アズラーッド=カルバーン東方戦記
〜シャルル=ダ・フールと七人の将軍〜
2.ハダート-16
リオルダーナの国境地帯もかなり奥に進んできた。そろそろ、敵の攻撃があっていいころだった。誰しもが、恐らくその不安を抱えながら、行軍しているに違いない。だから、空に舞う砂が、砂漠からこの岩場に向けて軍を進めているかもしれない敵だと、察知している者は多いだろう。
肩にとまるカラスをなでやり、ハダートは岩場の人気のない場所に佇んでいた。岩山を抜けたところの空に、黄色い砂が舞い上がっているのがわずかに見えようだった。
「そろそろ来たな……」
もう一度カラスを軽く撫でると、ハダートは腕を組んだ。知らず、その口許には、笑みが浮かんでいた。
「……今日で全部終わらせてやるぜ」
「手はずは上々と、いうわけですか?」
ふと、後ろから声がしたが、ハダートは焦らなかった。そこにいる人物に大体の予想がついたからである。
「いつの間にそこにいた?」
ハダート=サダーシュは、ちらりと後ろを見て、皮肉っぽく笑っていった。シャービザッグの頭領である、ギョールがいつの間にやらそこに控えて、静かに笑っていた。
「相変わらず神出鬼没だな、ギョール。俺の暗殺ぐらいならいつでもできそうだな? ええ?」
「ええ、まあ。でも、旦那のようなお得意さまを裏切ることは、多分ありませんよ」
ギョール・メラグは顔色一つ変えずに、そう答えた。どこまで本気なのかはよくわからないのは、いつもと同じだ。闇に生きる彼は、普段から愛想笑いをうかべるばかりで、自分から心情を覗かせることはない。
「口では何とでも言えるだろうが」
「いえ、商売は所詮人間関係が大切ですよ。……そういう意味では、旦那は、最も信用のおける顧客といえるわけです」
「ほう、それでは一応信じることにするか」
ハダートは、そういって軽く笑った。ギョールはにやりとする。だが、先程の彼の言葉には、珍しく世辞はあまりなかった。ハダートは、かなりの金額をシャービザッグに投資しているから、本当に得意中の得意先でもある。それに、ハダートは、余計なことまで詮索しようともしないし、無理な依頼もしてくることはない。そういう意味では、確かに良質な客といえた。
それに、ハダートは気づいていないかもしれないが、ギョール・メラグは、彼のような人間は本当に嫌いではなかった。彼自身、半分気まぐれで生きているような男だが、同じく気まぐれに世の楽しみを求めて生きている所のあるハダートには、親近感を覚えるところがあったのかもしれない。情を仕事には持ち込んではならないのは当たり前のことだが、ギョールはそれほどガチガチに仕事を考える方でもなかった。時には、多少の気まぐれぐらい許されてもいいと考えるところがあった。
だから、ギョールは、今誰かからハダートを殺せ、と依頼されても、その依頼自体は断るのだろうな、と漠然と考えてもいた。積極的に守るつもりはないが、自分から手を下す気にはなれないのである。
「次はどうなされるのかな、と思いまして」
「お前の方はどうだったんだ、ギョール。……ここ数日間に手を打っておくと、この前言っていた件は?」
「ああ」
ぽん、と手を打ち、ギョール・メラグは苦笑した。
「ああ、色仕掛けですか? このまえ、例のあのお方が助けた小娘を差し向けるだけ、向けてみようと思ったのですが、やめました」
「ほう、どうして?」
「何せ、あの王子、見かけによらず警戒心が強いですしねえ……。陣幕の布に触れただけで、『色仕掛けの下見? 度胸あるじゃない?』とねぼけた声で声を掛けられると、やりづらくて仕方ないでしょう? おまけにあの娘は、まだ小娘でございますし、大体色を仕掛けて落ちる相手でもなさそうですからねえ、あのお方」
ギョールは、ややおどけたように肩をすくめた。
「正面から暗殺も考えましたが、無理なことです。あの王子は。真っ正面からいけば、斬り殺されるのは私の方。あそこまで強いとは思いませんでして……それでそれ以上の詮索はよしたのですが」
そういって、ギョールは後頭部を掻きやった。
「要するに、とりあえずは失敗ということだろう?」
「まあ、そういうことでございますが……」
そういいながら、妙ににやにやしているギョールに、ハダートは怪訝そうな顔で訊いた。
「なんだ、まだ何か言いたいことがありそうだな。言いたいことがあるなら、率直に言え」
「ははは、では、お言葉に甘えて……」
ギョールは、軽く苦笑した。
「実はですねえ、あの方にはこちらの方が参りましたよ。私もこの商売は長いのですが、あんな小僧に見破られたのは初めてです」
「へえ、さすがのお前も辟易するほど、嫌な小僧だったというわけか?」
ハダートは、あえて軽い口調で言った。だが、別にそれは機嫌がいいから、調子が軽いわけではないことは勘の鋭いものならすぐわかる。あまりにイライラしているので、それをごまかす為に、あえて軽い口調で上機嫌に振る舞っているのだ。ギョールは、そんな雇い主の機嫌を損ねないように気をつけながら、そうっと口をきいた。
「まあ、そういうことでございますよ。それにしても、アレは、なかなか厄介な相手でございますね。まだ、今は小僧ですが、ああいうのがもう少し経験をつけると、手におえません。まあ、殺るなら今の内ですかねえ」
ギョールの目が、一瞬不気味な輝きを放ったが、すぐにそれは消え去り、彼はややからかうような表情を奥に覗かせた。
「……ただ余計なことではあると思うのでございますが、あなたも正直、複雑な気分になっているのではないかと思いまして……それで少々ご忠告を……」
やや控えめにぽつりといった忠告という言葉を、ハダートは聞き逃さない。キッと淡い色の目を向ける。
「何がだ?」
「いえ、あの王子、殺すにはちょいと惜しいなと思いましてね。いえ、私のような専門職からすれば、殺し甲斐のあるいい相手でもあるのですが」
と、ギョールは、息を継いだ。
「なあんとなく、殺し辛い相手でもあるんですよ。妙に憎めないところがあるといいますか、ね。一度顔だけ合わせた私でも、そう思うのですから、言葉をかわしたあなたはさぞかしと思いまして……」
「何がいいたい?」
ややイライラして、ハダートは眉を引きつらせながら訊いた。
「率直にもうしますと、旦那、さすがのあなたでも、ああいう相手は少々相手にしづらいんじゃないでしょうか?」
「まさか」
鼻先で笑いながら、ハダートは言った。
「何で俺がアレに同情しなければならない?」
ギョールは、いえいえ、と軽く首を振って、それから少し声を低めた。
「あなたがどういうお方か、私は大体わかっているつもりですよ。私のような商売は、依頼者の人間を見ることから始めるものですからね。だから、あなたが、敵に対して、どれほど冷酷で容赦がないのかも分かっています。……でも、あなたも私も曲がりなりにも人間ですから、時に情にほだされることもあるわけです。そして、あの標的は、もっともその危険が高い。こんな私にも経験があるわけですよ、うっかり、同情して標的を取り逃がしたことがね。私も気をつけますが、旦那、あなたも気をつけた方がよろしいかと思いまして……」
「安心しろ。俺の方は手を抜くつもりはない」
平静さを装いながら、きっぱりとハダートは答えた。
「お前は、俺のいうように動いてくれればそれでいい」
「左様ですか。差し出がましい真似をいたしまして、失礼しました」
ギョールは静かに笑った。
「で、次の手はずは……」
「伝えたとおり、リオルダーナの前衛がこちらに向かっている。この岩場を抜ける直前で一戦やらかすつもりだ。その時に、同時に仕掛けろ。……ヤツを一人すれば、後はこちらの罠にはまる筈よ」
「なるほど。では、うかがった通りの行動を……」
にこり、と不気味に愛想笑いをうかべ、軽く頭を下げたギョールは、静かにさがった。ふっと背後の気配が消える。ハダートが振り返った時には、すでに彼の姿はどこにも見えなかった。ハダートは、再び、砂煙上がる空に目を向けた。
「手を抜くはずねえだろうが」
ハダートは静かに吐き捨てる。
「土足で人の心に踏み込んでくるようなヤツが、俺は一番嫌いなんだよ!」
そういいながら、ハダートは、自分が、少しだけ複雑な表情を浮かべていることには恐らく気づいてはいない。
斥候がすでに状況を伝えていた。岩場を抜けたばかりの彼らの前には、迫ってくる砂煙が見えている。ということは、少なくない敵が、こちらに向かってきているということを示している。迫る戦の予感に、カッファ辺りは、あちこちに忙しなく命令を飛ばしていた。
「まあったく、カッファも落ち着きのないひとだねえ。もっとゆったりしてればいいのにさあ」
シャーは、大あくびしながら、そんなことを呟いていた。今日はさすがに甲冑に身を包んではいるのだが、兜は手に持って馬の鞍で揺らして遊んでいる。揺れるたびにふわふわとする青く長い鳥の羽が、何となく彼の性格を示すようにゆらゆらしているのが印象的だった。
「あのですねえ」
スーバドは、呆れながら声を掛ける。
「あれ? なんか言いたいことあるの、スービィーくん」
やや頭を抱えつつ、スーバドは言った。
「どうして、そうのんきなんですか……。外からは敵兵が来るし、内からは……」
「ホント、内憂外患ってよくいったもんだよねー。オレ様もめげちゃいそう」
言ったそばからノンキに言って、シャーはくるりと巻いた癖の強い前髪を指先で、巻いたり戻したりいじっている。あまり生気とかやる気とかそういった類の意志が、いまいち感じられない目は、何となくどんよりしていた。
「……いいですね、そんなにしてられると」
「あのねえ、ずっと気を張ってたら、もたないでしょ。オレだって人並み……とはいえないけれど、ちょっとぐらいは緊張もあるんだぜ?」
シャーはそういうと、手に持った兜の砂を払った。
「ただ、オレは、そういう空気が嫌いでねえ。ハダートちゃんじゃあないけど、やるならやるで、なるべく直前までおもしろおかしくしていたいのさ」
シャーの口調が、徐々に変わってきていることにスーバドは気づいた。口調が変化するごとに、声までもやや低くなる。
「やるときはやるさ……、前にも言っただろ? オレは、まだこんな若い身空じゃ死にたくないからな。なにせ、女の子の手もロクに握れてないんだからさー」
そういって、シャーは兜を被った。そのまま顎紐をきっちり結ぶと、勢いよく結んだせいか、ビイッと音が鳴る。すらりと下からスーバドを見上げた彼の目は、明らかに普段とは違った。
いつでも自分はシャルルでもなくただのシャーだ、等と言いながら、その時のシャーはシャーでなく、すっかりアズラーッド=カルバーンと呼ばれる青い兜の将軍である。きりりとした視線の彼には、年齢には合わない妙な威圧感がある。
スーバドは、それに若干萎縮しながら、ふと思った。一体、この青年は、きりりとしている頭のいい彼と、へらへらしている彼のどちらが本当なのだろう。普段が演技なのか、今が演技なのか。
そう考えるたび、スーバドは、何となくこの青年が恐くなることがある。もし、全て計算して動いているのだとしたら、普段まわりに見せている笑顔も態度も全部偽物なのだろうか。
「あのさあ……」
「は、はは、はいっ!」
いきなり声を掛けられて、飛び上がるほど驚いたスーバドに不審そうな目を向けて、シャーはやれやれとため息をついた。
「全く、君も慣れないヒトねえ。まだ恐いわけ?」
「ち、違います!」
思わず、シャーの呆れるような目線にムッとしてスーバドは、やや声を荒げた。
「いい加減、慣れました!」
「へぇ、そうなの? 信用しちゃってもいいわけェ?」
「信用しないつもりですか?」
スーバドの必死な顔から目をそらしつつ、シャーは、はいはい、と軽い口調で言った。
「まあ、それならそれでいいんだけどォ」
でも、と、ややシャーは、少しだけ表情を整えると言った。
「今回は、オレからちょいと離れた方がいいんじゃないの? 正直、今回は、どうなるかオレもわかんないよ」
そう言って、シャーはにんまりと笑った。
「誰かさんに、昔言われたことがあるんだがねー……オレと一緒にいるとロクな目にあわないそうだよ。オレは、まわりを巻き込んじゃうらしいからねえ」
明るい笑いをあげ、シャーは、兜越しにスーバドを見た。
「だから、一応いっとくけど、死にたくなかったらオレについてこないほうがいいぜ。カッファについていけって言われてるんだろうけど、カッファはあれで優しい人だから、あんたに無茶はいわないさ……。無理そうだったら、素直に引け……」
「そ、それは、……わ、わかりましたけど……」
シャーの気迫のようなものに圧されて、スーバドは、思わずしどろもどろに答えた。本当は張りたい意地などもあったのだが、一瞬びくりとしている間に、意地を張るタイミングは失われる。スーバドは、困惑気味に訊いた。
「で、でも、今回は、妙に……」
「気弱ってこと? ……当たり前じゃない。向こうもだけど、あっちも、この前ので実力がわかったわけよ。だから、正直にいうけどさあ」
シャーは、口許だけ笑いながら、軽い口調を装いつつ続けた。
「オレも、実はハダートちゃんが、どう出るか、なんか今回あんまり予想できないわけよ。後は、まあ、オレの勘と運の良さとの勝負かな」
「ええっ! ちょっと待って下さい! そんな絶望的な状況だなんて訊いてませんよ!」
「オレはいつも絶望的よ? だから言ってるでしょ。オレは、ギリギリのところでやるのが好きなんだってば」
それとねえ、とシャーは、静かに言いながらにやりとした。
「カッファにも言っておいたけど、真っ直ぐだけで敵が来るなんて変すぎるだろ? ……この岩場、どこかに伏兵がいるのかもしれないよ」
「ええっ! それって……」
「だから言ってるでしょうが。……アブナイから気をつけろってさ」
シャーはそういうと、馬を前に進めて、兜の前を整える。
「なにせ、本星はハダートちゃんだからねえ。これは、ヤロウの計略の一環なんでしょッ?」
青いマントと羽が、風に別の揺れ方をしながら、ゆったりと前に進む。シャーは、ちらりとこちらを振り返った。その目が、何となく何かに酔ったような不気味な青をたたえているのは気のせいだったのだろうか。
「いってるだろう? アンタにはわかんないだろうけど、オレはこういう状況に燃えるタチなわけよ……。ハダート同様、オレも危険に対する感覚が、とっくの昔にイカレちまってるのさ!」
シャーがにやりとした直後、少し遠くで、わあっという声があがった。敵と前衛がぶつかったのは、考えなくても理解できる。
戦闘の始まりに、シャーは、マントを翻すと馬に鞭打って走り出した。それをしばらくだまって見送っていたスーバドは、一瞬躊躇った後、仕方なく彼に続いた。