだ。……だとしたら、俺は、それを言うべきではない)
 そう、自分の役目は実地で戦うことだけだ。作戦を投げかけることではない。そういう立場になろうという野心がわいたから、あの時おびえて遅れをとったのだ。
 ジャッキールは自分を戒めるように、こぶしを握った。
「俺が奴を殺せば済むことだ」
 ジャッキールは、静かにだが、はっきりとそういった。暗い闇の中、白い顔に壁の灯火の光を浴びて、瞳が赤く見えていた。
 




 すでに夜半をすぎた頃……。
 ラティーナは、主人のいない部屋で毛布をかぶっていた。
 シャーは、話が終わると、毛布を一枚だけもってそのままドアにたった。どこにいくのか、とラティーナが尋ねると、シャーは少しだけ笑って、
「やだなあ、オレがそんなに無作法な男にみえます〜? 嫁入り前の女の子と一緒の部屋にいるわけにはいかないでしょうが」
 などと、彼らしくもない紳士的なことをいって外に行ってしまった。ああいう軽率そうな彼の口から、そういう言葉がすらりと出るとは思わなかったので、ラティーナは意外に思う。
 それにしても、今日も色々あったとラティーナは思う。ここのところ、特にシャーに会ってから、状況の変化はめまぐるしすぎて、彼女自身も追い切ることはできなさそうだ。ラティーナは、何度も寝返りを打った末に起きあがった。疲れているが、眠るには今日は事件がありすぎた。不安になり、ラティーナは毛布を肩からかけたまま狭い部屋の扉をそうっと開けた。


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