アズラーッド=カルバーン東方戦記
〜シャルル=ダ・フールと七人の将軍〜
2.ハダート-17
狭い岩場を抜けるたびに兵士達は戦場へと進んでいく。目の前は開けた土地ではあるが、まだ岩場の影響を受けて、ところどころ、大きな岩があった。わあわあという声は、どこか岩に当たって不思議な反響を返しているようで、砂漠で戦うよりも響いていた。
「よし、そのまま進め」
兵士から情報をきいて、エルギス=ハス将軍は、前方に命令を飛ばした。エルギスは、すこし遠くで戦っている兵士をみながら、戦況を読んでいた。一見優勢に見える戦いだが、まだはじまったばかり。用心深いエルギスは、常に警戒しながら命令を下していた。
「兄上!」
ふと、声が飛んできてエルギスはそちらの方を見やる。そこには、髪の毛を風になびかせながら馬にのってやってくる妹の姿が見えていた。
「おお、エルテアか。そちらはどうだ?」
エルギスは駆けてきた妹を見ながら、訊いた。エルテアは、さっと兄の側まで馬をつけて降り立った。
「今のところは、我々の優勢のようです。特に問題はないようですわ」
そう颯爽と答えたエルテアであるが、ふと眉をひそませた。
「しかし、何となくうまくいきすぎているようで、不安がありますが」
「お前もそう思うか。私も、なんだかちょっと嫌な予感がするのだ」
エルギスは、腕組みをして軽く首を傾げる。横にいた若い部下が、怪訝そうな顔つきで発言した。
「しかし、将軍。敵より我々が優勢なのは、あくまで敵を早く発見できたことがあるのかと存じますが。相手の策略にでも陥らない限り、我々が優勢なのは数の上でも当然だと思われます」
「確かに、それはそうなのだが……。いや、そういう感じではない」
エルギスは、顎をなでやりながら静かに呟く。
「敵の罠にはまるのは恐ろしいし、私もそれを心配はしている。だが、そういう感じでもないのだ。この違和感は……」
「それは?」
「仮にこのまま何事もなく我々が勝利できたとしても、おかしくないとは思う。……だが、もしそうなったとしても、恐らく何者かの筋書きに乗って勝たされた、ような気がすると思うのだ。敵の動きにしても、何となく、こう何かの意志を感じるような……」
「兄上もそう思われますか?」
エルテアがそう口を出す。エルギスは頷くと、戦場を見回した。
「……そう、筋書き、誰かの書いた作戦の上で我々は踊らされているような気がしてな。どうしても、すっきりしない。もしかして、その誰かの狙いは、我々の勝敗などどうでもいいのかもしれない。そういう気もする」
「我々の勝敗などどうでもいい……。つまり、狙いが他に?」
そう兄に訊いて、エルテアは、ふと顔を上げた。不意に険しい顔つきになったエルテア=ハスに、エルギスはいぶかしげな様子になる。
「どうした、エルテア」
「兄上、ハダート=サダーシュ将軍はどちらに?」
「はて、確か、カッファ殿と行動されているはずだが。む? エルテア! どこに行く!」
エルギスがそう答えた途端、エルテアは自分の馬に駆け寄っている。エルギスは、やや慌ててエルテアの方に歩み寄る。
「兄上、少々留守にします」
「留守、だと……。待ちなさい、エルテア! お前、何を考えて!」
凛とした声でそう言って馬に跨るエルテアを見上げ、エルギスはやや困惑気味の表情になった。
「とにかく、戻ってくるまで兄上に私の部隊も任せます!」
「こら、待ちなさい! エルテア!」
だが、聞く耳を持つエルテアではないことは、エルギスも承知だった。どこか諦めたようなエルギスの言葉を無視して、エルテアはさっと馬に鞭を入れた。
「エルテア!」
兄の声が果たして届いたかどうか、それすらも分からないほど反応を返さず、エルテアの乗った馬は、戦場の中で遠ざかっていく。
「ああ、またよからぬ事をしでかすのではないだろうな」
余計なことを教えたかもしれない。そう後悔しつつ、さすがにこの状況ではエルギスは指揮をほったらかして、エルテアを止めに追いかける事はできない。
「カッファ殿がどうにかしてくれるだろうが」
ため息をつき、エルギスは自分も馬の手綱に手を掛ける。ともあれ、怪しい動きがある以上、自分は警戒を怠らずに指揮をしていくしかないのである。
飛んできた矢をたたき落とし、シャーは兵士達が戦う様子を見る。
「さて、と」
どうしたもんかねえ、と呟き、まだ、さほど戦場の奥には入っていないシャーは、戦況を冷静に見つめていた。まだ始まってそれほど経っていない戦場の様子は、混沌さながらで、パッと見ただけではどちらが有利かもわからない。少々広いところから見ると、それでも自軍がそこそこ優勢にたっているらしい事が推測できる。
兵士達は、思い思いに戦い、時に組んだり、または弓矢で遠くから応戦したりしている。兵士同士がぶつかっている箇所では、乱戦になっているのだが、それでもよく見れば冷静に規律通りに動いている存在が見えてくるはずだった。そちらに目を走らせたシャーは、一瞬目を細めてそれから自然に目をそらした。相手に気づいたことを視線から悟らせないためだ。
「あ〜あ、ホント”いる”わ」
シャーは、そう呟いて、剣を握り直す。目を逸らしはしたがシャーは、目の端でそれとなくその存在を追った。
倒れる人影と走り去る人影。馬と馬の影。あるいは、飛び散る血しぶきに紛れながら、それは確かに潜んでいた。
迫る影は、巧妙に殺気を隠していたが、確実に、シャーに近づいてきていた。普通の人間なら、近づいてきていることはおろか、「いる」ということにすら気づかないかもしれない。それほど、気配の希薄な者にシャーが気づけたのは、彼の直感に寄るところが多かった。
だから、シャーにしても、かなり細心の注意を払ってそれを見ていたのだ。一度紛れてしまうと、もう一度見つけだすことは困難である。敵の攻撃をかわしたり、まわりに指示を下したりしながらも、見つけだした影から目を離すことはできない。かといって、あからさまに気づいたことがわかれば、向こうの方から姿を消してしまうだろう。
「戦況は割とこちらが有利みたいですよ! うわっと!」
横の兵士に押されて、慌てながらスーバドが頼りなげに走ってきた。さすがにこの前の時よりはマシだが、それでも何となく心許ない。
「このままの形で押し切ってもよいかもしれないと、カッファ様がいっておられますが」
「いや、それはやめた方がいいと思うけどね。戻った時にカッファに言っておいたほうがいいんじゃないかと思うけど?」
「え、は、はあ、そうですね」
シャーは、そういって顎を撫でている。いつになく緊迫感のあるシャーに、スーバドは思わず要領の得ない返事を返した。相変わらず、こういう時のシャーはおっかない。
とはいえ、スーバドの目から見ても、この勝負は、案外こちらが有利に進んでいるようだった。シャーはなにやら考え事をしているようだが、この調子ならカッファの言うとおり押し切ってしまってもよいのではないだろうか。大体、この三白眼男は、時々考えすぎなのだ。単なる心配性なのかもしれない。
「スービィくぅん……」
突然、湿気を帯びたようなシャーの不気味な声が聞こえ、不意をつかれてスーバドは飛び上がる。
「な、何すか!」
「君、死にたくないよね?」
「な、何ですかいきなり!」
不吉この上ない事を唐突に訊かれ、スーバドは顔を引きつらせた。何かよからぬ事を考えていたことがばれたのだろうか。
「でも、たまには目立つところに立ってみたいと思わない?」
「あっ、あの、オレは、地味で堅実な人生を送りたいと思っているんですが……」
戦場でする会話でもないな、とは思うが、スーバドは、青ざめた顔でかなり必死なのである。なにせ、シャーの考えが全然読めないのだから、何をされるかわかったものではない。だが、シャーは、妙にしつこく追求してきた。三白眼でじっとりと睨まれて、スーバドは、冷や汗がだらだら額を落ちていく感覚を覚える。
「でも、注目浴びてみたくない? 地味な人生たって、そんなのつまらないでしょ?」
「そ、それは、そうかもしれませんがー……危険が……」
「ふーん、じゃあ、死にそうにないっていう条件があっても、注目あびてみたいの、みたくないの? どっちよ?」
「そ、それは危険がないのなら一度ぐらいは……」
鬱陶しいのと、半分本心と、スーバドはついそうぽつりと答えてしまってから、口を押さえた。シャーが、明らかに表情を変えたからだ。
(は、はめられた〜〜〜!)
そう思ってももう後の祭りだ。シャーは得意げな顔をして、にんまりと笑った。
「それじゃ、ちょっと、お願いがあるんだけど……」
シャーの笑顔を見やり、スーバドは唇を噛んだ。その時のシャーの顔ほど、スーバドはこの世で神経を逆撫でする上に、不吉なものを見たことがないと思った。
戦いの中心地をわずかに離れた所は、人気がほとんどない。どこかごつごつした石ころの転がった淋しげな荒野は、岩場に近いこともあって、凹凸が激しく、地形が平らかではない。
向こう側の戦場の方では、相変わらず青い兜の男が指揮をとっているのが、時々ちらちらと見えた。カッファとの打ち合わせがどうすすんだのかはわからないが、今のところ、特に奇抜な作戦も使わず、一進一退が続いてはいる。ただ、情勢だけをみると、ザファルバーンはかなり有利に見えた。シャルル=ダ・フールの青い旗が、揚々とはためくのが遠くからもはっきりと見える。
そんな戦場から離れた、この岩場を兵士が一人走っていた。戦場から逃げ出してきたのか、それとも斥候かなにかなのかもしれない。皆が戦に集中している中、彼がここにいることには、誰もまだ気づいていないようだった。
と、不意に男は顔を上げて、太陽の光を避けるように身をかがめた。見上げたギラギラと輝く太陽の光の中に、黒く細い影が映りこむ。地面の上に音を立てる短剣をみるまでもなく、彼は頭から被った布を投げ捨てて、腰の刀を抜きはなち、続く二投目の短剣をたたき落とした。
(見つかるのがちょっと早かったかな)
心中、シャーは、苦笑しながら、タッとその場を離れる。だが、相手はそれで逃がしてくれるほど甘くない。続けて、短剣が変則的な雨のように降ってきた。
風を引き裂く音が、耳元を掠めるようにして音を立てる。数本の短剣があらかじめ彼の動きを読んだように、しつこく蛇のような動きで迫ってきた。それをかわしつつ、たっと斜めに離れながらシャーは相手の姿を捕らえようとする。が、姿を捕らえきれない内に、今度は別の方向から短剣が斜めに飛んでくる。
「チッ!」
頭を下げ、一本をかわす。髪の毛を掠ったのか、ばらりと微かに目の前に短く切れた髪の毛が飛んだ。そのまま剣を横に振るって、飛んできた短剣をはじき返して、シャーはようやく相手の姿をつかんで、きびすを返した。
相手は、巧妙に岩の間に姿を隠しながら、徐々にこちらに詰めてきていた。
「やるじゃねえか!」
シャーは賞賛を送って笑った。
「よく、オレが本物だってわかったな」
「私の観察力を舐めて貰ってはこまりますよ。殿下」
目の前にふわりと人影が降り立った。
「あの若者には、あなたのように危険な空気がありません。すぐに見ていればわかりますよ」
口許を覆っていた布をわずかにずらし、彼はそう目立った印象のない顔を日の下にさらして微笑んだ。ちょっと小太りの人のいいオヤジ、といった印象のある男の目は、しかし、研ぎ澄まされた刃物のような光を、そうっと闇に隠している。その目の光りで、シャーは、すぐにそれがこの前、集団で襲われたときに、命令を下していた男だと確認することができた。
あまり機敏な印象のない体型にもかかわらず、その動きはかなり速い。だが、奇妙なことに、今日はそのほかの気配がなかった。隠しているだけかもしれないが、その片鱗が感じられない事は確かである。一体どういう風の吹き回しだろう。
シャーは、愛想良くわらいながら問いかけた。
「シャービザッグの頭領さんだろ?」
「そういう風であるときもあり、違うときもございます。影というのは、時によりけりで変幻自在なのが長所といえるのですよ」
中年の男、ギョール・メラグは、にっこりと人のよさそうなほほえみをうかべて言った。ザファルバーンの兵士風の衣装に身を包んだ彼は、とうとうゆったりと岩の側から姿を現しながら頬をなでやった。その手には、何本かの細い特殊な短剣がつかまれている。
「ようやく姿を見せてくれたんだな。一人で来るとは思わなかったぜ」
左様でございますか、と言ってギョールは薄笑いをうかべた。
「私とて、人の死ぬ前には情けぐらいありますとも。姿の一つや二つ、安い物ですし、時には一人で戦いたいときもございますのでね」
「オレが死ぬって事? それともあんたが死ぬってこと?」
「さあ、どうでしょう」
にこにこしながらも、ギョールはシャーの間合いには入ってこない。飛び掛かられないように、注意して立ち位置を考えているのだ。
「それにしても、私があそこに潜んでいると良くおわかりになりましたねえ」
「悪いねえ。オレはそういうところには、勘が異様にいいんだよ」
シャーはにやりと影に笑みをくれる。
「何しろ、ガキの頃からあんたみたいなヤツばかり見ているからねぇ」
「ほほう、それは勘のよろしいわけですな」
皮肉を返しながら、ギョールは感心したように息をついた。
「しかし、あなた、わざと私に着けさせましたねえ。いい度胸をなさっていらっしゃる」
「そりゃあアンタのような男は、ボーっとしている時のが危ないだろ。さすがのオレも、敵にトドメを刺そうとしたときに横から首刺されたら抵抗のしようがないからな」
「確かに、あの集団の中では、あなたの方が身動きが取れないでしょうし、何よりも目立ちすぎますからな。それに、この前のように側のかわいそうな好青年を巻き込むのは、わたくしとしても気が引けます。あなたのご判断は、良いご判断かもしれません」
ふっと笑い、ギョールは、静かに続ける。
「そして、あなたは、正直個人戦での方が、本来の力を出して戦える方のようですし」
「アンタはどうなんだい? そもそも、アンタような人間は、後ろで指示を下すんだろ?」
「将は剣を取らないのが普通なのですが、今日は特別ですよ」
そういってギョールは、わずかに足先を動かして、目を細めた。
「我らとて、何も集団で取り囲んでアッサリ殺すだけが仕事ではないのですよ。……たとえば、あなたのように特別に気に入った人間には敬意を表すこともあります」
「それで一人で相手をするってことか? それが、あんた達の敬意であって、礼儀ってことね?」
「よくおわかりで。物わかりのいい方は嫌いではありませんよ」
ギョールは、にやりと笑った。
「まさか、あんたがハダートちゃんの切り札ってことないよね?」
「さあ、依頼主の事は詮索しないのが決まりなのです。ああ、でも、一つだけ言えるのは、あの方は、この戦を負け戦にするのは目的ではありません。その点、ご安心いただければ」
「へえ、それはありがたいね」
そんなことは聞かなくても、実はよくわかっていた。ハダートは、自分に命の危険が及ぶような事はしない。敵と通じていたとしても、自分の軍を大敗させるようなことは、本気で裏切る気でもない限りはやらない。いや、やれないはずだ。
ハダートは、あれで内心ハビアスにおそれを抱いている。追いつめられもしないし、自分に有利な状況とは言い難い。今すぐ裏切るという方法を採るとは思えなかった。
ただ、このギョールの態度が気にかかる。彼がここにいるのには、確かにハダートの意志が働いている筈だった。その後の作戦が、どうにも読めないまま、シャーは、ギョール・メラグと対峙していた。
「さて、……それでは、向こうのことは気にせずに、我々は我々のお仕事をしましょう」
ギョールはそう言い置くと、ふっとごく自然な動きでつま先を地面から離す。剣士とは違い、彼は自分から突っ込んでくることはない。あえて、自分の武器が届く距離でしか襲ってこない筈だ。シャーは、近づいてくるように見せかけながら、一定の距離をはかるように動くギョールを目でとらえていた。