「そんなに怯えるなってば。何にもしないからさあ」
 大男は、不安そうにシャーを見上げた。まだ、刃物を収めてはいなかったが、シャーの顔はすでに戦士の表情ではなかった。彼は、いつものような親しみのある表情を向け、慰めるように微笑んだ。
「あんたは、オレに優しくしてくれたよな。……その事は忘れないぜ。もし、職にあぶれたら、カタスレニア地区の酒場に来るといい。オレが必ず何とかするよ。ありがとな」
 シャーは大男にそういうと、まだ呆然としている彼にもう一度にこりと微笑み、そのまま刀を肩にかけて向こうの方に走っていった。
 男が自分が助かったのだとわかるまでに、かなりの時間がかかった。



「青兜(アズラーッド・カルバーン)、というのを知っているか?」
 ジャッキールの言葉に、少年は首をかしげた。少し暗い石造りの部屋。ジャッキールはそこで酒を飲んでいた。小間使いの少年はラゲイラからの伝言を伝え、部屋から出ようとしていたが、突然ジャッキールに呼びかけられてちょうど立ち止まった。怒鳴るか、不気味なほど無口なジャッキールが、こう喋りかけてくる事は珍しい。機嫌がいいのだろうか。
 そういえば、いつもよりも機嫌がいいらしく、口元が笑みを象っていた。
「アズラーッド?」
 少年は、聞き返した。聞き覚えの無い言葉である。
「そうだ」
 ジャッキールは、酒を口に含みながら言った。
「シャルル=ダ・フールが王子だった頃のことだが、シャルルは当時、最前線で戦っていたそうだ。もっとも、本人が戦っていたかどうかはわからん。なにせ、奴は病弱で動けないという話だからな。……ともあれ、シャルルが戦っていたとされている時期の最前線で、その軍で七部将よりも凄まじい活躍を見せたものがいた。あまり知られていないことだがな」
 少年はじっと彼を見ている。ジャッキールは、少年にきかせているというよりは、一人ごとのように、しかしやや芝居じみた口調で言った。
「そうだ。全身、青い色を塗った鎧を着て青いマントをつけ、青い羽飾りのついた青い兜を被った若い男。使う剣術は、東方伝来の不思議な刀を使ってのもので、それが、凄まじく強かったのだそうだ。奴が加わった戦は連戦連勝。負けても士気が落ちなかったらしい。そしてついたあだ名が青兜――奴が主に遠征していた東のリチュタニスの言葉でその意味である「青兜(アズラーッド・カルバーン)」とよばれた。シャルルの軍勢の中で司令官として戦っていて、目立った功績をあげたせいで、奴はいつの間にやらシャルルの影武者といわれたそうだな。いや、実際はそうだったのかもしれん。しかし…………」
 ジャッキールは、杯を置いた。
「青兜(アズラーッド・カルバーン)は、ある戦いを境に戦場から消えた。死んだという噂だったが、……今度は旅先で不思議な東方風の剣術を使う男の噂が聞かれるようになった」
「ジャッキールさんは、それを同一人物だと?」
「そうは思わないか?」
 ジャッキールは笑ったが、少年は何も応えなかった。
「一度手合わせしてそれっきりだったが、とうとう見つけた」
 彼は、ぞくりとするような冷たい笑みを浮かべた。前髪の間から、狂気を含んだような瞳が、ゆらゆらと揺れている。
「あの男だ」
「まさか!」
 青年はハッとして、咄嗟に言った。あのひょろっこい情けない男が、そんな大層な人間であるわけがない。
「いや、間違いない。あれがシャルルの密偵(イヌ)だとすれば、まちがいなくな。あいつは、アズラーッド・カルバーンだ」
 ジャッキールがそういったとき、突然、廊下の方でせわしない足音が聞こえた。
「た、大変です!」
 扉を慌てて開き、足音を大きく立てて男が走りこんできて叫んだ。
「どうした?」
 落ち着いて尋ねるジャッキールと対照的に、男は全力疾走からくる疲労のために肩で息をして急き込みながら言った。
「あ、あの、捕まえていた男が……、と、逃亡を……! あ、あいつ、無茶苦茶強くて、オレたちじゃ……手に負えません!」
 ジャッキールは、右手で剣を取り上げながら弾かれたように立ち上がった。怒鳴られるのかと思い、男はびくっと肩をすくめたが、ジャッキールは怒鳴りつけなかった。代わりに、彼はにやりとほくそえんだ。その笑いは、殺意を含んで、不気味に薄い唇に浮かべられていた。
「やはりな。そうじゃないと、割に合わん」
 ジャッキールはいい、鈍い光を放つ、刃をそっと抜いた。
「そうだな、青兜(アズラーッド・カルバーン)……」
 行くぞ。とジャッキールは低い声で、少年を呼び寄せた。そのまま、部屋から出て行くジャッキールの口元には、今まで見たことの無いような、嬉しそうな笑みが浮かんでいた。



5.水と火

「どこへ連れて行く気?」


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