アズラーッド=カルバーン東方戦記
〜シャルル=ダ・フールと七人の将軍〜
2.ハダート-5
「何もないとはよく言ったものだ」
客が独り言を呟いたのを訊きながら、酒場の店主は仕事に励んでいた。
窓から砂が吹き込んでくる。窓から見えるのは、向こうの砂漠だ。小さなオアシスの中にある集落の、うらぶれた酒場からはそのようなものぐらいしか見えない。通りがかるのは旅人と行商人ぐらいなものである。
先程呟いた男もそうした旅人の一人のようだった。だが、彼は、店に来る旅人の中でも、少々浮いた存在かもしれない。もちろん、場末のここには、ろくでもない連中もいたりするのだが、そうしたならず者とも一線を画すような、独特の雰囲気を持った旅人だった。
男は、先程、酒場に入ってきたばかりの男だった。背が高く、がっしりとはしているが、男にはどこかふらりとした印象がある。恐らく流れの戦士なのだろう。黒いマントに身を包んだ男は、その色が示すとおり、不吉な雰囲気を背負って現れた。旅人の割には、どこか青白い顔に、鋭い目を光らせていた。そこそこには整った顔立ちなのかもしれないが、印象としては単に酷薄で冷たいだけである。短髪の黒髪に黒い瞳だが、一体どこの出身なのかは、いまいち判然としない。
肩には大きな剣を背負っており、座っている今はそれを外してそばに置いていた。今は、酒を飲んでいるが、何となく不吉な雰囲気はずっと漂っていた。あるいは、そのままでは周りすら切り裂きそうな殺気を、無理に抑圧しているような、そういった嫌な緊迫感がそう思わせるのかもしれない。旅のならず者達も、何となく彼を避けて席に着いていた。
ふと、男は、ちらりと窓の方に目を向けてにやりとした。どこか陰のあるそれは、男の危うげな陰気さを示しているかのようだった。
「オヤジ、あの砦はどこの砦だ?」
男に訊かれ、今まで黙っていた店主はそうっと男を下の方から見た。鋭い目は、幸い店主の方を見ていなかったが、質問の意味がわからず、恐る恐る店主は聞き直した。
「あの、どこと言われますと?」
「さっき、ここに来るまでに、砂漠の向こうに砦が見えた。アレは、どこの国の砦だ? それとも廃墟か?」
男の低い声の静けさは、別に再度質問されたことにいらだったわけではないらしい。店主は、安堵して冷静さを幾分かとりもどした。
「あ、ああ。あの砦でございますか」
店主はようやく、彼が街の向こうにある砦を指しているのだと気づいた。この街からは結構離れているために、すぐにはわからなかったのだ。
「あの砦は、リオルダーナ王国のものです。そういえば、この前から司令官が来たとかいう噂を……」
「司令官?」
「はあ、確か、王族の方だときいたような……。まさか、あの有名な戦王子ではないとは思うんですがねえ。しかし、リオルダーナ王は戦好きで知られた人物。だれをいつ派遣してくるかはわかりませんからなあ」
店主は、そういってわずかに唸った。リオルダーナでも、辺境に位置するここは、それほど本国については詳しくない。それでも、リオルダーナ王の戦好きは知られていた。
「この前、ザファルバーンが、ガラータフを落としたとききましたが……」
「ああ、そうだときいた」
「ガラータフは、元々リオルダーナと縁が少なからずありましたし、あそこが落ちれば次はここを狙ってくる、とリオルダーナ王は早速ザファルバーンとの戦に備えていると言う話です」
「なら、その内、開戦するのも時間の問題だな……。ザファルバーンは、ガラータフ国境まできているという噂をきいた」
男は、ふむ、とうなりながら、酒をあおる。
「でしょうな……。だから、もしかしたら今回の司令官は、戦王子かもしれないと……」
「なるほど。あれはリオルダーナの切り込み的な存在だときいたな」
男は、何か飲みながら考えている様子だったが、ふと思いついたように酒を飲む手を止めた。
「戦王子、ということは、噂にきくアルヴィン=イルドゥーンだな……」
そういって、沈んだ笑みを浮かべた男は、酒を一気にあおり、そばの剣を引きつけた。その時の剣の金属の音に、思わず、近くの店主どころか周りの男達までもがびくりとしたが、男は平気な様子でそれを背負い、店主に向かって貨幣を投げる。
「いい話をきかせてもらった。……釣りは情報料だ。とっておけ」
男は、そういうときょとんとしている店主や、まだ警戒している様子の男達には目もくれず、そのまま剣を背負って出口に向かっていった。その背に向けて、店主が挨拶したのは、男がすでに酒場を後にしてからのことである。
砂に煙る街をざくざくと歩きながら、男は遠くにわずかに見える砦の方を見やった。
「ザファルバーンとの戦は、小競り合いではすまんはずだ。きっと、アルヴィン=イルドゥーンは、兵を雇う」
男は顎をなでながらそう呟く。久しぶりの殺気に輝く目を前に向けながら、男は暗く笑んだ。
「これは金になるかもしれんな……」
男は楽しそうに呟く。同時に肩に背負った剣が、歩くたびにわずかな音を立てる。それが、男には随分と心地よい音に聞こえた。
やがて、砂の煙のなかに、男の黒い影は消えていった。男がどこに向かったのか、それは街の者達の知ることではない。
第一の砦は砂漠のそばにあり、砂漠から飛んでくるざらざらとした砂が、部屋の敷物の上にもふりつもっていた。掃除してもこの有様の部屋を見て、老爺は顔をしかめるが、黒い服の男は平気な様子である。そもそも、彼の黒い服の肩にもすでに砂がふりつもっていた。彼は敷物の上に座り、腰に差していた剣を外して肩にかける。
「このような部屋しかなく、申し訳ございません。これでも、調度品だけは一級のものをそろえさせたのですが……」
年老いた従者は、そうかしこまっていったが、相手の男は軽く笑っただけだ。年の頃は三十前後、高い鼻梁に鋭い眼差しの男は、整ってはいるが野性的な印象があった。だが、どこかしら品のある顔立ちからしても、彼が高い身分の生まれだと言うことはおおよその予想がつくところだろう。ウェーブがかった髪の毛を後ろに伸ばした男は、笑いながら言った。
「ザス爺は、昔からそうだな。俺はそのようなことどうでもいい。調度品など、戦いに負ければ略奪されるか、破壊されるだけだ。どうせ、持って帰る気もない。気を遣うな」
男は見目よい顔を彼のほうに向けながら言った。
男の名は、アルヴィン=イルドゥーン=リオルダーナ。リオルダーナの第三王子で、戦王子との異名を持つほど、彼が常に戦場にいることは、それなりに有名な話だ。ザファルバーンのシャルルのように、いるのかいないのかわからないような男とは違い、彼の名前は、リオルダーナでは知らぬ者がいないといわれるほどである。
「こんな仮宿の居心地がいかに悪かろうが、野宿するよりマシだろう?」
「殿下のお心遣いは、いつも……」
「堅い話はよせ。それよりも、ザスエン」
ちらと、アルヴィンは、窓のほうに目をやった。そこからは、かろうじて青空が見えるほどだ。
「ザファルバーンの王子の軍はどうなっている?」
ザスエン、と呼ばれた老人は、はい、と返事をしていった。
「今現在は、ガラータフの国境付近をガラータフの臣下を懐柔しつつ、進軍中とのことです」
「なるほど」
アルヴィンは、頷いた。
「まあ、ここに来るまではもう少し時間がかかりそうだな」
「はい」
にやりとするアルヴィンの表情をそうっとうかがい、ザスエンは、笑みを浮かべた。どこかしら、陰気なところのあるザスエンだが、その笑みには少しだけ親愛の情のようなものが見られるようだった。
「殿下がそういうお顔をされるのを見たのは久しぶりですな」
ちらと、目を向けてくるアルヴィンに、彼は続けていった。
「お楽しみのご様子だ」
「ふふ、まあ、そうだな。アレの中に非常におもしろい男がいる。正直、アレがどういう男なのかはよくわからんが、まずは切れ者といったところか。手応えのある相手だ」
「ほう」
「戦好きの親父殿は、俺のこういう気持ちをわかってくださるだろうが、兄と弟達にはわかるまい。もったいないことだ」
アルヴィンは皮肉っぽく笑った。
「権謀術数は、宮中のみで振るうものではあるまいに。……戦の楽しみ方も知らぬとは、哀れな男達だ」
「殿下……」
ザスエンは、たしなめるように言った。その双眸には、警戒の色がみてとれた。気配をさぐりながら、彼はそっと小声で告げる。
「それを誰かにきかれましたら……」
「は、俺には手を出して来るまい」
アルヴィンは、老人の心配を鼻で笑う。
「兄達も弟達も、……俺が本気で怒ればどういうことになるか分かっているはずだ。それに、俺は王位などに興味はない。そういってやっているのに、そこまでの危険は冒さんよ。……奴等は計算が速いからすぐにわかるだろう」
あっさりと言い切って、アルヴィンは、にんまりと笑った。
「お前には不服かもしれんが、俺は別に今の俺の身分を嘆く気にはならんのだ。俺は、戦いを楽しんでいるからな。正直、都は退屈でならん」
「しかし……」
ザスエンは、声を潜め、そして、やや主君を非難するような口調になった。
「殿下は、本来兄上様達よりもずっと高貴な身の上。あなた様が次の王になってもおかしくない身なのですぞ。それを兄上様達が結託して、あなたをこんな辺境に……」
「よせ。……それこそ、きかれると俺ではなく貴様がただですまんぞ」
アルヴィンは鋭く口を挟んだが、それは厳しいばかりではなく、少しだけ世話役の老人に対する気遣いのようなものが感じられる口調だった。申し訳なさげなザスエンを見やりながら、アルヴィンはにんまりと微笑んだ。
「よいか。俺は今の状況に、これ以上ないほど満足しているのだ。お前が心配などするな」
ザスエンは頭をさげて、そっと頷いた。かつて、リオルダーナ王の元で裏の策謀家として働いたこともあるというこの男にとって、今、アルヴィン=イルドゥーンは、かけがえのない主君だった。だが、恐らく、それだけではない。子供の頃から面倒を見てきた彼に、ザスエンは、彼らしくもない愛情を抱いているのかもしれない。
アルヴィンは、素直に老人が頷いたのを見て、少しだけほっとしたようだった。ありがたいことでもあるのだが、武骨なアルヴィンには、彼の気遣いは少し窮屈なところもあるのだ。だが、その気遣いを突っぱねることをすることもない。
幼い頃から、彼だけがずっと自分の味方だったことを、この野蛮な戦王子もよくしっているからだ。
「……そうだ。もし、兵がたりないようなら、傭兵でも雇うか」
再び、少ししか見えない空に目を向け、アルヴィン=イルドゥーンは、ぽつりといった。
「今度の戦いは大きいものになるかもしれないからな」