アズラーッド=カルバーン東方戦記
〜シャルル=ダ・フールと七人の将軍〜
1.ラダーナ-10
涼しげな瞳をしたままのラダーナは、戦闘の狂気すらもその目には映さない。それがかえって彼の存在を、この場から目立たせているのかもしれない。
広い意味では、シャーも鉄仮面も、カッファでさえも、戦場の熱に浮かされながら戦っているのだ。冷静な部分を残しておけるか否かという差があるだけで、この空気に動かされているのは間違いない。だが、ラダーナにはそれがない。或いは、あったとしても外見からそれが見えることがない。
ハビアスのように策を弄するならばそれはまだわかる。彼らは実際、自分が手を下すことはほとんどない。自ら命をかける将軍とは違い、彼らは命のやりとりは、あくまで舌と頭で行うものである。従って冷静でなければ、話にもならない。
だが、ラダーナは違うのだ。だから、戦場でラダーナは恐れられる。灼熱の炎の中のひとかたまりの溶けない氷のような存在の眼光は、彼らの燃え上がった心を急速に凍り付かせるものでもある。
急な増援で勢いづいたザファルバーンの軍に戸惑いを覚えている様子の兵達の中を、ラダーナは駆け抜ける。斬り掛かってくる者を薙ぎ、ねじ伏せ、そのまま中心へと向かう。きっと、彼の探す彼はその中にいるはずなのだ。
青い兜と青い鳥の羽が、きっとそこで踊っている。金物の鋭く甲高い音を響かせ、鉄を打ち合い、そして避ける。
怯える敵兵は、もはやラダーナの敵ではない。彼らを蹴散らして進みながら、ラダーナは、青い空を見ていた。
雲一つない青い砂漠の空は目に痛い。砂漠の戦場でみるシャルル本人のあの色のように、とても目に染みるようだった。
あの時もそうだった。シャルルが、まだ八才になるかならないかといった頃、ハビアスは、彼に最初の戦場行きを命じた。カッファが今と同じく参謀に入り、そして、その軍を率いていたのはラダーナだった。
行軍している時、空は痛いほどに青かった。ずっと黙ってラダーナの隣で馬に乗っていたシャルルは、始終うつむいて黙り込んでいた。カッファは、彼が可哀想になったのか、あれこれと慰めているようだったが、彼の機嫌がよくなるどころか、シャルルは一度も口をきかずに地面を睨みながら黙っていた。
やがて、カッファが伝令の兵士に呼ばれて後方に行った。その時、ラダーナは、シャルルの警護の為もあって側について行軍していた。
あれほどおしゃべりな彼だが、うつむいて押し黙ったまま、もうずっと口をきいていない。ラダーナは、彼が黙っていると言葉が回って死んでしまうと言っていた事を思い出した。
「大した戦いではない」
ふと、珍しくラダーナは声をかけた。慰める意図があってのことだったのかは、一瞬自分でもよくわからなかったが、きっとそのつもりだったのだと思う。
「二日ほど、馬の鞍の上に座っていればいいだけの……」
「なにが、すわっていればいいだけなんだよ!」
今まで黙っていたシャーが突然怒鳴り散らしたので、さすがのラダーナも珍しく驚いたようだった。その時、シャーは、はっきりと堪えきれなくなったようにラダーナを睨み付けていったのだ。
「オレが、一度だって戦いたいなんていったのか! なんでこんな思いしなくちゃいけないんだよ!」
シャルル=ダ・フールは、彼を睨みあげながら鋭い口調で言った。八歳の少年に睨まれただけなのに、その時、ラダーナは少しだけ恐怖を感じた。兜の影に隠れて暗い場所から睨んでくる彼の目は、真っ黒であるはずが、なぜかその時、独特の青を帯びているように見えた。
「オレはそもそも、あの街でずっと暮らしたかったんだ! いい暮らしをしたかったわけじゃない! みんなどうでもよかったのに、どうしてオレを連れてきたんだ! みんなオレなんか要らないっていってるのに、どうしてオレをつれてきたんだよ!」
責めるような口調で吐き出して、彼は涙で濡れた大きな目で、ラダーナを見上げていた。要らないといったのが誰だかはわからない。おそらく、次期の政権争いを考えている文官や将軍が噂しているのをきいてしまったのだろう。
そして、今の言葉はカッファにはおそらく言えなかったのだろう。シャルルを捜していたのはセジェシスで、連れてくるよう命令したのは、そもそもハビアスだったと聞く。だが、実際に泣きわめく彼を無理矢理都に連れてきたのはカッファだったという。
だから、きっと今の言葉はカッファに言いたかった言葉なのだろう。だが、彼はカッファにはそれを言えない。カッファは、それでも彼に愛情を注いでくれていた。カッファは、今の言葉をきくと苦しむだろう。だから、シャルルは胸の中にそれをおさめるしかなかったのだ。
「要らないならずっとあの街にいたかった! ずっと遊んでいたかった!」
唇をかみしめながらそういうシャルルは、大粒の涙を瞳から流してうつむいた。ラダーナは、言葉をかけなかった。もとより無口な彼は、そう言うときにどういった言葉をかければよいのか、全然わからなかった。
その時から、シャルルの旗も服も青かった。空も痛いほど青いままだった。ラダーナは、可哀想だと漠然と思った。
その時、シャルルの名前で戦場に出ていた少年は、その内にその名前すら使わなくなった。
後に、政権争いから逃れるために身を隠しだした彼だったが、あるいは、その時、名前を隠したのは彼なりの反抗だったのかもしれない。少なくとも当初の目的は――。
そしてラダーナが、彼の癇癪を経験したのは、それ以来一度もない。本当の意味の泣き言だって、彼は一度もいわなかった。いつでも、どんな苦境にたたされても、シャルルは笑顔を絶やさなかった。無理をしていたのか、それとも、本当に希望を持っていたのか、その表情からはわからない。
――ただ、ひたすら黙って涙する彼を見たその時だっただろうか。
カルシル=ラダーナが、この少年を命がけで助ける気になったのは。
「ザファルバーンのラダーナ!」
遠くで声が聞こえた。ラダーナは、タッと馬を止めてそちらの方を素早く見る。そこには、敵の将軍の一人らしいひげ面の男が立っていた。
「かねがね、貴様とは戦いたいと思っていた! お相手願おう!」
「………私は急いでいる」
ラダーナはそういって断ろうとしたが、相手はラダーナの進路に入ってきた。む、と彼は眉をひそめる。
「そう簡単に逃がすものか!」
そういって、将軍はだっとこちらに駆け込んでくる。ラダーナは、静かに目を走らせた。逃げることもできるかもしれないが、逃げたとしても追いつかれるだろう。また、逃げることで、いざシャルルを助ける段になって邪魔をされるかもしれない。
「……致し方ない」
ぽつりというと、ラダーナは握っていた槍に力をこめて、奇声をあげて飛び掛かってくる相手にむけて自分も馬を走らせる。
気合いの声を別段発することもなく、ラダーナは相手と交差した。相手の白刃の光が、太陽の乱反射を受けながら、ラダーナの目に飛び込んでくる。ラダーナは、それを避けようともせず、手にしていた槍を一瞬早く手放した。
相手とすれ違う。ラダーナは、そのまま駆け抜ける。背後で、槍の刺さった男がそのまま倒れ込むのがわかったが、ラダーナは振り返ることもしない。代わりに、ラダーナは腰にさげてあった長刀を抜いた。ひたすらに馬を走らせて、ラダーナは戦場の中を進む。
背後と前方で声があがっていた。味方の気勢があがっているのはわかる。おそらく、カッファの元にも、自分たちの増援部隊が辿り着いたのがわかったのだろう。そして、反撃を開始しているのだろう。
ふと向こうで人だかりが見えた。ラダーナはいっそう馬のスピードを上げた。
ギリギリギリ、と刃同士が擦れて軋んだ音を立てる。鍔迫り合いの状態になって押し合いながら、シャーは突然剣を引いて薙いだ。ギィンと重い音が鳴り、相手はそれを受け止める。
「いつまで経っても埒があかねえなあ!」
「お互いだな!」
鉄仮面はそういって突きかけてくる。斜めに身をよじって直撃を避けたが、シャーの兜に貼り付けた青い布にかすってそこが擦れて飛んだ。
不意に声があがった。背後と前方、つまり二方向から、近くで明らかに狼狽したような兵士達のざわめきとしか取れない声である。
「どうした!」
シャーの剣を受け流し、一旦身を翻して、鉄仮面は背後に向かって叫んだ。
「ラダーナだよ!」
変わりに答えたのは、交戦中のアズラーッド=カルバーンである。
「あの砂煙でわかんないのかい! ……ラダーナの援軍が来たのさ!」
と、ふと、背後で悲鳴があがり、人垣が割れた。鉄仮面の表情がわずかに変わったのをシャーは見逃さない。そして、後ろにだれかがやってきたことは、見ないでもわかっている。
「ほーら、そうだろう? オッサン!」
シャーは笑った。その背後に、人だかりを割ってはいって来たのは、無表情な長身の男だ。
「カルシル=ラダーナ……! まさか!」
「アンタの国はおごりすぎなんだよ! 人間力関係だけじゃ動かないぜ! その先の先を読まなくちゃなあ!」
ラダーナを従え、シャーは向こう側を見る。遠くをすかしてみると、先程まで逃げていたザファルバーンの兵士達が、今度はこちらに向かって走ってきていた。
「……挟み撃ち成功ってところかい? だから言ったろ! 油断してると、後ろから首斬られて死ぬぜってな!」
「くっ! ……貴様!」
鉄仮面は歯がみして、背後とそして彼からすると前方、つまりシャーとラダーナが控えている後ろ側をのぞき見る。言われたとおり、そちらからラダーナの連れてきた兵士達がこちらに向かって迫ってきていた。鉄仮面は、シャーとの一騎打ちに集中し、そして、部下達に一気に踏みつぶすように前進命令を出して、後方への警戒を怠ったことを後悔するがもう遅い。挟撃作戦はもう始まっている。
「……今の内に兵を引かせた方がいいんじゃないのかい! このままだと、あんたの国の兵士の被害も甚大よ?」
挑発的なシャーの言葉をきいて、ぎっと相手を睨み付ける。シャーはそれにも臆さずに含み笑いを浮かべたままだ。
「今回は油断したようだ! この場は貴様に譲ってやる!」
鉄仮面は、やや悔しげに吐き捨てる。
「まあいい! いずれ、また会おう!」
「名前は教えてくれないのかい?」
「貴様も名乗らなかったな、お返しだ!」
鉄仮面はそう言い捨てると身を翻した。同時に手を思いっきり振り、部下達を呼び寄せる。シャーとラダーナを囲んでいた者達は、彼らに攻撃することなく慌てて走り出した。
「ガキみたいな事言っちゃって……!」
シャーは呆れたようにいいながら、やれやれと手と刀を結んでいた紐をほどいた。
「殿下……」
静かな声が聞こえ、シャーはようやく振り返る。ラダーナの表情はいつもと変わらず、果たして心配しているのかどうかもわからない。だが、彼が一人でここに飛び込んできたことが、彼の感情をなにより表していた。シャーは笑っていった。
「ラダーナ、オレが心配で来てくれたのかい? もー、ガキじゃないんだから大丈夫だって、ガキだけど」
シャーはそんなことを言ってため息をついた。
「全く、心配性だねえ。でも、ありがと〜! オレ、あんたを信じてたよ」
ラダーナは返事をせず、ただ黙っている。シャーは刀をおさめ、ラダーナの方に近づいた。
「しっかしラダーナはいいよねえ! 相変わらずかっこいいね〜! やっぱ色男って何やっても決まっちゃうからうらやましい〜!」
シャーは抱きつきそうな勢いでラダーナにそう言ったが、ラダーナはもう何も言わず、相変わらずの無表情のままだ。反応のなさに諦め顔のシャーは、こてんと首を倒した。
「……ホント、からかいがいのないヒト……。さみしーなー、オレ。スービィみたいな奴の方が楽しいのにさ〜」
「あまり新米をいじめないでください。アイツ、マジメなんですから!」
いつの間にか、数名をつれて後を追ってきていたらしい隊長が追いついて直後にそう割って入った。視線の先では、ガラータフの軍が慌てて逃げていた。吹き付けるわずかな風が、その砂煙を運んでくる。
「しかし、追わなくてよいのですか?」
「ああ、これ以上深入りするとかえってオレ達がやばい。勢いに乗るって手もあるけど、あいつらの背後にはリオルダーナがいるからねえ〜。あいつらに警戒心を抱かせるような真似はさけたほうがいいよ」
若いアズラーッド=カルバーンはそう答え、手を振った。もう戦は終わりだということだった。
いつの間にか、日が落ちていた。赤い光が、彼らを静かに包んでいた。戦の終わりのさんざんな状況でも、やはりラダーナはそれが美しいと思った。もうすぐ夜のとばりが落ちる。そうすれば、きっとこの忙しい日々も一時終わりを告げ、休息の時がやってくるのだ。ラダーナは、軽く目を閉じてため息をついた。今までさほど感じなかった疲労が、静かにしかし安らかにやってきた。
遠くどこかから勝ち鬨が聞こえてくるようだった。自然にはないはずのその声が、この風景に妙に馴染んでいた。
同じ頃、砂煙が去るのをみながら、自分が生還したことにようやく気づいたスーバドは、馬の背で緊張を解いてもたれかかっている頃だった。