アズラーッド=カルバーン東方戦記
〜シャルル=ダ・フールと七人の将軍〜
2.ハダート-14
その日、いつも暑い筈の太陽は、なぜか寒々しい色をしていた。それが、砂漠の国の下での炎天下の出来事だったか、それとも北の冬の寒い草原での出来事だったか、彼は良く覚えていない。ただ、その日は、多分寒い日だった。冬だったのかもしれない。街は灰色をしていたように思う。
た、た、た、と走り出し、追われて追われて逃げ込んだのは、袋小路だった。手にもてるだけの食べ物を抱えた、まだ十になるかならないかという少年は、絶望的な眼差しで背後を振り返った。
追われていることは、別に珍しくなかった。珍しいのは、追ってきた人間の服装の方だ。普通は、店のオヤジが追いかけてくるのが普通だが、この時、彼を追いかけてきたのは、店の人間でも役人でもなさそうだった。
煌びやかな服を纏い、上品な顔を歪ませている。貴族を思わせるその男が、本当に貴族かどうかなど、少年にはどうでもいいことだった。ただ、逃げ場所を探して視線を彷徨わせながら、彼はどこかで、もう逃げることが無理なことを悟っていた。男が、まわりを取り囲む武官たちにめくばせする。
少年は、この地域でもあまり見かけない銀髪を、あっさりとつかまれて、頬を殴られ、そのまま、冷たい水のためられた桶の中に投げ込まれた。思わず放してしまったパンは、地面にばらばらと散らばった。
まともな食事をしたのは、三日前になる。あまりの空腹に、彼はそれを近くの店から盗んだ。そこで店主をまいたのはよかったが、途中、パンを抱えて歩いているのが、部下に連れられ歩いていたこの貴族風の男の目に止まったらしいのだ。彼は、少年を盗賊と決めつけ、弁解もきかずに追いかけるように言った。役人でもないのに、追いかけられた理由はよくわからなかった。
冷たい水で全身は、更に冷たくなる。少年は、震えながらも、おとしたパンの様子を確かめた。その何個かは、水につかってしまっていたが、まだ、水もかかっていないものもある。思わず喜色をうかべ、少年はそろそろと起きあがってその一つに手をさしのべようとした。
「あっ!」
高価そうな靴をはいた足が、目の前に落ちてきて少年は悲痛な声をあげた。まだ無事だったパンは、その靴に踏みにじられる。思わず、相手に飛び掛かった少年は、相手の男の冷酷な瞳を見た。それには、軽い喜びの色が見えた。彼にとっては、それは、必死な盗賊を少しいじめて遊んだ、という程度のものだったのかもしれない。しかし、少年がとびかかったぐらいでどうにもならなかった。そのまま、同じ足で蹴倒され、残りのパンも、先程の水桶の中に叩き込まれた。すべてのパンが台無しになったことを知りながら、少年は、頭の上で、貴族風の男が「これで懲りただろう? 盗賊」と、誇らしげにいったのをきいた。
『悪いことをするからこうなるのだ』
そういって、笑った男の目的が、単なる懲らしめでないことはすぐにわかる。反抗したくてもできずに、少年は、蹴られた痛みもあって、そこに倒れ込んだまま、唇を噛みしめていた。
その時、男の元に、使いがどこからかやってきて、何事か伝えた。恐らく寄り道せずにすぐに、というだれかの言づてかなにかなのだろう。それをきいて、男は仕方がない、と呟くと、少年には目もくれずにとっとと歩き出した。彼らの会話だけが、少年の耳に、延々と響いた。
『殿下が何もパン泥棒に自らお手を下されなくても』
部下がそういうと、殿下とよばれた男は軽く笑った。
『何、打ち合わせまでの間、私も何分退屈だったからな……。盗賊を懲らしめるのも国を治める王族のつとめではある。まあ、退屈しのぎにはなったよ』
『ああ、そういうことでございますか』
その後は、彼を賞賛する声が続いて、やがてそれも遠くになっていく。ハダートは、ゆっくり顔を上げて、踏みにじられた食べ物を見た。水をかけられた後で踏まれたパンは、半分溶けてしまっていて食べられるような状態ではなかった。それでも、それを口に入れるかどうか考えてもよかったのだが、そうすることで先程の男に更に嘲笑われるような気がして、悔しくなった。何かを考える暇もなく、ただ、少年は涙をこぼした。殴られたのが痛かったからではない。乱暴に扱われたり、罵られたりするのは、人のものを盗んだから仕方がないのだ。それが悲しかったのではない。
ただ、目の前にある食べ物は、彼にとっては三日ぶりのまともな食事になるはずだった食料だった。それを遊び半分に踏みにじった男が、彼には許せなかった。
(何が……)
少年は、砂を掴んでにぎりしめた。
(何が、退屈しのぎ、だよ!)
自分のような子供の盗賊が出るのは、きっと為政者の怠慢だ。だというのに、権勢をかさに着るのが許せなかった。きっと、彼にとってはこの食料など、ゴミ屑にも似たようなものなのかもしれない。それでも、少年には貴重な食料だったのだ。その事情すら解さない、いや、解していてわざとこうした彼らの残酷さに、彼は怒りと憎しみを覚えた。
(王族なんて、貴族なんて、お前達は、ただ、生まれがよかっただけのくせに!)
少年は立ち上がり、涙をぬぐった。唇を噛みしめたまま、彼は鈍色の空をじっと睨んでいた。
(お前みたいな無能な奴、オレに力さえあれば、絶対に引きずりおろしてやる!)
それが彼自身、いつ、どこで、起こったことか覚えていない。どこの王族かもしれないいし、一体あの殿下とやらがどうなったかもわからない。時には、あれは悪い夢かもしれないと思いながらも、けして夢にするには鮮明な色があったのを覚えている。
あれから、彼に芽生えた少年の身には余すほどの黒い炎は、やがて彼が大人になってからも消えることなく、くすぶり続ける事になるのだった。それは、彼自身どうすることもできない衝動になって、時に顔を覗かせることがある。
その後、ニルフの貴族の老夫婦に取り入り、養子となった少年は、そのまま将軍とまでになった。後、ハダート=サダーシュの名で呼ばれることになる将軍は、それでも、未だにあの時の思いから逃げられないままに生きている。
夜の砂漠は冷たく、空気は氷のように澄んだ静けさをもっていた。自分の陣幕からふらりと出てきたハダートは、冷たい空気に火照った顔が冷やされるのを感じた。まだ、鼓動は早く、耳元で大きく鳴っていた。呼吸が少し荒いのは、すぐにおさまったが、外に出たとき、金色の月だけで照らされた砂漠を見てすぐに、めまいをおこしたようにそれが揺らいだような気がした。
「チッ、見たくないものをみちまった!」
ハダートはそう吐き捨て、その場に座り込み、額にかいていた汗をぬぐった。陣幕から持ち出した水筒の水をふくみながら、革袋の臭いのついた水を飲み干す。喉が渇いていた。
こんな夢を見るのは、きっと、今日の昼間、奴等がしくじったせいだ。いいや、厳密に言うと奴等でなく自分が、なのだが。
シャルル=ダ・フールを消すべく仕掛けた罠だが、昼間、彼はそのまま無事に本隊に帰ってきたのだ。後でカッファにこっぴどく叱られ、それをふざけた言葉と態度でかわしている彼には、虎口を逃れた者の緊張感などありはしなかったが、何にせよ、ギョール・メラグの襲撃も失敗し、リオルダーナの兵隊達もトドメを刺せなかったのである。子細は大まかにしかきいていないが、それでも、やはりシャルル=ダ・フールという男は、なかなかなめられない人物だと言うことが再認できた。とりわけ、武芸について。ギョール・メラグの一隊の襲撃を、一人で立ち会ってかわしたということをきくと、相当なものだということが推測できる。切れ者だとは思ったが、そこまで武芸も出来るということをしって、ハダートは、もう一つたてていた策をどうにか切り替えなければならないことを感じていた。
そして、あと一つ無視できないのは、エルテア=ハスがリオルダーナ兵を迎撃したという話だ。エルテアが知っていると言うことは、カッファも知っているのかと思ったが、昼間の様子をみてそうは思えない。シャルルが自分で援護を頼んだのか、それとも、エルテアが自分とシャルルの話をきいていたのか、どちらかだと思う。
「あの女……、余計なことを……」
ハダートは、ぽつりと呟いて、やや歯を噛みしめながら空の方を睨んでいた。
「余計なことで失礼」
ふいに、声がかかり、陣幕の方から人影が揺らいだ。だれだと訊かなくてもわかるので、ハダートは軽く腰の短剣に手をふれただけである。そこに立っているのは、エルテア=ハスだった。わずかな光の中で、漆黒の髪の毛が闇のように広がっているのがわかる。その表情はわからないが、彼女が不敵に笑っているのは何となく予想がついた。
「夜遅くに一人歩きとは、不用心ですな……」
「ご心配なく。わたくしは、武芸の方にかなり心得がありますもの。少なくとも、あなたよりは」
皮肉を軽く応酬して、エルテアは、ハダートとある一定の距離を保ちながら腕組みをした。
「寝静まった夜でないと、あなたとお話もできそうにないからね。秘密のお話だもの」
「へえ、どうせ色気のない話でしょうが」
ハダートは嫌味っぽくいって、片膝をたてて姿勢を変える。
「そうよ、色気なんて全くない話よ」
「だったら、とっとと本題に入ったらどうなんだ?」
いきなり、ハダートは、敬語を使うのをやめた。突然の口調の変化は、エルテアにいらだったというよりは、単にハダートの機嫌が良くないせいだろう。
「アンタは、オレとあの王子様のやりとりをしっているんだろう?」
ハダートは、睨むようにしながら訊いた。
「それで、昼間、邪魔をしたんだろう。そうだな?」
「まあ、邪魔ではないわ。それに、何をご心配か知らないけれど、あなたの心配するようなことは、私はしませんよ」
エルテアは、やや挑発的に笑んだ。
「あなたは、カッファ殿や兄に私が、あなたのやっていることを言うと思ったでしょう? でも、それはご安心くださって結構ですわよ。……少なくとも、私は誰にも他言はしないわ。これからも、ちょっと手を貸すかもしれないけれど、あなたとあの三白眼王子のやりとりを外野から見守らせていただくつもりよ」
「へぇ、そいつは殊勝な心がけだね。一体どういう心境なのかね、よその国の王子なら、死んでも痛くもないだろうけどよ」
「それはそうかもしれないけれど、私も興味が湧いたからよ。あなたとあの王子の賭けとやらに」
エルテアは、にやりとしてそういった。
「一体どういうことだかしらないけれど、とにかく興味が湧いたの。この顛末がどうなるかということについてね」
「人の生死がかかっているのをしってて、高みの見物とは、いい趣味だな?」
「そうねえ、いい趣味かもしれないわよ」
ハダートの皮肉を流し、エルテアはにんまりとわらった。
「とりあえず、殿下は、カッファ殿にこの事を知らせるなといったわ。本人もいっていないでしょう。だから、あなたの首は、すぐに飛ぶことはないわ。少なからず、この決着がつくまで、はね」
「あの三白眼がそういったのか?」
それについては、少々意外な気がした。さすがにカッファは、この件について多少は知っているとは思っていた。暗がりに怪訝そうな顔をしたハダートの表情が見分けられてはいないだろうが、エルテアは、にっこり笑いながら頷いた。
「殿下は、あなたと最後まで勝負がしたいらしいわね。……だから、私もあなたにはっきりいっておくことにしたわ」
「何を?」
訊いたハダートに、エルテアは、月光の中で小悪魔的な悪戯っぽいほほえみをうかべた。
「私も、この賭けにのらせていただくわよ。私は、殿下が勝つ方に。ただ、私は、どちらにもなるべく手を貸さないことにするわ。もちろん、このことも口外しないわよ」
一瞬きょとんとしたハダートに、エルテアは微笑んでいった。
「そういうこと。あなたが、私から情報が漏れることを心配していたら面倒だものね。私の名誉にも関わるし。だから、先に宣言しておくことにしたのよ。そういうことだから、あなたは勝負に専念なさいな」
「何だ……それは……」
いきなりの言葉に、ハダートは少し気味悪そうな顔をした。何を考えているのか、この女将軍は。だが、ハダートにそう告げると、エルテアの方は気が済んだらしく、さっと身を翻した。
「それじゃあおやすみなさい。ちょうど、月に惹かれて起きてきたみたいでちょうどよかったわ。明日からも、せいぜいがんばりなさいな」
「……チッ」
軽く手をふっていくエルテアを見やりながら、ハダートは舌打ちした。彼女はいやに悪戯っぽく微笑むと、そのまま走って帰っていく。それを呆然と見送りつつ、ハダートはあごをなでやった。
「何考えてるんだかわからねえな。あのアマ。二日酔いか? で……」
ぽつりと吐き捨てつつ、ハダートは、エルテアを見る目を、そのまま陣幕の背後にやった。
「アンタは、どうおもうわけだ? 王子様」
「あら〜、ばれてたのねえ」
軽い声が響き、陣幕の布の背後からひょろりと人影が姿を現した。
「いやさあ、ばれてるかと思ったけど、まあ、大丈夫かなあと。気づいてるなら最初からいってよねえ」
シャーは、苦笑いしながら、こちらに歩いてきた。ハダートは、そちらには目を向けず、皮肉っぽく笑いながらいった。
「立ち聞きとは、実に高尚な趣味だな、王子様」
「そりゃあどうも。でも、あんたも立ち聞きは好きでしょ?」
「さあ、どうだろうな? 俺は生憎と座ってきくほうが好きなんだが」
「ああそう」
シャーは、そう頷きながら、ハダートの横まで歩いてきた。
「いやはや、エルテアさんがさあ、何言い出すかわかんないから慌てて後つけてきたんだけど、でも、ま、よかったよ」
ハダートは、軽く視線をシャーの方にやった。
「とりあえずは、今のトコ、邪魔はあんまり入りそうにないしね。賭けなんてえのは、外野が入っちゃうと結構大変やりづらいからさあ」
「そりゃそうだな……」
ハダートは苦笑した。そして、薄い青の瞳を、ちらりと鋭くシャーに向けた。
「で、アンタ、俺に何をいいにきたんだ?」
「いやははは、鋭いなあ。オレがエルテアさんの監視だけで、きたんじゃないってこともご存じでらっしゃるのね」
シャーは軽い笑いをうかべたが、その笑いは、屈託のないものから少し含みをもつものに変わっていた。
「今日のは、結構惜しかったよ。オレも正直、やばいかな〜と思ったし。うーん、運がよかっただけだよねえ。アンタには残念だったろうけど、でも、結構やるじゃんか」
「へえ、それは光栄だな」
ハダートは、静かに答え、そして言った。
「じゃあ、俺も今回のは見事だったとほめてやるよ、王子様。でも、俺の一度目の策は、ただの小手調べだ。あんたが可愛そうだから予告して置いてやるが、もう一度あるぜ。……そして、それが最期だ。それが、オレの最後の手だよ」
「そう、それはよかった。何度も仕掛けられると、繊細なオレ様の心がもちませんからね〜。こういうのが十回もつづくかと思っちゃったよ。よかったよかった」
にやりと笑い、シャーは繊細さの欠片もない顔で笑った。
「それじゃ、オレも頑張ってみるけど、あの、アンタの部下のおっちゃんにいっといて」
ハダートは、一度瞬きした。一瞬、それが、ギョールのことをいっているとは、思わなかったのだろう。
「オレ好みの娘さんを使うのはやめてほしいな〜ってさ。正直、やりにくくって困るんだよ〜、ああいうことされちゃ。好感度落ちそうだし。あ、でも、一回はちょっと会わせて欲しいな〜とは思うんだけど」
くだらないことをいいだしたシャーに、ハダートは、この王子は一体何を奇天烈なことを言い出したのかと不審そうな目を向ける。シャーは、眉をひそめた。
「そういう目で見ない〜。いいじゃない、なーにもない砂漠でもときめきぐらいはほしいのよ」
シャーは、からからっと笑った。やや気圧され気味に彼を見ているハダートを残してシャーは、ふらりと歩き出す。
「そうそう、顔色悪いけど、夢見でも悪かったのかい?」
ちらりと目を向けてシャーは言った。
「夢見の悪いときは、何かあったかいものでも飲んだ方がいいんじゃない? あっちのねえ、見張り所の詰め所のおっさん達は、オレの知り合いなの。多分いったら何かたき火でつくったあたたかいものでもくれそうだし、気分転換になるよ?」
ハダートは一瞬、さっと青ざめた。シャーは、おそらくハダートの夢の内容までは知らないはずだ。だが、何故か、あの瞳に全てを見透かされた気がして、思わず彼は羞恥と憤りが同時に湧いてくるのを感じていた。ハダートは、思わず立ち上がりかけたが、その時にはすでにシャーは、ふらふらと歩き出して、向こうの方の闇に消えかけていた。
「そんじゃ、おやすみ〜」
シャーの何も考えていなさそうな声が、ハダートの耳をかすめてふわりと夜闇に溶けていく。
「畜生……!」
砂の上に一人のこされ、ハダートは舌打ちした。夢を見ていただろうことを当てられた。それだけのことなのに、ハダートは、何故か知られたくない思い出を無遠慮にわしづかみにされたような気がしていた。アレは、誰にも触れさせたくない嫌な思い出だというのに。唇を噛みしめ、ハダートはもっていた水筒を思わず地面に叩きつけた。
「あいつ……! 絶対、ゆるさねえ!」
彼が静かに、しかし、激しく呟いた言葉は、夜の風がそのまま闇にさらっていった。