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3ジートリュー-14



 ラトラスは必死だった。ざっと頭の上で、刃物が通り過ぎていく。それをどうにかかわして切り返す。だが、彼の一撃など、戦いなれた敵に通用するはずもない。いつのまにか、ラトラスが逃げ回る側に回ったのも仕方がなかった。
 焦る。胸がどきどき高鳴るばかりで、攻撃しなければならないと考えるばかりで、どうにもならない。いいや、本当のところ、そんな論理的に物事を考える余裕すらない。ただ、頭の中が熱くなり、けれどどこかで恐怖心のようなものが、大胆な行動には歯止めをかけて、ただひたすら焦るばかりだった。
 このままじゃあやられる。だが、対処法すら思いつかない。
 何度目かの攻撃をかわす。しかし、敵は冷静だ。ラトラスがそう避けるのを読んで、すぐさま鋭く切り返してきた。 
「わあっ!」
 咄嗟に振り回した剣が、相手の剣をはじく形になる。だが、バランスを失ったラトラスは、その場にしりもちをついた。
(敵が来る!)
 ぞっとしてラトラスは、あわてて剣を構えて起き上がろうとした。
 剣を前に突き出して、ラトラスは、一瞬きょとんとした。敵が追撃してこないのだ。確かに敵はそこにいたが、ラトラスとは別の何かを見ているようだった。そして、彼に追撃を加えることなく、わずかに後ずさりして、結局きびすを返して別の相手に切りかかっていった。
「な、なんだ?」
 ラトラスは、ますます不可解になる。とりあえず立ち上がる。隙だらけの自分を、敵が襲ってくるかと思ったが、なぜか彼の前に敵はいなかった。それどころか、彼の周りに人の気配が感じられなかった。
(なんだろう)
 まるで、自分の周りだけがぽっかりと空いたみたいになっていた。なぜか、その付近だけ誰もよりつかないのだ。
(どうして……?)
 突然、背後で、ざり、と靴が砂を噛む音がした。強大な獣のような気配を感じ、ラトラスはそっと背後をのぞきやる。黒い衣服が、風も無いのにゆらゆらゆれていた。妙な重圧が肩からのしかかってきて、ラトラスはそれ以上顔を上げられなかった。
 だが、顔を上げないわけにはいかない。ラトラスは、その重圧に逆らってどうにか後ろを振り向いた。
 思わずびくりとした。
 後ろには、とある男が剣を抜いたまま仁王立ちしていたのだ。
 一瞬切られると思ったが、男は行動を起こさない。それどころか、男はラトラスのほうを振り向かない。ぼんやりと遠くを見るような目をしていた。
「あ、あんた……」
 ラトラスは、思わずおびえたような口調になった。相手の顔には見覚えがある。沈んだ冷たい顔立ちに、目だけが妙にぎらぎらしている。忘れるはずもない、この不吉な気配は、紛れもなく隊長のジャッキールだ。
 だが、ジャッキールといえば、先ほどまで後ろの方で指揮を執っていたはずだ。ジャッキールは、危ない男だとラトラスも聞いてはいたが、先ほどまでのジャッキールの様子は、模範的な下士官のそれといってもよかった。敵の情勢を読みながら、的確に作戦を指示していたはずだ。その様子に、なんとなくジャッキールを嫌っていたラトラスも、少し彼を見直したのであるが。
 だが、今のジャッキールは、その、隊長然とした男と全く違う雰囲気を引きずっていた。しかも、普段の、陰気でプライドばかりが高い流れ者、といった雰囲気とも違った。
 ジャッキールは、無表情で、まだラトラスを見ない。わざと無視しているのかとも思ったが、そんなはずがないこともすぐにわかった。普段から表情の薄い男だが、その無表情さは、明らかに不自然なぎこちなさがあった。普段よりも青ざめた顔には、生気が漂ってもいない。
「なんだ、貴様か」
 不意にジャッキールは、そう口を開いた。気のない口調だった。一瞬ラトラスを見たのかもしれないが、こちらを見たような気配はなかった。
「餓鬼は危ないから下がっていろ……」
 ジャッキールは、再び興味なさげにそうつぶやくと、ラトラスの横を通り過ぎてふらふらと前に歩いていった。右手にぶら下げた剣を引きずっているので、砂の上に線を描きながら、よたよたと歩いている。異常だった。ジャッキールは、いかなるときも武官らしいきびきびとしあ歩き方をするのに。
 ラトラスは、子ども扱いされて下がっていろといわれたことを忘れて、しばし、呆然と彼の後姿を眺めていた。
「おい、何してんだ、小僧!」
 不意に肩をたたかれて、ラトラスはわれに返った。
「ぶっ殺されたくなけりゃあ、とっとと下がりな」
「あ、あんた……。あの……」
 声をかけてきたのは、ジャッキールの腰ぎんちゃくのセトだ。
「い、いったい、あいつ、どうしたんだ?」
「ああ? 旦那か。いつもの病気の発作だよ」
 セトはなんでもないように言ったが、彼が怯えているのは仰ぎ見た表情でわかった。
「今日は大丈夫だと思ったんだがな……。ああなったら、どうにも」
「またどうして? さっきまで後ろにいたじゃないか」
「ああそうだ。だから俺もびっくりしてるんだよ。いきなり、ふらふら前に出ちまったと思ったら、俺が話しかけても何も聞いちゃいねえ」
 セトは、身震いした。
「どうなることやら……」
「どうなることやらって……」
 ふと、前の方で悲鳴が聞こえ、ラトラスもセトも、思わずはっと顔を上げた。
「は、ははははははは」
 ひときわ甲高い笑い声が戦場の中を貫いた。ジャッキールは、いつの間にか、ずいぶん前の方にいっており、彼の前に男が倒れふしていた。
 ぞっと寒気が走った。いつもむっつりしているジャッキールが、心底楽しそうに笑っていたのだ。今の笑い声は、まるで別人のようだったけれど、間違いなくあの男の声なのだろう。どちらかというと病的なほど青白い頬がほんの少し上気して、さっと朱をはいたように赤らんでいる。
 ジャッキールは、倒れた男に目をやることもなく、改めて敵の固まる方を向いた。だが、彼の目に敵の姿がきちんと認識できているかどうかは不明だった。彼の目は、陶酔しきっていて、まるでこの世をみていないようだった。もちろん、彼の目には青い空も、荒れた地面もうつっていないにちがいない。
 引きつった唇が、快楽にわななくのをラトラスは見た。それは、不幸な獲物を、彼が見つけたということに他ならなかった。
 途端、血の色が飛んだ。さっと彼の手が動いたと思った瞬間、相手は既にのけぞっていた。ラトラスが未熟なためなのか、それとも、ジャッキールが早すぎるのか、ほとんど太刀筋がみえなかった。
 突然、敵が数人まとまってジャッキールに向かって雪崩れ込んでいった。だが、セトすら彼を助けようと動かなかった。ジャッキールは、一瞬、ぎこちなく微笑んだだけだった。
 ラトラスは、思わず目をそむけた。
 ジャッキールにかかれば、そのあたりの人間の命など一瞬で消え去るのだ。あんなに正気を失っているのに、彼の攻撃は、急所を確実に捉えたものであるから、斬られた人間は、地面に倒れ伏したときにはすでに絶命しているのだった。
 漆黒の衣服には、返り血がはっきりと目立たないだけに、彼が何人切ったのかはすでにわからなくなっていた。ただ、その黒いマントをたなびかせて、無造作に命を刈り取っていく様は、そのまま死神に似ていた。
(あれは……)
 ラトラスは、なぜか言いようのない嫌悪を感じた。何故か、人間でないものを見たような気がして、吐き気すら覚えそうなほど、ひどく忌まわしかった。
(アレは、化け物だ!)
「あぁははははははは、ひゃははははははははは」
 笑い声が響く。すでにあの男の声とは思われなかった。
 しかし、その一瞬、ラトラスの金縛りが解けた。ラトラスはセトを振り切り、反射的に身を翻して逃げた。
「ま、待て!」
 セトのすがるような声が聞こえたが、振り返ることとができない。ただ、ラトラスの耳には、ジャッキールの血に狂った嘲笑が何度も反響して、いつまでも悪夢のように響き渡っていた。
 




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背景:空色地図 -Sorairo no Chizu-様からお借りしました。