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3ジートリュー-15



 ザハークは、何度か敵に矢を射掛けた後、少し前線から離れた場所から獲物を狙っていた。しかし、少し離れた場所から戦況を見ると、ずいぶんと敵が押されているのがわかる。
「敵は総崩れだな」
 ザハークは、軽く唸り顎鬚をなでやった。
「降りていって敵を追ったほうがいいかもしれんな」
 ザハークは弓矢の名手であるが、別に得意なのが弓だけに限ったことではない。戦士としての基礎を知っているザハークは、剣を使わせても、槍を使わせても、かなり有能な男でもあった。
 ザハークが、そう思い直して行動を起こそうとしたとき、不意に背後に人気を感じた。
「やはりそうか」
 背後の男が口をきいた。馬に乗っているらしく、上のほうから声が響く。
「そこにいるのは、ハイダール家の長男だな? ザスエンのじいが、有能だと口やかましく言っていた」
 ザハークは静かに向き直る。黒い甲冑をきた男が馬上から彼を見下ろしていた。鋭い瞳にどこか不敵な笑み。それがアルヴィン=イルドゥーン、つまり戦王子の名で呼ばれる、リオルダーナの第三王子であることをザハークが知らないはずはなかった。
 だが、ザハークはその時、すぐには頭を下げなかった。黙っている彼をみながら、アルヴィンはゆがんだ笑みをうかべた。 
「ほほう、なるほど、いい面構えだ。貴様が、弓の名手で星の名前を当てられていることも聞いている。さきほど、遠くから見ていたがたいした腕前だ」
「お褒めに預かり光栄でございます」
 ザハークはそういって初めて頭を下げる。ザスエンが、どう口をきいたかしらないが、アルヴィンが自分のことをリオルダーナの名門出身であることはしっているらしい。
 アルヴィンは、名乗らなかったが、ザハークが自分のことを「戦王子」だと認識しているととっているようだった。機嫌がよいらしく、アルヴィンは、普段より気さくに口をきく。
「どうだ、俺の戦場は」
 アルヴィンは、まだ喧騒が続く戦場を見下ろしながら言った。
「油断しているところにつけこんだやったが、うまくいったらしい。だが、これぐらいじゃ終わらん。久しぶりに骨のある相手なのだから、こちらも楽しませてもらわんとな」
 彼はそういってにやりとする。
「では、このまま追撃されるので?」
 ザハークは、そう聞いてみる。しかし、アルヴィンの返事はそっけなかった。
「まさか」 
 アルヴィンは、からからと笑う。
「今日のところはこれまでよ。あいつらとて馬鹿でもあるまい。あまり深追いすると、かえって危険だ。そろそろ戻る。遊びはそう簡単にはおわらんよ」
 アルヴィンは楽しそうだった。ザハークにそんなことを話したのも、おそらく、機嫌がいいからだろう。久しぶりの遊び相手を見つけて、ことがうまく進んだことに大満足しているようだった。
「奴らも本気で攻めてきているのだから、これぐらいではな」
「では、何かほかの手を用意されているということですかな?」
 そうきかれて、アルヴィンの目が静かに光った。
「それを知るのは、少し僭越というものではないか」
「は、申し訳ございません」
 ザハークは、反射的に頭を下げた。しかし、アルヴィンは、たいして気に留めていなかったのだろう。ザハークの謝罪を流すように手を振った。
「まあ、気にするな。ともあれ、一度退却する。貴様も戻るがよい」
 そういうと、アルヴィンは、そのまま走り去っていった。その彼に、伝令の兵士が近づいているのが見える。おそらく、あの後見人の老人の使者だろう。
(なるほど。うわさどおり気まぐれな男ではあるらしい。)
 ザハークはぼんやりとそう思う。今日の攻撃が急激なことであったのと同じで、アルヴィンの策というものはきっと周りのものも、あまり知らされていないものなのかもしれない。
(僭越か。……なるほど、頭の中を探られるのがいやだということだな)
 ザハークは、そう見当をつけて、自分の周りにいるものたちに後退をつげながら自分も下がることにした。
 と、ふと、ザハークは何かを見つけて足をとめた。乱戦になっている前線の一角に、なんとなく目が止まったのだ。ザハークは眉をひそめた。彼には、自分がそこに目をとめた理由が、すぐに理解できたのだ。
 


 果たしてジャッキールは今日は大丈夫だろうか。
 すでに、ジャッキールが正気を失ってからかなりの時間が経っていた。
 適当に距離をとりながらも、セトは結局ジャッキールの近くから逃げられなかった。ただ、なんとなく機を逸したといってもよかった。ラトラスが逃げた後、ジャッキールの異常な姿に一人当てられた形になってしまったのだ。
 けれど、セトが放心しても、誰も彼を狙うものはいなかった。何せ、その前で敵をジャッキールが軒並み倒してしまうのだから、敵が誰もいないのだ。ただし、味方も誰もいないのだが。
 けれど、別にそんな利害が目的で、セトはそこにいるのではなかった。
 先ほどから、ジャッキールが狂ったように笑っているのを、セトは目の端で追っていた。彼の背後にいれば、敵がくることはない。けれど、彼自身が一番危険で恐ろしい。覚悟しているつもりでも、毎度こういう事態になると、セトは言い知れない恐怖を感じることがあった。
 ジャッキールも自分で自覚しているので、気をつけてはいるのだろう。彼が前後不覚に陥り、完全に狂気の世界に突入するのは、それでも稀なことである。大体は、半分は正気を保ったまま暴れているし、よほどのことがなければ、命令を誤ることもない。
 だが、時々、ジャッキールは、完全に理性を失うことがあるのだった。周りの人間が誰であるかすら認識できず、見かけたものを全て敵として襲い掛かるようなこともある。セトにしても、一度「誰だ貴様は」と凄まれたことがある。あの時のジャッキールは、酒に酔ったような目をしていて、説得どころか、話すら聞いてくれなかったものだ。そのときは、逃げ回って事なきを得たが、その後、怯えながら声をかけたジャッキールは知らぬ顔で、どうやらそのこと自体を覚えていないようだった。
 彼がそうなるのは、一種の発作のようなものだ。大概時間がたてば正気にかえる。けれど、いつ落ち着くのかは誰にもわからない。彼の様子を見る限り、ほかならぬジャッキールにもわからないのだろう。
 だから、セトも怖いのだった。ジャッキールが、永遠にあのままだったら。確実に、いつか近くにいるセトも殺されるだろう。
 ジャッキールの前には、すでに生きている敵はいなくなっていた。笑い声もいつの間にかやんでいたが、彼が尋常ではないのは、肩で息をしていることからもわかる。肉体的に疲れたからもあるが、けしてそれだけではないあの肩の震えが。
 セトは、さらに震え上がった。敵がいなくなったのに、まだジャッキールは正気に戻っておらず、血に飢えた獣のままなのだ。近くにいる自分を発見したら、彼はいったいどうするだろう。
 と、そのとき、空気を引き裂く音がした。セトの目にジャッキールに向かって飛ぶ、一本の矢が見えていた。 
 流れ矢だろうか。いきなり飛んできた矢を、ジャッキールは顔の前で叩き落す。木が粉砕する音が、静まり返ってもいないはずの戦場に、異様に響いて聞こえたのは何故だろう。
 と、ジャッキールは、セトのほうを振り返った。まだ視点が定まっていない様子だが、彼はセトの姿を捉えたらしい。思わず、セトは肩が震えた。
「セト!」
 ジャッキールの呼びかけはセトには聞こえなかった。それどころでなかったのだ。
 彼は、普段から眼光の鋭い男だが、人を斬った後は、また違う。光の反射でほんのりと赤く見える色素の薄い瞳が、こういうときは格別の狂気を伴って血の色に見えるのだった。
 いつもより血色のいい頬やどこか恍惚にゆがんだ唇。そして、焦点の合わない血色の瞳。これ以上なく愉悦に浸っているくせに、何故か苦しげにゆがんだ表情。それが表すのは、ばらばらになった魂のかけらがどうにかよりあつまったような存在。
 何度か見たことのあるジャッキールの顔だ。そして、この顔のときの彼が、どれだけ危険であるかをセトは知っている。思わず、セトは、息を呑んだ。自分の名が呼ばれているのには気づいてもいない。あわてて背を向けて逃げ出したくなりそうだった。だが、彼のどこか焦点の狂った、しかし、鋭い眼光がそれを許さない。足がすくむ。
「セト!」
 今度は聞こえた。しかし、セトは、まだ返事が出来ない。
 実際、ジャッキールの目は、まだ夢の中にいるような、妙な陶酔に彩られているものだから、セトも名前を呼ばれても、なかなか動けなかった。彼が自分をセトだと認識しているのかどうかすらわからないのだ。もし、そうなら……。
 返事をせずにいると、きっと彼の目が更にこちらを向いたようで、セトは、思わず弾かれたように返事をした。
「は、はい!」
「少し聞きたいことがある」
 ジャッキールは、そう呼びつけてきた。
「は、はい」
 セトのおびえたような表情から頬にふりかかった血に気づいたのか、彼はそれをぬぐう。もちろん、血にぬれた手袋では汚れがひろがるので、彼は道具入れからきれいな手ぬぐいをとりだして、顔をぬぐい、手袋の汚れを落としていた。
 それを見て、セトは思わずほっとしてしまった。普段のジャッキールは、流れの戦士にあるまじききれい好きで、やや潔癖の嫌いがあるぐらいだった。戦闘中は、泥を被ろうが返り血を被ろうが、そんなことはどうでもいい。しかし、普段の潔癖症が戻ったということは、少しは頭が冷えたということだ。事実、ジャッキールの瞳にかかっていた靄のようなものが一気に晴れたようにみえた。セトは、そろそろとジャッキールの元に近寄る。ジャッキールが、そこで剣をおろしているのを確認して、セトは思い切って声をかけた。
「な、何でしょう」
「戦況はどうなっている?」
 ジャッキールの様子は、どこかまだ上の空である。セトは一体なんといわれたのか、理解するのに時間がかかった。
「せ、戦況……」
「少し前から記憶がないのだ」
 ジャッキールの声は、先ほどよりも随分と落ち着いてきていた。どことなく、セトの反応を気遣っているようなそぶりもある。
「先ほどまで優勢だったのは覚えているが、そこから先の記憶がない。今はどうなっている?」
「われわれが優勢です」
 セトは、どぎまぎしながらそう答えた。だが、思ったよりも彼は冷静に見えた。ふうとため息をつくと、ジャッキールは、そうか、と呟く。
「……では、俺が意識を飛ばしていたのは、それほど長い時間でもなさそうだ」
 ジャッキールは、もう一度大きく息を吐く。そうすると、彼のまとっていた怨念と見まがうような重くて不吉な空気が、ほんの少し薄くなった。血走った目も、普段の落ち着いたものにかわっている。
 もう大丈夫だ。セトはようやく安心した。
「旦那、大丈夫ですか?」
「ああ、少し、な」
 ジャッキールは、右手で軽く額に手をやった。
「少しのぼせあがってしまったらしい。怯えさせたようで悪かったな」
 なるほど、一応自覚はあるらしい。
「なんとなく敵の動きが不自然だと思って、調べさせようと思ったのだが……。まあ、こちらが不利に動いてなければいいだろう」
 ジャッキールは、そういってあたりを見回した。すでに敵はずいぶんとひいていて、彼らの周りには人がいなかった。
「さて、そろそろ引き上げ時だな」
「ええ? し、しかし、今のうちに追い上げた方が」
「深追いは危険だ。それに、戦王子は、ここであの軍勢を相手にしようとは思っていない。こんなとりで、すぐに落ちてしまうことぐらいわかっているし、ここを失ったとて大したものではないのだ。敵方もこの程度の被害で国には帰れまい」
ジャッキールは、そう一息にいうと、ちらりと周りに目を走らせた。
「事実、アルヴィンはすでに下がっているようだしな。まあいい、ほかに方策があるのだろう」
 彼がそういって、剣を一度おさめようとしたとき、ふと風を引き裂く音が聞こえた。ジャッキールは、おさめかけていた剣を鋭く斜め上に跳ね上げた。ビシリと音が聞こえて、矢は二つに割れてはね飛んだ。
 セトが、はっと顔を上げるが、ジャッキールは、冷静だ。
「心配するな。今のは、俺を狙ったものだ。敵の攻撃ではない」
「敵の?」
「ザハークだ」
 舌打ちまじりにジャッキールは吐き捨てる。
「ふん、冷水も二度はいらぬ」
 冷笑するジャッキールの視線の向こうで、黒尽くめの男が静かに去っていくのが見えていた。
「あ、あいつ、いったいどういうつもりで」
 セトが、焦ったように彼のほうを見上げる。だが、ジャッキールは静かに首を振るばかりだった。
「ほうっておけ。あれは喧嘩を売りにきたわけではない」
 ジャッキールは、苦笑に似た笑みを浮かべる。その笑いが実際に苦笑なのか、それとも、単なる嘲りなのか、セトには判断がつかなかった。
「さあ、そろそろ退却といこうか」
 ジャッキールはそういって、伝令の兵士を見つけて呼び止めた。
 セトは、だが、何となく奇妙な感じがしたのだ。先ほどの矢は、一体どういう意味があったのだろう。ジャッキールをからかうつもりだったのだろうか。だが、からかわれてジャッキールが怒らないはずはない。
 セトは、なんとなく奇妙な疑問に取り付かれたまま、ジャッキールの言うとおり、とりでに退却することにした。




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背景:空色地図 -Sorairo no Chizu-様からお借りしました。