アズラーッド=カルバーン東方戦記
〜シャルル=ダ・フールと七人の将軍〜
1.ラダーナ-6
昼夜を問わずに馬を走らせて、もう何度目かの夕日を見た頃、ラダーナはオアシスで久しぶりに身を落ち着けていた。
水を飲む部下達は、しばしの休息を楽しんでいるようだ。ラダーナは、静かに一人木の陰に座り、落ちる夕日を見ていた。
「しかし、将軍があんなお話をされるとは思いませんでしたな」
ふと、側にいた例の腹心の隊長がそんなことをいった。そちらに目をやると、彼は人好きのする笑みを浮かべた。
「いえ、あのスーバドに対して……。将軍は、あまりそういうことを話す方ではありませんからな。意外だと思ったのですよ」
ラダーナは、黙ったまま彼の方を伺うようにした。
「スーバドのやつは、あの方が誰だかまだわかっていないんでしょうかねえ。この前、三白眼に侮辱されたといってえらく息巻いておりましたが…」
そういいながら、隊長は水を飲んで快活に笑った。
「まあ、あのお方がまさかとは思いますでしょうし、大半のものはあの方がどなたかを知らないですからね。私も、当初はあれこれ命令を押しつけてしまいましたし」
でも、と、彼は空を見上げながらいった。
「わたくしもあの方は好きですよ、将軍」
隊長は、やや照れたように笑いながら続ける。
「何となく、見捨てる気にはならないんですな、あの方は……」
ラダーナは、静かにうなずいた。それには同意だということなのだろう。
日暮れ前のオアシスに身を寄せながら、ラダーナはしばらく眠ろうと思う。さすがに彼も彼の部下も疲れている。いくら急ぎだとはいえ、砂漠であまりな強行軍をやるのは得策ではない。自分たちは死んではならない急使なのだ。
砂漠の夕暮れは、いつみてもふしぎだ。
ラダーナは、そう思いながら地平線を眺める。赤く染まった空と黒い地平が、やがて微妙なグラデーションを描く。それを毒々しいと思うか、美しいと思うかは、恐らく人の美的感覚によるものなのであろう。
ただ、ラダーナは、その夕暮れを密やかに愛していた。兵士の中には、不安な夜と来ないかもしれない明日を思い起こさせる夕暮れの嫌いな者も多い。だが、ラダーナはそうは思わない。静寂の夜は、彼にとっては大体は安らぎの時間だった。だから、その静かな時間を告げる夕日は、彼にとってはただ、静かな時間の始まりを告げるというだけのものでもあるのだった。
ラダーナは、ふと思い出していた。
あのシャルル=ダ・フールに初めて会ったときのことを。
そのころ、ザファルバーンは、まだ幼い国だった。ようやく建国を果たしたばかりで、カリシャ家に仕えていた将軍ぐらいしか、まだセジェシスの指揮下に入っていなかった。五十年は断絶の続いたカリシャ家の支配力は緩く、周りにはいくらか実質独立王国としっても差し支えのない国が乱立していた頃だった。
ラダーナは、元々カリシャ家の家臣の家柄に生まれていた。それもあり、かなりはやい内にセジェシスに賛同したものの一人である。
夏の宮殿は比較的涼しいところに建てられていた。ラダーナは、宰相ハビアスとの謁見をすませた後、廊下を歩いていた。ラダーナが、セジェシスについたのは、ハビアスに引きずられた面も大きいが、やはりあのセジェシスという男の人柄に惹かれた所もある。
『お前、無口なんだなあ。そのまま口きかないと、外に出なかった言葉がぐるぐる頭の中で回って死んじまうんじゃないのか?』
初めて彼にあったとき、心底心配そうなそうな顔をしてセジェシスはラダーナに言った。
『なあなあ、もっと話した方がいいって! ため込むのはよくないって!』
何をわけのわからない心配を、と普通なら思うかもしれないが、ラダーナは、主になるべき男のあまりの純粋さに一瞬あっけにとられてしまった。そして、面白いとも思った。
どこの馬の骨ともわからないセジェシスには、カリシャの末裔にはない覇気と奇妙な愛嬌を備えていた。だからラダーナは、ハビアスの求めに応じて、カリシャを捨て、セジェシスに仕えることに決めたのである。
木々が植えられて、宮殿はなかなか涼しげだ。廊下を歩きながら、ふとラダーナは前から来る二人の人物に目を留めた。
一人はがっしりした体格の中年の男、もう一人はその影に隠れているようだった。一人は間違いなくカッファ=アルシールである。まだこのころは、カッファは近衛兵の一人だった。ただ、何かとセジェシスに気に入られているらしいカッファは、次第にハビアスに見いだされ、注目を浴びては来ている頃だった。
「だから、今日は絶対に――」
そう背後にいる何かに言いかけ、ふとカッファはラダーナに気づいた。
「おお、ラダーナではないか。久しぶりだな」
ラダーナは、軽くうなずく。彼が寡黙なことは有名で、だから、声を発して挨拶しなくても、咎めるものはほとんどいない。
「来ているのなら、また我が家にでもよってくれ。大したことはできないが、酒でも飲みながら、話……ではないが、まあ、酒でも飲んで楽しもう」
ラダーナと話が弾むことはあり得ないので、カッファはそう言い直し、笑みを浮かべた。何だかんだ言って裏表のないカッファのことは、割合に好きである。
と、ラダーナは静かに目を下に降ろす。そこには小さな男の子がカッファの足下にまとわりつくように立っていた。
カッファには、その年頃の男児は少なくともいないはずである。大体、この前長女の誕生祝いをしたところだったことをラダーナは思い出していた。
「ねえねえ、カッファ、オレもう遊びに行っていい?」
カッファの服の裾を掴んで、ねだるような口調で少年は言った。カッファは、むっと彼を見て首を振る。
「駄目です。今から勉強があるという話をしていたでしょう」
「だって、そろそろリュネの世話もやらないといけないし」
リュネは、恐らく先頃生まれたカッファの娘の名前だろう。確か、リュネザードという名前だとかいう。
「別にあなたがやる必要はないでしょうが」
「だって、リュネはオレに懐いてるのに? リュネちゃん、オレがいないと寂しがるよ?」
「赤ん坊は誰にでも笑顔をむけるものなのです! というか、貴方の場合は口実でしょうが!」
「だってすごく可愛いんだよ〜! カッファはそう思わないの?」
「う、む…それは……」
さすがに生まれたばかりの娘を褒められると、少し頬のゆるみそうなカッファである。だが、これがこの子供の姑息な策略であることもよくわかっているのだ。カッファは、きっと表情をただした。
「とにかく駄目です!」
「ひどいよ、カッファ。リュネは、お家でお兄ちゃんの帰りを待っているのに」
「相変わらず口だけは達者ですな……。これだから下町育ちは……」
カッファはため息をついて、そして、自分たちを静かに見ているラダーナに気づいた。その無表情からは、彼の意図は読みとれないが多少は困惑しているらしい。カッファは咳払いをして、少年の頭をつかんでまっすぐ立たせると改まった様子でラダーナの方を向いた。無理矢理まっすぐに立たされた少年の方は、かなり不機嫌だったが、カッファは何もいわない。
「おお、ラダーナ、そういえば、お前には紹介していなかったか」
カッファは少し改まり、下にいる少年を指し示した。
「ラダーナ、こちらがセジェシス様のお子さまであらせられるシャルル様だ」
そうきいてラダーナは、先頃、セジェシスの息子が東方で見つかったという話を思い出した。ハビアスの進言もあり、母親のいない王子は臣下に預けられたときいたが、まさかそれがカッファだとは思わなかった。
大きな目は、くっきりと白目の多い三白眼で、くるくるの癖の強い髪の毛は、東方のならいに沿ってなのかどうなのかわからないが、ひとまとめにして上に結い上げている。人格と外見のそぐわない美男子なセジェシスには、お世辞にも似ているとは言えない顔つきだが、独特の愛嬌はある。
「なんどいってもわかってないねえ。オレはシャーだってばあ」
呼称の違いにむっとしながら、少年はカッファに抗議する。
「お黙りなさい」
「だって……」
まだ言い募ろうとしていた自称シャー少年は、不意にラダーナに目を向けた。彼ぐらいの子供は大体注意力が散漫なものだが、彼もご多分に漏れず相当なものだったようだ。くるくるというよりは、きょろきょろしたような目を大きな目で回し、彼はラダーナを見上げて面白そうにいった。
「ねえ、カッファカッファ、この人だれ? すーごい無表情だねえ! オレ、感動しちゃった! ねえ、あんた誰だっけ?」
「だから、黙りなさいと…」
「っていうか、あんたしゃべらないねー。駄目だよ、しゃべらないと、こういう口べたなおやじにばっかり喋らせとくと、この国も駄目だって」
カッファの制止もラダーナの無反応も、この年頃の子供には無意味だ。いや、この年頃というよりは、この少年には無意味だといった方がいいかもしれない。ませているのか、それとも、単なるおしゃべりなのか、べらべら話し続ける少年に、徐々にカッファは顔色を変えてきていた。握った拳が震えてきているが、当のシャーはそんなことお構いなしに話し続ける。
「だから、ちょっとぐらい明るい顔した方がいいよ。運が逃げちゃいそうだもん。それでだけどねー…」
「黙らんかー!」
突然、怒鳴り声をあげたカッファの声は、城の廊下に高らかと響き渡る。ひゃーっと声を上げながら、少年は慌てて逃げ散った。
「カッファ、そんなおこることないのに…」
柱の影にそうっと潜みながら、シャーは、上目遣いにカッファを見上げた。相変わらずの三白眼が、あまり可愛らしくないシャーなので、正直上目遣いの効果はないというより、逆効果ばかりが目立つ。だが、仕方がなくカッファはひとまず怒りを抑えた。
「わかりました。とにかく、人の話をききなさい」
「はぁーい」
不承不承にうなずいて、シャーは再びカッファの側にたたずんでいた。
ラダーナは、その様子を見てふと思った。シャルル王子のカッファに向ける視線は、教育者に向けるそれとは少し違う。どちらかというと父親に向けるそれなのだ。忙しいセジェシスは、恐らく子供達に構う暇がない。母親のいないシャルルが、四六時中一緒にいる教育係のカッファに懐いても仕方がないことである。
それに、カッファの人格もあるのだろう。堅苦しいカッファだが、元々下級武官の家に生まれたこともあり、宮中ではかなり庶民的な方だった。シャルルは、元々下町に住まっていたらしい。それもあって、おそらくカッファに親近感を感じているのだろう。
そんなことを考えていると、ふとラダーナの足下にシャーが立っていた。心底不思議そうな顔をしつつ、彼はきょとんとして訊いた。
「ねえ、あんた、なんでしゃべらないの?」
「殿下、ラダーナは元々無口な事で有名なのです。私もこやつが喋るところを、すでに三ヶ月ほど見ておりません」
カッファがそういうと、シャーは、へえーっと声をあげた。
「オレ、そんなに喋らなかったら、頭の中で言葉がぐるぐる回って死にそう」
「でしょうな、あなたの場合は」
ややあきれるようにいってカッファは肩をすくめる。ラダーナは、ふと、セジェシスの言葉を思い出し、顔こそ似ていないがいかにも彼の子供らしい、と、思った。
空はもうかなり暗くなっている。騒いでいた部下達も、もうすでに眠りに落ちている。もうしばらく休み、そして、また先を急がねばならない。
ラダーナはそう思いながら、まぶたを閉じた。
砂漠の冷たい夜に、しろい天幕がいくつか見える。反対側の地平線に見える火の明かりは、敵の数を示して煌々と夜空に輝くように見えていた。
シャルル=ダ・フールの遠征軍は、とうとうガラータフの軍と接触していたのである。結局、お互いもっともいい場所に陣取ってそれからにらみ合いを続けて早三日。いつ、どちらが仕掛けるかわからない攻撃に、昼も夜も心休まることはない。
その夜、松明で明るい陣中をカッファは慌てて走っていた。一番奥にある指揮官の青い旗のある天幕に、
「殿下!」
シャーのいる天幕に駆け込んできたカッファは、真っ青になっていた。ろうそくの光の中、シャーは、まだ武装を解かずに地図を見ながら椅子に座っていた。
だが、カッファの声が聞こえると、シャーはやや明るい声で訊いた。
「どうしたの? 血相変えて」
いや、そんなこと訊かなくても、別にシャーは予想がついているのだった。実は、昼に、ある部隊が、ガラータフと軽く一戦まじえていたのである。小競り合い程度で、本格的な戦でもなかったが、その時に見た敵の数に、兵士達は威圧されていて、その恐怖が伝染しているのだ。
「もう、兵の不満を抑え切れません! ラダーナがいないのなら、投降したほうがましだと言い出すものまで出ています!」
「……あと三日だよ、あと三日で十五日目だ」
シャーは、カッファの方を見ながら言った。
「普通にいって十日なんだよ、往復で二十日もあれば間に合うんだ。ラダーナは、行動がはやいから十五日あれば絶対戻ってくる」
「しかし、ラギーハが増援してくれているとは限りませんし、それに、すでにラダーナが折り返していていてもいい頃です。何の連絡もないとは、やはり……」
「そんなことはないよ、カッファ! ラダーナは絶対大丈夫だ。後三日で戻ってくる!」
シャーは、力強く言った。カッファは、殿下、と呟いて少しため息をつく。気丈な主君の様子に、カッファは浮き足立つ自分が少し情けないような気がした。
「だから、それまで保たせてくれれば大丈夫だ」
「しかし、その前に総攻撃を仕掛けられたら……」
カッファの言葉に、シャーは軽く唸った。
「その場合は仕方がない。オレが最前線に出て戦うよ。それなら文句ないだろうし」
「ええっ! 殿下にそんな危険な真似は!」
「危険は百も承知だ!」
非難めいた声をあげるカッファに、シャーは顔を上げていった。大きな目は、ろうそくの赤い火を浴びて、青いというよりは赤くうつっていた。ちらちらと揺れる炎を映す瞳は、彼にしてはまじめな眼差しをカッファに向けていた。
「仕方ないでしょ、オレがぼさっとしているわけにもいかんじゃない。一応、オレは、ラダーナの兵士を預かってるんだから!」
珍しく殊勝なことをいったシャーは、もう一度手に取った地図を眺める。
「今は勝つんじゃなく、ラダーナが来るまで持ちこたえればいいんだ。……だったら、オレにも考えぐらいあるよ」
そういうシャーは、横に置いていた刀に肘をのせながら、すっと暗い外に目を向けた。ガラータフの陣営で焚かれているだろう、無数の赤い松明の火を思い浮かべながら、シャーは立ち上がった。
とにかく、今は信じるほかないのである。自分の幸運とそして何より、ラダーナを。