アズラーッド=カルバーン東方戦記
〜シャルル=ダ・フールと七人の将軍〜
1.ラダーナ-5
おやっさん、よう、あんたの息子、今度戦出るんだって?
そりゃあんたも引退して長いからなあ、息子も育つってそういうことねえ。
ああ、オレ、オレは相変わらず気楽に逃げ回るのが商売だからいいんだって。
うん、まぁ、そりゃ、あんたの息子さんより、オレのが場慣れはしてるかもね。
え、なに、オレに頼みがあるのかい?
いいよ、あんたには昔戦場で遊んでもらったからなあ。オレ様、義理には弱いんだよねえ。
遠慮するなってば。いってみなよ。オレにできることならできる限り叶えてやっからさ。
将軍はいない。
敵は自分たちの二倍以上。
よその土地で地の利は向こうにある。
この状況で勝機はどちらにあるのか――さて答えはどうだ?
スーバドは、師も同然だった武人の父と、昔、これと似たような問答をしたような気がする。それは、息子を武人に育てるための勉強の一種で、武官の息子なら大体のものが受けているものである。
だから、簡単に答えは出るのだった。そして、答えを言えば、この場で後ろに倒れ込んで二度と起きあがれなさそうだった。
(冗談じゃない)
スーバドは、初めての戦を前に徐々に恐怖感と焦燥に取り憑かれ始めていた。
からからに乾いた砂漠の上で、馬に乗ったまま、からからと照りつける嫌な太陽を仰ぐ。それだけでめまいがしそうだというのに、彼らの置かれた状況は更に追いつめられたものだった。
シャルル=ダ・フールはいることにされているから、総大将はいると言える。だが、彼らの軍を取り仕切る司令官は、今、ここにはいないのだ。
カルシル=ラダーナ将軍、つまり、彼らの軍を率いてきた将軍は、すでに砂漠を越えていってしまって久しい。残された兵士達は、彼に見捨てられたような気になってしまったらしく、現在も士気は下がる一方だ。それも当然といえば当然のことと言えた。ザファルバーンは、新興国である。そして、セジェシスの圧倒的カリスマで持っているようなところがあった。なぜならば、彼が力のある将軍達を引きつけて軍事力を得たところがあるからで、彼の魅力無しでは簡単に将軍達はバラバラになる危険が常に潜在しているのだった。
そういうことからもわかるように、将軍達は自分たち独自の兵隊を育てている事が多く、兵士達はザファルバーン王家に忠誠を誓うというよりは、個々の将軍に対して忠誠を誓っている状態なのだ。
だから、この時の状況はとにかくまずい。しかも、この時の指揮官は、他の王子ならまだしも、顔の見えないシャルル=ダ・フールなのだ。だから、ラダーナが数百名ぽっちでラギーハに戻ったことを、とうとう造反する気だとまで勘ぐる奴がでるぐらいなのだった。それか、シャルルの意地悪だという者すらいる。真相はわからない。
シャルル=ダ・フールは、顔を見せない指揮官だから、その人柄に触れる機会も全くない。だから、このもやもやした感覚を消す方法はない。
ただ、シャルルへの不信感とラダーナのいない不安だけが、陣中とスーバドの胸中を巡るばかりである。
「どうして、いきなり出立なのですか! そんな、五百名でなんてあまりにも無茶ではないですか!」
直属の上司であるラダーナが、急にラギーハに戻るときいてスーバドは慌ててそう訊いた。失礼かもしれないと思いながらも、彼が連れて行く五百人の中に自分が含まれていないのが不満だったこともある。彼の口調は、やや激しかったかもしれない。
「スーバド、口がすぎるぞ」
ラダーナの側にいた彼の腹心の男が言った。戦慣れした中年といった感じの彼は、ラダーナの代わりのように口を開いた。
「将軍は、お前が心配だからこそ置いていくのだ。わかるか?」
「しかし…」
「我々の任務は一歩間違えば全滅を免れない。そこから考えると、例え激戦になってもここにいる方が安全なのだ。わかるか?」
スーバドは、言葉を詰まらせた。そんなことはわかっている。心配されているということは、しかし、裏を返せば、まだ足手まといだということでもあるのだ。
ちら、と腹心の隊長はラダーナを見上げる。彼は、長年のつきあいからか、言葉少ななラダーナの言いたいことを、わずかな表情変化から見分けることができるようになっているらしい。改めて、彼はスーバドに言った。
「お前は、まだ戦は初めてだろう? こういうものは、徐々に慣れてからのほうがいいんだ」
「しかし! …だ、だいたい、このまま五百人でラギーハに行くなんて危険ではないですか!」
「危険は将軍も承知だ。だから、お前をここに……」
「私が言いたいのはそうではありません!」
少し意地になって、スーバドは強い口調で訊いた。
「一体、どうしてそこまで命を賭けるのですか!」
スーバドは、いまだ表情一つ変えないラダーナに訊いた。
「失礼を承知で申し上げています! どうして、シャルル王子にそこまで義理立てしなくてはならないのですか!」
「スーバド、いい加減にしないと…」
隊長が割って入ろうとしたとき、ふとラダーナが口を開いた。今までずっと黙っていたラダーナは、重たそうな唇をわずかにひらいてこういった。
「あの方は、…かわいそうなお方だ。だが、それと同時にとてもいいお方だ」
それは、或いはほとんど初めてきいたラダーナの声だったのかもしれない。ラダーナは、相変わらず感情が死んだような目をスーバドに向けていた。透明といっても差し支えのない表情は、彼の真意を更にわからなくしている。
「あの方に、ついて戦っていれば、お前もいつかわかることになるだろう。私が命を賭ける理由が――」
低く重く彼はそういった。無表情きわまりない顔で、情熱の欠片も感じられない声で、ラダーナはそう言う。だが、彼が声を発する事自体が珍しい。スーバドは、そのことにあっけにとられて、反論も質問もできなかった。
「……お前も、きっとわかることになるだろう」
もう一度そういうと、ラダーナはふと身を翻し、馬に鞭を当てた。途端、驚いたように走り出す馬に、スーバドはようやく我に返る。
「ま、待って下さい!」
あっけにとられていたスーバドは慌てて彼を引き留めたが、ラダーナはもう振り返らなかった。
そして、そのままラダーナはいってしまったのだ。すでに七日は経っていた。今はどこにいるのだろうか。まだ、ラダーナは帰ってこない。
(一体、オレ達はどうなるんだ。将軍もいないのに)
今まで戦らしい戦を体験したことのないスーバドだった。今まで、戦になっても小競り合いですんでいたのだ。
それは、ひとえにラダーナという名将軍がいたためでもある。ラダーナの名前は、他の七部将と共にとどろき渡っている。彼が指揮をしているという事実があるだけで、敵兵達は怯えるし、士気を落とすのだ。そして、自然と小競り合いがあっただけで降伏してしまうのである。
だが、今やその将軍はいない。ラギーハに援軍を借りにいったというが、果たして無事帰ってくるかどうかもわからない。なにしろ、五百人しか連れて行かなかったのだから、よほどうまいことしないと、伏兵でもいたら全滅するかもしれない。
(どうすればいいんだ)
じりじりと上から照らしつけてくる太陽が憎らしい。スーバドは、焦りを隠すように額から流れ落ちる汗をぬぐった。
ふと、向こうの陣の一角で声があがった。スーバドは、砂だらけの向こう側を物憂げにながめて、そして、少しハッとした。
向こうで青いマントの男が見えたのだ。青い兜に、青くて長い鳥の尾をひゅるりと風に流している。その姿は、黄色、いや太陽の光を浴びて、むしろしろい砂漠の上ではあまりにもよく目立つ。
(ああ、そうか、あれが噂の――?)
青兜、つまりアズラーッド=カルバーン。
実質、このシャルル=ダ・フールの遠征軍を取り仕切っている司令官だ。ここからでは年齢も顔立ちもはっきりしない。思ったより痩せているように見えるが、背丈が高いし、青いマントを着ているため、体格もはっきりとしない。だから、スーバドからは、ただの青い塊のように見える。
その男は、この時は目立つしろい馬に乗っていた。恐らく存在を誇示して、士気をあげなければいけないからなのだろう。その目立つ青の甲冑も、白馬も、結局の所、彼が指揮官であるが為に選び抜かれた演出材料にすぎない。いや、多少は嗜好もまじってはいるのだろうが。だが、スーバドは、そんな彼の勇ましい姿を見ても、戦意がなかなか湧いてこなかった。
馬を小刻みに操りながら、彼は何事か将軍達に通達している。そのきびきびした動きをみれば、彼の馬術のほどがしれようというものだった。
あれだけの馬術があるということは、そこそこ腕も立つのだろう。そう思うと、何となくスーバドはやりきれないような気分になった。ああいうできる男はどんな激戦の中でも生き残るのだろうと思う。それに引き替え、自分はどうだろう。
武官の父を持つスーバドは、それ相応の教育を受けてきた。剣術にしろ、兵法にしろ、そこいらの武官よりはできるはずだと自信は密かに持っている。だが、こんな絶望的な状況で、それを遺憾なく発揮できるほどにはスーバドは強くない。
(そういえば…)
と、スーバドはふと思い出す。あの時、自分にとんでもない名前を付けたあのふざけた男はどうしているだろう。あれも、きっと戦場にいるのだろうとは思うのだ。あの情けない男は、自分と同じように不安になっているのだろうか。あの男なら、恥も外聞もなく「恐い恐い」と騒げるかもしれない。
(いっそのこと、あいつみたいに騒げたら気が楽なのに……)
不意にスーバドはそう思った。こうやって曖昧な、実に漠然とした恐怖心を身に押し込めておくと、更に恐怖が空回りするようだ。
戦の時は、おそらく刻々と迫っているのだろう。スーバドは、その時が早く来て欲しいような、絶対に来て欲しくないような、そういう複雑な気分になっていた。