アズラーッド=カルバーン東方戦記
〜シャルル=ダ・フールと七人の将軍〜
1.ラダーナ-3
あれから二日ほど進軍したときの朝である。この前の斥候の報告から考えて、そう急ぐ必要はないと判断した彼らの歩みは、それほど早くはない。危険な峡谷を抜けたのもあり、彼らは夜通しで行軍してはいなかった。
とはいえ、敵との距離は近づいてきている。シャーとてそれはわかっているので、ここのところ、終日寝るとき以外は鎧を着ていた。
「殿下!」
起き出して、まだ眠気の覚めない目でごそごそと着替えをしていたシャーは、いきなり飛び込んできた声があまりにも大きいので頭が痛くなった。
「ううう、カッファ。頭が…」
「二日酔いですか?」
失礼、と断りながらも天幕にずかずか踏みいってきたカッファは、奥で器用に一人で紐を結んでいるシャーが、闇の中でじっとりと彼を睨んだのを見た。いや、睨んだつもりはないのかもしれないが、この主君の目を暗闇の中で見るとなかなか恐いというか、面白いというか、不気味というか。ともかく、何とも言えない感じがする。
シャーは、カッファの複雑な気持ちに気づかずに不本意そうに応える。
「失礼な。カッファの声が大きいからだよ。朝からそおんな大声出すことないでしょ。だいたい、オレ、着替え中よ? 一人で着るの大変なんだから、集中を乱さないでくれる?」
シャーは従者を滅多につけない。つけないというより、いてもするっと抜け出していくのであまり意味がない。それに、王族の従者ともなると貴人が多いので、未来のないシャーの従者をつとめようという者は少ない。仮につとめても、シャーがあまりにもこんな有様なので、逃げ出す者もいるぐらいである。誇り高い彼らが、一般兵士と馬鹿騒ぎするシャーについていける筈はない。そう言う事柄もあってか、近頃はカッファも従者をつけるようにうるさくいわない。その代わり、自分がその代わりとして目を光らせていることの方が多いのである。とはいえ、カッファの目をかいくぐってシャーはふらっといなくなる事が多いのであるが。
シャーの甲冑は、そこまで重厚なものではない。それもあってか、彼は一人でそれを着られるようだった。もちろん、従者がいないせいで手伝ってもらえていないだけということもある。しかも、こういう場合もカッファは手伝ってくれないので、少し悲しい。
いつまでも出ていかない様子のカッファを怪訝に思ったのか、シャーは手甲を巻き付けながらぼうっと訊いた。
「なに、カッファ、オレの着替え見て楽しいわけ?」
「いいえ、できるなら私も見たくなどございませんが」
カッファは冷たくそういってため息をついた。
「ではこのまま報告してもよろしいですか?」
「んー、いいよ。それとも、何、東方の美姫でも捕まえたの? だめだよー、手荒くあつかっちゃ! この辺美人が多いんだから! 嫌われたらどうするの! オレがうっかり惚れて、向こうもうっかり惚れて来ちゃって、オレと結婚なんかしちゃうかもしれないのに、そんなことしたらぶち壊しだよ!」
「何で出来ているのか知りませんが、本当に脳天気に出来ていますね、貴方のアタマは」
カッファは、自分の教育がどこで間違えたのか年代を数えつつ、しかし少し厳しい口調で告げた。
「斥候が慌てて報告に戻って参りました。ガラータフの動きが変わっています。今すぐ作戦会議においで下さい!」
シャーは少しだけ表情を変えた。ほとんど終わっていた着付けを急いで終えると、青い兜を掴んでそのままカッファに続いて走り出した。
作戦会議は重い空気に満ちていた。若い者からそれなりに年をとったものまで、十人ほどが天幕の中に詰めている。真ん中にはテーブルがおかれ、その上には図版が載せられていた。当然ラダーナの姿も見えている。将軍は他にもいるが、ここでもっとも格が高いといえるのは、ラダーナとシャーの後見人であるカッファだった。
当初は、ガラータフの軍と正面からこのままいくと出会うだろうという話だったのである。その進路をたしかめて、それ相応の作戦と陣形を考えていたのである。だが、それが使えなくなったどころか、状況は激しく不利になったのだ。
「背後に伏兵が張られているとは、このまま進めば挟み撃ちですぞ! しかも、ガラータフの軍勢が予想より二万多いというのは?」
「む、まあ、伏兵のことは確認は取れていないのだ。ただ、斥候によると『そう言う節がある』との話で……。兵士が増えたのは、おそらくは、リオルダーナが手を貸したとしか思えない。密約をかわしたのかもしれん」
カッファは苦しげに応えた。
「しかし、伏兵とはいつの間に背後に回られるようなことに?」
「それは、わからん。もしや、先の戦いでくだしてきたラギーハ領の領主が、通じているのかもしれん。そのラギーハの兵が怪しい動きをしているらしい、という方が正しいな」
カッファは、地図に目を向ける。地形と進路が描かれたそれは、戦争用につくられた地図である。目指すガラータフ王都の反対側、つまり先に通ってきた所に、ラギーハという地名が見えた。ラギーハはガラータフの半分属国のような場所で、あえて国といわずに領と呼ばれることの多い場所だ。数も少なかったので、ザファルバーンという大国の名前を背後にちらつかせて、開城させた。シャーの意向もあって、領主に全てを任せてそのまま出ていったのだが。
だが、ラギーハ領の領主が裏切っているとなれば、これは大変なことだった。正面からくるガラータフは、シャーとラダーナの兵力の二倍ほどはあったのだ。それが、さらに二万増えたという。それだけでも脅威なのに、後ろから襲いかかられれば、ひとたまりもない。
「一体、どうすればよいのですか?」
若い将軍達がカッファに詰め寄るように訊いた。
「このことが兵士にばれますと、脱走者が増えて自滅ということも……」
「わかっている!」
カッファは、きつい口調で言って、彼らの悲観的な意見を振り払おうと必死になった。思わず熱が入ってしまい、握った拳が軽く震える。
「だから、今はこうして作戦を模索するために!」
カッファは、何故か不意に言葉を切った。静かになった空間に安らかな寝息が響いた。各将軍達とカッファがそうっとその音源に目を向ける。あまりにも安らかに寝息をたてているのは、そこで腕を組んでうつむいて座っている青い兜だ。
「殿下…」
カッファはそうっと、その青い兜を頭に引っかけている青年を呼んだ。返事はない。場は静まりかえる。これはまずいと誰しも思った。ただでさえ、カッファはイライラしているのだ。そんなときに、なにもこう無神経に眠ることもないだろうに。
カッファは、かつかつと足音を立てて青年の前まで行くと、もう一度、殿下、と呼んだ。返事はない。爆発の危険に天幕にいる全員が怯えたとき、とうとうカッファは天幕を振るわすようなこえで怒鳴りつけた。
「起きんかーっ!」
さすがに青い兜の青年は肩をびくつかせて、半分ひっくりかえるようにしながら目を覚ました。
「うおおおお、びっくりしたっ!」
跳ね起きたシャーは驚きのあまり、危うく天幕の柱に激突しそうになった。慌てて頭をなでながらシャーは寝ぼけ眼で彼を見上げた。
「あ、カッファ。何やってんの?」
「作戦会議に決まっているでしょうが!」
「あ、そうだっけ。だって、朝早いし、話意味わかんないからつい暇で暇で」
ついぽろりと本音をもらしたシャーに、カッファのはらわたは煮えたぎりそうになるのだが、それをかろうじて押さえて言った。
「重要だといっているのに、あなたはまた何も聞いていませんね!」
ようやくカッファの怒りの度合いに気づいたのか、シャーは慌てて首を振って、愛想笑いを浮かべる。
「ちっ、ちが、違うよ〜。オレ、夢の中でも話は聞けるから、さ、それで、ねえ。眠ってたようにみえるだけだって!」
「ほほう、それは面白い構造の耳をお持ちだ」
「ほほ、ホントだってば。あ〜、君たちも疑ってるね」
シャーは慌ててごまかしながら、周りを見回した。シャーに目をあわそうとする将軍達はひとりもいない。
「ん、んでは、オレが話をきいていた証拠として、立案などひとつ。いい?」
「勝手にやって下さい」
カッファはむすっとしたが、シャーは渡りに船を見つけたという風に、急に目を輝かせる。この場での窮地はとりあえず脱したようだ。