シャーに言われたとおりだった。あの時の自分の剣は遊びの剣だ。本気でやっていたわけではない。剣を折った理由は、遊んでいたからだ。そうでなければ、あんな防御の仕方はしない。中途半端に自分を守ろうとしたから、剣を折ったのである。
いや、それよりも。
ジャッキールは、目を伏せた。
ジャッキールは、今までの戦闘も遊んでいたといえば遊んでいたかもしれない。しかし、あの時は、命をかけて遊んでいた。勝ち負けは関係なく、ただあの戦慄を味わいたかっただけだった。
だが、ジャッキールは、あの時、恐怖した。死を、というのは、厳密には違う。あの時、自分は確かに恐怖して、そして保身に走ったのである。だから剣を折ったのだ。
――一体何を?
ジャッキールは、鏡の自分を見やる。冷たい空気の奥底で、長髪の男が愕然とこちらを見ていた。
(…………俺は、ここで、安心してしまっていたのか?)
あのときに、自分は一体何を恐怖したのか。ジャッキールはようやくその答えを見つけた。
(俺は、……負けてラゲイラの信任を失うことが怖かったのか……?)
ジャッキールは、手袋を嵌めた両手を広げた。指先が引きつるように痙攣していた。
この両手は、かつて自分の血を無駄に浴びた。自分は組織のために自ら覚悟して身を捨てたつもりが、結局裏切られたのだ。幸か不幸か生き延びた彼に、その代償として残ったのは、傷跡と蹂躙された心だけだった。その後、ジャッキールは、組織というものを信用するのをやめた。
だというのに、一体この「体たらく」はどういうことだ。ここにいついて、彼らの信頼を得て、部下から畏怖されることに、ジャッキールは満足していたのだ。そして、徐々に、当初、どうしてラゲイラに雇われてもいいような気分になったのか、それを忘れていたのである。
ここに、もしかして自分は勝手に安住の地を見つけてしまったのだろうか。この居心地のいい夜の闇に、自分は、強さに驕り、ここの境遇に甘えたのではないか。
それがジャッキールの思い込みなのか、真実なのかはわからない。ただ、ジャッキールには、そんな事実がひどく悲しく思えた。
ジャッキールは、ふと思い立ったように、腰にさげてあった短剣を抜いた。鏡の前に光る冷たい刃物の光は、失ったかつての心を呼び覚ましてくれそうだった。
「そういえば、ジャッキールさんが負けたんだってな」
二人組で見回りをしていた兵士が、もう一人にそういった。
「らしいな。……てことは、相手が相当強いってことだろうぜ」
「だな。あんなことがあったばかりだ。以外に卿の行動ははやいかもしれないぜ。……抜け目のない男だからな」
ああ、と兵士は相方の言葉にうなずいた。
「どこに回されるかわからねえが、一応かんがえとかねえとな」
と、彼らはふと何者かの気配を感じて立ち止まった。角の暗い闇のほうから、足音がするのだ。しかも、軍靴を踏み鳴らすような甲高い音が。
「誰だ!」
彼らはめいめいの武器に反射的に手を伸ばした。そのとき、ふらりと人影が姿を現した。
ぬっと出てきたのは、見覚えのない短髪の男。蒼白な顔色だが、端正で冷たい顔立ちに、鋭い目が光っていた。陰気な風貌ではあるが、その角ばった挙動ひとつとっても、武官特有の清冽な潔癖さが漂う男だった。
「貴様ら、何をしている?」
そう聞かれて、思わず彼らは息を呑む。
「い、いえ、見回りを」
威圧的な口調と風貌だったので、思わず丁寧に答えたが、彼らは目の前の男がいったい誰であるかもわからなかった。どうしようと思わず目をあわせそうになったとき、そうか。と男は納得した。
「今夜は何事もおこらぬかもしれんが、念のためにな。役目ご苦労」
彼はそういうと、ずいぶんあっさりと下がった。そのまま、長身を揺らせて、すたすたと歩き去っていく。
「…………い、今の、誰だ?」
「さ、さあ…………」
しかし、あの声には聞き覚えがあった。そして、ああいう挙動にも。だが、もう少し暗くて鬱蒼とした印象があったような気がする。
「ちょっと待てよ。あの声は……」
「ま、まさか、ジャッキールさん?」
そういわれれば、そうかもしれない。だが、前は髪の毛で顔があまり見えなかったので、ずいぶんイメージが違うような気がした。少々退廃的な印象もあったのだが、そういう部分は一切削られてなくなったようだった。
「い、意外だな」
「ああ、しかし、あの人、思ったより若かったんだな」
自分たちより年上だと思っていたが、ああしてみると三十そこそこといったところらしい。
彼らは、怒られないようにしながらも、好奇心のおもむくまま、そっとジャッキールの背中を見送っていた。
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