ラティーナは廊下を進みながら、疑うような目で彼を見上げた。
「あなた、私を連れに来た時の兵士はどうしたの? 疑われるんじゃないの?」
「なあに、それはそれ。これはこれ」
ハダートは、軽く手を振って少し馬鹿にしたような顔をした。
「モノを知らないな、お嬢さん。世の中には、金を握らせときゃ永久に口を閉じてるやつもいるんだよ」
「まさか、袖の下?」
「人聞きが悪いな。ちょっと協力してもらっただけじゃないか。報酬を払って」
何につけても、ハダートは武人らしからぬところがあった。彼は、参謀か文官として仕えた方がよさそうだ。職業選択を少し間違えたのかもしれない。
「とりあえず、向こうの廊下までは案内しよう。そこには、あれが待ってるだろうしな」
「あれ?」
ラティーナは怪訝な顔をして、それから、ふと先ほどのハダートと兵士の会話を思い出す。「あの男」が逃げたとは、もしかして――。
「どういうこと? まさか…………」
何がおもしろかったのか、ハダートは突然にやにやしはじめた。
「例の三白眼の馬鹿が、どうやら逃げ出したらしくてね」
「シャーが?」
ラティーナは、口を押さえた。ハダートは一瞬で、ラティーナのシャーに対する複雑な思いを読みとったらしく、途端、さらにおもしろそうに言った。
「ここから逃げるには、あの馬鹿の力を借りるのが一番手っ取り早いし、安全だな。まぁ、色々問題のあるやつだが、仲良くしてやってくれよ。悪い奴じゃないんだぜぇ?」
ハダートの楽しそうで少し意地悪な笑みを、ラティーナは悪意と受け取った。にらみつけると、彼は手を軽くあげておどけた。彼にしてみれば、ただちょっとからかっただけのことだったようである。
「今、向こうで斬り合いをやってるってさっきの兵士が騒いでたからなぁ。珍しくまともに暴れてるらしいな。あいつにしては、珍しいじゃないか。相当気が立ってるか、それか…………」
ハダートはそう言って、ふと闇を透かすようにして前の方を見、残りの言葉を飲み込んだ。
(相当この気の強いねーちゃんに惚れ込んでるかのどっちかだな。)
だが、それは彼にとっては、かなりの試練になるかもしれない。なにせ、シャーは、シャルルの…………。
「まあいいや。……あとはあんたが決めるといい。あのアホ三白眼を許すも許さねえも、所詮は俺の知った事じゃない」
許す、許さない。ハダートの言葉は、ラティーナの胸に妙にひっかかった。ハダートが、シャーの事を知っていると言うことは、少なくとも、シャーはシャルルの関係者だということだ。そして、何故かラハッドの死に関わっているような気がして、ラティーナは思わず眉根をひそめた。
一体、シャーはどういうつもりで、自分に近づいたのだろう。
相手の剣を受け止めた手が軽くしびれ、シャーは右手から左手に刀を持ち替えて、あいた手を軽く振った。
「あいててて。おっさん、しつこいねえ。女の子に嫌われるよ」
だらけた口調で軽口をたたいていると、いきなり頭の後ろから切っ先が飛んできた。
「うひょお!」
間抜けな声をあげながらも、シャーはうまく相手の攻撃をかわしていた。かわしざまに、後ろに向けて鋭く刀を払う。何か手応えがあったが、どうやら相手が刃を柄で受けた時の手応えのようだ。
「チェッ、失敗か!」
シャーは舌打ちし、切っ先を下に下げて相手をうかがう。
「今のはフェイントか?」
ジャッキールの声が、闇の中から聞こえてきた。
「さぁねぇ。オレはそんなに頭良くないって言ってるだろ?」
シャーは、にやりと微笑みながら応えた。
「一筋縄ではいかん相手だな」
相手の笑う声が闇の中に暗く重く響いた。
シャーは、サンダルを履いた足を、音もなく後ろに寄せた。上から光が降ってくる。今は月光の中だ。敵に姿を見せるのは不利である。
一体、次はどんな手でくるだろうか。視界が悪いせいで、一瞬でも油断すればそれは致命的なミスにつながる。おまけに今の自分は姿を相手にさらしている。
おまけに相手はジャッキール。ジャッキールの剣の軌道は読みにくい。いや、なれてしまえば、それなりにわかる軌道なのだが、ジャッキールは、意外に力もあるので、そのあたりも気を使わなければならない。
シャーの剣は、このあたりで使われていないものなので、相手にはその太刀筋は読みにくいのだろうが、それにしても、ジャッキールはそれに見事についてきているのだった。場慣れしている分、冷静なせいなのかもしれない。
(年くってるのは、伊達じゃねえってか!)
シャーは、ちろりと悪態をつく。
とにかく、月光の中からなるべく早く闇の中に姿を隠したいところだ。だが、下手に動くのも危険で、ジャッキールの気配をまずは探らねばならない。不意に悪寒がした。
「しまった!」
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