アズラーッド=カルバーン東方戦記
〜シャルル=ダ・フールと七人の将軍〜
2.ハダート-1
室内の空気というのは、そこにいる人物により激しく変わるものだ。同じ部屋でも、心地よくなったり、居づらくなったり、人の雰囲気というのは侮れない。
彼はそう思いながら、内心冷や冷やしていた。
(一体、何なんだよ)
宮殿の謁見室に極秘で呼ばれ、跪く男は、その圧力に冷や汗をかきながら身を縮めていた。本来の主、つまりセジェシスがいるのなら、こんな思いなどするはずもない。あの男は奇妙な男で、国王のくせに威厳などという気取ったものとは無縁である。かしこまるのが馬鹿馬鹿しくなるほどに、彼がいるだけで場の空気が軽く明るくなる。文官達は、気の利いた冗談を飛ばし、武官達は戦場での失敗を笑いあう。
あの時、セジェシスのもと、みんなでわいわいと騒いでいるときはこんな風ではなかった。やはりそれは、この部屋にいる人間に問題があるのである。この男がいるだけで、この部屋がここまで息苦しいものになろうとは。ハダートは、それを改めて思いしった。
「久しいな。ハダート=サダーシュ。……私が、お主をここに呼んだのがなにゆえであるか、そなたはわかっているかな?」
いきなり、目の前に立つ男がそう親しげに声を掛けてきた。だが、それが本心かどうかはわからない。
「いえ、存じ上げません。……ハビアス様」
ハダート=サダーシュは、警戒心をにじませながら男にそう返した。
前にたたずむ男は、ハビアス=カースディヤール。このザファルバーンの実質上の支配者といっても差し支えのない権力を持つ男である。すでに老境に入ったハビアスは白い髪に髭をたくわえ、猛禽のような鋭い瞳をしている。いつ会ってもこのののしかかってくるような、冷たい圧力が肩の辺りからじわじわと襲ってくるような気がする。嫌な男だ。
(あの女狐のことがばれてたりして、オレを粛正するつもりじゃあないだろうな)
ふとハダートは不安になる。浮かぶ冷や汗を隠しつつ、彼は告げられる言葉を待った。
ハダート=サダーシュは、三十そこそこの将軍で、ザファルバーンへと投降してきて、まだ数年と経っていない新参者だった。優男風で優美な外見のハダートは、将軍の割には貴族受けする男で、特に貴族と親交が深かった。例の女狐、セジェシス王の妻の一人である野心の強い王妃、サッピアとの繋がりも、そこで得たものである。その一方で、ハダートは頭の良さを見込まれ、七部将の一人として迎えられるまでになっていた。
今まで、それでもなるべくあまり本性を出さないようにはしてきた。丁寧な言葉遣いを心がけ、まるで貴族のような立ち居振る舞いをしていたし、ハビアスにも表だって逆らわないようにしてきた。おまけに、サッピアとつながっていることも、目立たないように秘密にしてきたつもりだった。なにせ、サッピアとハビアスは仲がよくない。睨まれる原因は隠さねばならない。
(ここは、覚悟を決めて、逃げ通すしかない)
ハダートは、そう決めた。策士のハダートには、同じ策士のハビアスの考え方がよくわかる。だから、ハビアスのような男とどうつきあえばいいのかもよく知っているつもりだった。その一つとして、ハビアスに絶対に小細工を仕掛けてはいけない。そして、彼の考えをわかったそぶりを見せてもいけない。ハビアスは、頭のいい人間をかわいがるが、よすぎれば警戒心の方が強くなる。だから、無駄な抵抗はせず、余計なことも言わず、彼の考えに気づかない振りを押し通せばいい。
ハダート=サダーシュは、ふと自然に愛想笑いを浮かべた。繊細で優美な面立ちは、今まで彼を幾度となく助けてきた。優男風で貴族的な美男という印象を彼に与える容貌は、ハダートがそうしようと努力すれば、その印象のままに振る舞うこともできる。
だが、ハビアスにそんなまやかしが通用するとは思えないので、ハダートは必要以上には自分を飾らなかった。ハビアスは、すでに自分の本性を見抜いている。つまり、ハダート=サダーシュという人間がが、優美な外見と裏腹に、狡猾で抜け目なく、しかも貪欲だということを。
「私のような小童に、あなた様のお考えなどわかろうはずもございません」
フッとハビアスが笑うのがわかった。
「相変わらず、口の上手い男よな」
と、跪いているハダートの視線の先で、ハビアスの靴が近づいてきた。ちょうど、ハダートの目の前で止まったハビアスは、厳かな口調で言った。
「顔をあげるがいい、ハダート=サダーシュ」
ハダートは顔を上げる。銀色の髪の毛に青い瞳は、この国では珍しい。とはいえ、目の青いものはそれほど珍しいものでもない。そもそも、シャルル=ダ・フールも目が青いという噂だ。時に魔よけとも、時に魔力をもつともされるが、彼にしてもシャルルにしても目の色ではそれほど珍しくもないのだった。どちらかというと、この国でハダートが目立つのは髪の色のせいであるといってもいい。銀髪のハダートは、その髪の色をみればわかるとおり北方の大陸から流れてきたことが容易に予想がつくからだった。
ハビアスは、目を伏せるようにしながら静かに言った。
「今、シャルル王子は東国に遠征していることを知っているだろう? あれが、そろそろ難しいところにさしかかりそうなのだ。そこで、貴様に援軍として赴いていただこうと思ってな」
「ああ、左様でございましたか」
ハダートは内心ほっと胸をなで下ろした。どうやら、自分を消す算段を考えていたわけでもないらしい。最初、この部屋に呼び出されたときは、このまま部屋を無事に出ることができないのではないかと身構えたものだが、どうやら杞憂に終わりそうだ。
「現在シャルル殿下が赴いている地で難所と申しますと、リオルダーナがそろそろ動き出すということでしょうか?」
「まあ、そういうことだな。あの大国とやりあうのにあの軍備では、さすがの小僧もやりにくかろうと思ってな」
(へえ、助け船とは珍しい)
この男でも仏心を出すことがあるのかと思うと、ハダートは少し驚いてしまいそうだった。
ハビアスは、シャルル=ダ・フールを疎んでいるという噂だし、恐らくそれは間違っていない。だが、一方でシャルルの話をするときのハビアスは、とても楽しそうでもあるのだ。ハダート=サダーシュの推測できる限りにおいてであるが、この老獪な男は、シャルルという王子に本当は愛着をもっているのだろう。
(しかし、シャルル=ダ・フールか。よりにもよって……)
ハダートは、やや複雑な思いにとらわれる。ハダート自身は、ほとんどシャルルと会ったことがないが、彼がとんでもない馬鹿だとか、遊び人だとか、そういう話は聞いている。おまけに、ハダートが属している勢力の筆頭である王妃のサッピアは、あのシャルルがとんでもなく嫌いらしいのだ。
『あの三白眼には会いとうない! あれに見られると寒気が走る!』
そういう事をサッピアが呟いていたことを思い出す。どちらにしろ、サッピアが自分の息子を王位につけるときに、シャルルは邪魔になる存在である。だが、直接手を下すのも厄介なので、今のところ手をこまねいて、彼の戦死でも願っているのであるが。
戦場にいる王子。いつ死んでも別におかしくない。チャンスさえあれば、少し手を下してしまってもきっとわからない。もし、そうすれば――
「大手柄だな」
いきなり声を掛けられ、ハダートは冷水を浴びせられたようになった。
「シャルル王子となると、貴様も心穏やかでないだろう?」
「は?」
考え事をしていたときに、突然そういわれ、ハダートはぎくりとして顔を向けた。顔をあげると、ハビアスはにんまりと笑っていた。
「消したければ消してもかまわんのだぞ」
「は? 何をおっしゃって……」
ハビアスは、態度を慌ててとりつくろっている様のハダートの目を見ながらからかうようにいった。
「あの王子を消したいならば消してもよいと私は言ったのだ。わかるか? あの王子を手ずから消せば、そなた、英雄になれるかもしれんぞ。おそらく、一番の手柄になるだろうからなあ」
ハダートは一瞬耳を疑ったが、すぐにその表情を取り繕った。
「な、何をおっしゃっているのか、わたくしには理解できませぬ」
「あの女狐にいくらで雇われた?」
ハダートは、一瞬だけ顔をこわばらせた。
「な、何のことでございましょう。はて、そのような狐と面識はありませぬが」
ハダートは一生懸命とりつくろうが、ハビアスの表情は変わらない。
「貴様がサッピアから、いくらで雇われているかまでは知らないが……」
ハビアスは、にこりと異様に優しく笑い、ハダートの肩に手を掛けた。その目の奥の光に、ハダートは震え上がった。
「貴様の行動は私に全部筒抜けだ。……くれぐれ、私生活には注意することだな?」
そういうと、ハビアスはハダートの肩から手を離す。そして、ハビアスは先程何もいわなかったかのように、援軍の話に戻った。
「出発はなるべく早い方がいい。そうだな、来週にはもうここを出立するように。詳しくは、また話す」
「お待ち下さい!」
遠ざかるハビアスの声をきき、ハダートは思わず呼び止めた。
「お待ち下さい! ……ハビアス様、一体何の思惑あって、私にそのような話をされる? 一体、私に何を望まれるのですか?」
ハビアスは、足をとめ、ゆっくりと振り返った。
「気になるか?」
「ええ。気になりますとも」
このまま遊ばれたまま済ますとさすがに悔しい。ハダートは、恐怖を抱えながらもそういってハビアスに向かった。その心情を読んだのかどうかはわからない。ハビアスは、ふうむ、と唸るとにやりとした。
「正直にいうとな、私はあの女が好きにはなれぬ。つまり、あの女とは関わりたくない。だから、あの女がどういう動きをしようが、しばらくは黙っているつもりだ。例え、あの女がシャルルを害そうとしていたとしても、私には知らぬ事だな」
「な、ならば、何故、私にそのような……」
ハダートは意味がわからないといいたげに、不満そうに続けた。ハビアスは、ふっと笑った。
「ハダート。そなたは優秀な男だ。私は抜け目のない人間は好きだし、貴様を買ってきたつもりだ。だから、正直、もし、貴様が私の敵に回ったらと思うと心中穏やかではないのだよ」
「お褒めのお言葉でしょうか?」
「そうだとも。……だが、それでも、そんな貴様でも、あれほどの事ができようはずもないとおもっている」
と、ハビアスは意味深な笑みを浮かべた。
「はたして、そなたに消せるモノかな?」
「ど、どういう意味でございましょうか?」
ハビアスは明るく笑った。
「あの三白眼は、とても用心深い。だから、貴様やサッピアがどれだけ手を出そうと、私が心配することもあるまい。……だから、消してもかまわんといったのだ。あれが大人しく消されるとは思えないのでな?」
ハビアスは、にんまりとして、挑発的にハダートを見た。その顔をみて、思わず、ハダートは、ぐっと奥歯を噛みしめる。要するに、ハビアスは、ハダートに「やれるものならやってみろ」と挑発してきたのだ。
あの馬鹿という噂の王子を殺すにも、貴様は力が足りない。そう言われ、さすがのハダートも憤りを覚えた。今まで、その狡猾さで生き延びてきたつもりのハダートには、それはひどい侮辱にあたるのである。なけなしのプライドを削り取られ、ハダートははらわたが煮えくりかえるような思いがした。
(このクソジジイ……! オレをなめているのか! オレがあんな温室育ちの王族一人殺れないとでも?)
「おや、お怒りか? ……そなたにできるのなら、私にみせてもらいたいものだが?」
ハビアスの言葉は更に挑発的な印象があった。
冷静なハダートも、さすがに胸の奥で怒りが燃え上がるのを感じていた。怒りをおさえつつ、ハダートは笑顔を作るとこう答えた。
「わかりました」
(やればいいんだろうが! やれば!)
ハダートは、黒い感情を抑えながらにやりとして言った。
「そのご命令承りました。……早い内に兵をかき集め、シャルル様の下に駆けつけます」
ハビアスは、静かに笑っている。それを見ながら、ハダートは心の中でうそぶいた。
(あとで後悔させてやる! オレを焚きつけたことを! あの王子が死んでから、後悔したってもう遅いんだからなァ!)
薄ら笑いを浮かべながら、ハダートは一度礼をすると、立ち上がる。そのまま、つかつかと謁見の間を去っていく。
ハビアスは、それを静かに見やりながら、ふうとため息をついて苦笑した。
「意外だな。見かけによらず、案外熱いところがあるではないか」
そして、ハビアスは少しだけ悪戯小僧のような笑みをみせた。
「やれやれ、少々、煽りすぎたかな?」