ラティーナがそういいかけたとき、不意に何か寒気がした。シャーの目は、一瞬にして表情を変え、素早く背後の方からラティーナをねらう影に対して動く。素早く身を翻し、シャーはラティーナの前に手を広げた。
「ラティーナちゃん……ここ……」
 シャーは、ふいに後ろの方でガッという鈍い音をきいた気がした。同時に、衝撃と意識が一瞬遠くに飛ばされるのを感じた。世界が半分暗くなり、視界がぐるんと半回転したような気がした。遅かった。ラティーナをかばうための判断のせいで、動きが遅れたのだ。
「シャー?」
 シャーの声がふいに途中でぶっつりととぎれ、人影が大きく揺らいだのに気づき、はっとラティーナは背後をみた。棒をもった者が、シャーの後頭部に一撃を見舞ったのだ。
「シャー!」
 ラティーナの悲鳴が聞こえ、シャーは、何とか上を見る。砂の地面に倒れこんでいたため、手をつけて素早く立ち上がるが、ふとめまいがし、近くの壁に身を寄せた。
(くそっ! 不意打ちやがったな!)
 目の前がぐるぐる回る。シャーは、唇を軽くかみ締めた。だが、傷自体はたいしたことはない。しばらくすれば、視界も一定するだろう。
 そのまま、剣を握ろうとして、彼は目を視界の隅に留める。腕をつかまれたラティーナの後ろ側、それも狭められた視界のぎりぎりの場所に人がいるのがわかった。
(あいつは……)
 顔見知りだったのかもしれない。フードを深くかぶっていたが、一瞬、彼の顔が見えた。シャーの大きな三白眼が、普段よりもさらに大きくなった。
「……あいつ……」
 ぼそりと呟く。
「そういうことだったのか?」
 シャーは、柄にかけた手をすっと引いた。その顔は、すでに闇の中に消える。
(お前がその気なら、オレも罠にはまってやろうじゃないか!)
 うっすらと笑みを浮かべたつもりだったが、うまくできたかどうかわからない。というのも、そう思った直後、シャーの鳩尾付近に、誰かの蹴りが入った。酸っぱいものが口の中にあふれてくるのと、意識が飛んでいくのがわかる。
「ちぇっ……カッコつけ……そこね……」
 シャーはそこまでしか呟くことができず、口の中の胃液を吐き出した。視界が回り、シャーはそのまま倒れた。そのまま目を閉じる。闇が訪れた瞬間、彼の意識はあっさりとその底にひきずりこまれていく。
「やめて! 約束が違うじゃない! それ以上やったら死んじゃうわよ! 約束が違うじゃないの!」
 ラティーナが悲鳴混じりに叫んだのが聞こえた。シャーには、約束がなんだかわかっていなかったが、その声が自分を心配していることに違いはなかったので、少しうれしく思っていた。
(ああ、オレ、心配されているなあ)
 それがシャーが路上の上で覚えている最後の記憶である。


 永遠なるわが都
 降りおりる月の光
 かすかなる花の残り香
 酒に寄せては 消え行くばかり

 ああ すでにそれを忘れし人よ
 どこをたずねても知らず
 誰に尋ねても知らず
 ただ、酒の赴くまま すべて忘れゆきし人よ


 朗々と詩を朗読する声が響いていた。冷たく暗い声は、陰気な雰囲気で、とても風流といえるものではない。どこか聞くものに寒気を覚えさせるような声である。
 少年が廊下を歩き、その声の前まで立つと、ふと声はぴたりと止んだ。
「何の用だ?」
 少年はびくりとした。部屋の中では、一人の男がこちらに背を向けて座っている。手に本があるところをみると、詩集でも読んでいたのだろうか。
 だが、男はこちらを一度も見ていない。おまけに、少年は足音をたてて歩いてきたわけではなかった。それなのに、部屋の前に立っただけで、彼は気配に気づいたのである。
 いつものことだが、この男の近くにくると、寒気が走るような気がした。
「お休みのところ申し訳ありません。外にでていた部隊が帰って参りました。ラゲイラさまがお呼びです」
「そうか。それは急がねばな」
 男は立ち上がり、立てかけていた剣を腰につるしてこちらを向いた。高い背に黒いマントをかぶせている男は、痩せてはいるがどこかがっちりとした体型である。服装から髪の毛までが黒ずくめな中、蒼白な顔だけが異様に白く見える。長い前髪から見える瞳はするどく冷たい。
 男は、この屋敷でも、異彩を放つ人物ではあった。それは彼の外見や態度だけでなく、扱いもそうである。彼はこの屋敷に雇われている身分だが、実際は、雇われている兵士というよりは、客分に近い扱いも受けていた。それは、主人のラゲイラが、彼のことを敬称つきで呼んでいることからもわかる。
 そして、そのことにたいして、ラゲイラに仕えているほかの傭兵の中には、不服に思うものもいるときいた。


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