縛られて石畳をごろごろ転がっている男にはあまり言われたくない。大男は、ため息とともにそう思う。彼は、扉から出て行こうと、シャーから目をそらした。
「あの、ついでにもう一つだけ、お願い聞いてくれない?」
「縄を解くとかはダメだ」
 きっぱり大男に言われ、シャーは心外そうな顔をした。
「違うよ。ちょっとサンダル脱がして欲しいだけだって……」
 シャーはそういって、右足を左足でこすっている。彼の足にはサンダルがぴったりとはまっている。
「実はさ、足が痒くて仕方なかったりするんだよ。右の皮ひもが、ちょうど足に当たっちゃってさあ。足ぐらいいいだろ? なあってば」
 そういって、頼み込むよう見上げてくるシャーの顔は、何とも哀れを誘った。大男は、きっと明日の今頃には、この男は殺されて、もしかしたらどこかに吊るされているかもしれない。と思った。そう思うと、サンダルが脱げなくて苦しんでいる彼の、サンダルを脱がして欲しいというささやかな願いぐらいきいてやってもいいような気がした。
「し、しかたないなあ」
 大男は、頭をかくと親切にもシャーの足からサンダルを脱がしてやった。ぽんと、そこにサンダルを投げ捨てて彼は言う。
「もし、履きたくなったら、また手伝ってやるから」
「あ、ありがとう。あんた、本当にいい奴だね。やっぱ、この世って捨てたもんじゃないんだよね。オレ、すっげー幸せ者だよ。うん」
 シャーは、感激して瞳をわずかに潤ませる。
「そんなに感激されても困るけど」
 大男は、気弱そうな微笑を浮かべた。それから、扉をしめてがちゃりと鍵をかける。
「大人しくしてるんだぞ」
「はーい」
 シャーは無抵抗に答えると、左足で右足をかいていたのだが、大男の視線が消えたのを、確認してから、それをぱったりとやめた。シャーは、さっとサンダルを右足で自分の背後に引き寄せた。縛られた右手を、そうっと伸ばし彼はサンダルを確認する。
 そして、シャーは、サンダルの幅広の革紐の間に指を差し入れた。冷たい硬い感触がする。彼はそこに隠したものが、誰にも気づかれていなかったことに安堵し、同時に先ほどの大男にさらに感謝した。
(ほんとに、あんたには感謝してもたりないよ。)
 シャーは、人知れずにやりとした。




ジャスミンの花がいいな……
 オレはあの花の香りが好きだから……
 だから、ジャスミンの花でも添えてくれ。
 オレが、もし、この戦で死んだら…………
 青い兜と一緒に、花を土塊の上にふりまいてくれ……

 贅沢かなぁ、オレがこんなこというの
 でもさあ、オレの唯一の願いなんだよね
 ほかにはなにも望まないよ
 だったら許してくれるかい?

 だから、お願いだよ

 ……ジャスミンの花を添えてくれ…………



 暗い地下の石室。しんしんと身に響く冷たさ。ラティーナは、寒そうに膝を抱えた。こんなに寒いところに、シャーも残されているのだろうか。それとも、すでに…………。
(シャーは…………どうしたかしら。)
 あの男は、シャルルの密偵(イヌ)だ。
 そういわれても、まだしっくりとは来なかった。確かにあんなに強いし、疑わしい言動も多いが、シャーはラティーナを守っていた。あれが、彼女の信頼を得るための芝居だったとは思えない。
 かといって、疑いを完全に振り切る事もできない。何にしろ、シャーには謎が多すぎる。
(もう、どうでもいいわ。あんなやつ。)
 ラティーナは、目を閉じる。考えると、今にもシャーの悲鳴が聞こえてきそうで、心配でたまらなくなる。
 それに、騙したのは彼だけではない。ラティーナも、シャーを騙したのだ。
(こんなことになると思わなかったから……)
 シャーが本当はラティーナを罠にかけたのなら、彼は殺されても仕方がない。計画の秘密は守らなければならない。だが、シャーを心配する気持ちと、敵であるシャーを責める気持ちは、ほとんど半々で、ラティーナは自分の気持ちを整理できなくなっていた。
(ラハッド……。あたし、どうすればいいの?)
 冷たい部屋の中、不意にラハッド王子の顔が思い浮かんだ。つらいときは、あの人の面影が瞼にちらつく。
 死んでしまった彼女のフィアンセ。シャルルさえ、王位につかなければきっと王位についていたはずの好青年。くるくると巻いた黒の巻き毛と父親セジェシス譲りの麗しい容貌。


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