リーフィが少しためらいがちにいったのをシャーは見逃さなかった。
「リーフィちゃん…それって、オレがぼんくら息子に見えるって話じゃないの?」
「そういうわけじゃないのよ…ただ……」
リーフィは少し目を伏せた。そして、戸惑ったように彼の方を見る。
「…シャー、私が今からいうことは、あなたを傷つけるつもりでいうわけじゃないのよ? それに、似合っていないというわけでもないの。…落ち着いてきいてね」
「な、何?」
シャーは面食らって、きょとんとリーフィを見る。リーフィは、そうっと、彼を傷つけないように、優しい口調で訊いた。
「大富豪の子息っていうのから、むしろあそこの館で働いている道化にまぎれるっていう風に、作戦を変更してみない?」
王都の繁華街の熱気は凄まじい。カタスレニアのようなさびれた場所とは違う、盛り場の熱気が星空一杯に広がっている。溢れる人ごみの中、男達が美しい女の手をひいて闇の中に消えていく。また、客引きの女に捕まって引きずり込まれているちょっと哀れな人もいる。何にしろ、カタスレニアの酒場とはひと味も二味も違う熱くて華やかな空気が、そこには流れていた。
「さぁすが、ここはひと味違うよねえ。オレ、通りすがると絡まれたりするから、普段あまり来ないんだけど」
何となく長く出た袖の裾で顔を隠すようにしながら、奇妙な格好のシャーはそう言った。彼としては至極まともな服装をしたつもりなのに、どう考えても道化に見えるのは哀しいことだが、もう考えないことにした。普通にさしたつもりの刀まで、いつもと違う帯のせいで変な差し方になってしまっている。
「そうね」
リーフィは、そう答えてそっと向こうの方を差し出す。ひときわ灯りの多い建物に、シャーは少し目を細めた。
「あれが、マタリア館よ」
この国では摩天楼はそう珍しくない。実際、ここの歓楽街も多くそうした高い楼閣が建てられている。だが、それらの建物の中でも、マタリア館はより荘厳に見える。なるほど、城下で指折りの高級妓楼だというのは間違いないのであろう。
「にゃーるほど。…オレには縁もゆかりもなさそうだね、ホント」
シャーはそう言って、じゃあ行こうか、とリーフィに呼びかけた。そして、ふっと歩き出したとき、すーっと横を一人の青年とすれ違った。
顔も服装もろくに見えなかったが、シャーは背筋に悪寒を感じ、目を横の方に移す。一瞬の冷たい空気に、シャーの手は自然と腰の剣に手を伸びる。黒い、布の端切れが暗闇の中灯りに照らされて浮かび上がる。その右手が軽く短剣に触れている。シャーは青い服の長いそでに手を隠しながら、そっと鯉口を切った。
(……こいつ……)
相手も無言、自分も無言。それはただの一瞬にもかかわらず、恐ろしく長い時間のようだった。無言で一瞬のすれ違いの中に、凄まじい殺気が飛び回っている。
(……できるな?)
この人ごみの中で斬り合いでもするつもりか? とシャーは不意にあらぬ考えに憑かれる。まさか、とは思う。だが、このさわったら切れそうな殺気は、そういったあるはずのない状況を予測させるに足りるものだ。シャーは警戒し、同時に少し刃を抜いた。
と、それも一瞬だった。相手がそれに気づいたのかどうかはわからない。一瞬緊迫した空気が流れたが、すうっとまたその空気は流れていった。そのまま青年も何事もなくすれ違っていく。
(……ここでやる気はない…か?)
シャーの目が青年の背を追うが、すでに彼は人ごみに紛れて見えなくなっていた。だが、あの時感じた殺意と敵意のようなものは、彼を背筋にまだ寒気として残っていた。
(一体、あいつ…何もんだ?)
「どうしたの?」
シャーの表情変化に気づいたのか、リーフィが首を傾げながら訊いた。シャーは、表情を崩したが、目までは元に戻っていない。シャーは首を振った。
「いいや、なんでもないよ。…オレの気のせいだといいね」
シャーはとうとう、柄から手を離した。本当に気のせいだといいぜ、と心の中でポツリと思った。何となく、あの男には不吉な気配が漂っていた。
歓楽街の道をどうにかこうにか抜けて、シャーとリーフィはマタリア館の前に立ち止まった。宮殿までは言わないが、貴族の屋敷ほどにある建物は荘厳かつ巨大で、贅を尽くした装飾がされている。
夜だというのに煌々と輝く灯りによって入り口は照らされていた。綺麗な服装をした男女が入り口にいて、そう人通りがないわけでもない。だが、いかにも荘厳なそこにふらっと入っていけるような雰囲気でもなかった。
「どうやって忍び込めばいいかしら?」
リーフィがそっと聞いてきた。シャーは、にっと笑う。
「ま、何とかなるって…!」
「でも……何か方法があるの?」
シャーは袖をひきよせて、ほほほほほ、と奇妙に笑うと自信満々に言った。
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