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笑うムルジム37

 

 街には外出禁止令が敷かれていた。
 最初は、緊急招集に何があったのかと外に飛び出てきていた住人達も、兵士達の巡回が始まるころには、厄介ごとに巻き込まれるのを恐れて、かたく扉を閉めて引きこもってしまった。寝静まっている、……というよりは、息を潜めているといったほうが正しい表現だろう。重苦しい沈黙と静寂が家々と支配し、一方で往来にはがやがやと兵士達の囁き交わす声が聞こえている。
 ジャッキールは、そんな路地を闇に体を溶けこませるようにして、ゼダの隠れ家に向かっていた。
 どうせこの状況では、酒場も早々に閉めているだろう。女の子の家に押しかけることもできないだろうし、彼らが溜まっているとすれば、やはり先日から根城にしているここに違いないだろうと踏んでやってきた。その目論見があたっていたのか、案の定、細々と灯りがともっているのが窓から漏れている。
(やれやれ、盛大な打ち上げとはいかなかったらしいがな)
 ジャッキールは、そう考えながらも、彼らがどうにかそこにたどり着いていることに安堵していた。
 あの時。緊急招集のラッパの音は、もちろんジャッキールにも聞こえていた。天から降るようなラッパの音と共に、刺客たちは慌てて彼を放置して逃亡し、彼も当然その場から去らなければならなかった。なにせこの風体だし、一度は暗殺計画に加担した身である。
 案の定、二回ほど兵士に呼び止められもしたが、そのたびにうまく切り抜けてここまできた。とはいえ、自分がうまく抜けられたのは、シャーからもらった昼間の花押の書かれた紙切れと、ハダート・サダーシュのおかげといっても過言ではない。
 ハダートが待っていると兵士に呼び止められたのは、一度目に兵士の検問を受けた直後だった。大通りに留めた馬車の中に誘導されると、そこには、ハダートが座っていた。
 ハダートは、おそらく屋敷をでた後から、自分を尾行させていたらしい。あれこれ事情を知っているらしく、彼は、にやにやしていた。
「アンタも見かけによらず、結構気の利く男だねえ」
 笑いながら、ハダートは言った。
「あんなヤツに大判振る舞いしてやるとは思わなかったよ」
「何のことかな? 俺はただ男女が絡まれているところに遭遇したので、逃がしてやっただけだ」
 そうそっけなく答えると、ハダートは、苦笑する。
「まあ、いいや。あの二人なら、門が閉まる前に都を後にしたよ。安心しな」
「安心しろはいいのだが、この状況で安心できるのか?」
 ジャッキールは、外の様子を見やる。ハダートの表情は苦い。
「あまり良くはねえけどな。俺も今から現場に行くところなのさ。だが、俺やジェアバードには、真っ先に現場から報告が来ていてね。犠牲者も怪我人も出てないことはわかっているんだ」
 ジェアバードとは、ハダートの親友でもあるジェアバード・ジートリュー将軍だ。彼は王都の警護をつかさどっている為、真っ先に報告が行くのだろう。彼は彼でハダートにも伝えるはずであるから、彼ら二人は、何か事が起こったときの情報が早いのだ。
「まあ、そういうことだからアイツには安心するように伝えて欲しいのさ」
「ヤツにはここで待機させたほうがいいのだな?」
「ああ。アイツの場合、宮殿にいるほうが目をつけられて危ない。自分で身を守れる男だし、面も割れてないから、このまま、しばらく静観して欲しいんだよ」
 ハダートは、ふいに眉根をよせて難しい表情になった。
「それと、一点気をつけて欲しいんだが、何かと暴走しがちな男なんでね。今は、誰も犠牲者も出ていないから、静かにしててくれと伝えて欲しいんだ」
「その点については、気をつけるつもりだ。やはり、神殿で襲われたのか?」
「ああ、あんなところから襲撃しやがるとはね。完全に俺たちのほうが、敵を甘く見ていたぜ。アンタの言う通り、サギッタリウスは大した男だ」
 ハダートは、珍しく殊勝な態度だった。
「しかし、怪我人が出ていないということは、サギッタリウスは的を外したのか?」
「いや、詳しいことは聞いていないが、”お兄ちゃん”が、うまいことかわしたんだそうな。あの兄貴も、可愛い顔して侮れないところがあるからな」
「外した後に追撃しなかったのか? そのまま、逃げたということなのか?」
「多分そうだろう。いくらなんでも突撃をかけてきたら、もっと神殿のほうで大事になっているぜ。逃亡中の奴らを捕まえる為のこの大騒動さ」
「外した後、そのまま逃げた?」
 ジャッキールは、眉根を寄せて腕を組む。何か考え込んでいる様子の彼に気をとめず、ハダートはため息をついた。
「しかし、毒矢だったらしくてさ。かすり傷もないらしいんで良かったぜ。あの兄ちゃん、体が弱いから、何かあったら大事だったよ」
「毒矢?」
 ジャッキールが、思わず片眉を上げた。
「どうした? 何か気になることでも?」
「毒矢が使われたといったな?」
「そうだ。何の毒かはこれから調べなきゃいけないが、べったりと何か塗ってあったらしい」
「俺の知っているサギッタリウスは、毒矢のような姑息な手段を使う男ではない」
 ジャッキールは、腕を組みなおし、顎をなでやる。
「あの男は、自分の腕前に絶対の自信ががある。万一外した時のことを考えて毒を塗るような男ではない」
「それじゃあ、別だってことか? しかし、外せない相手だぜ。毒ぐらい塗るだろう」
 ジャッキールは、唸った。サギッタリウスが標的を外してアッサリと逃亡したことも意外だったのに、毒矢まで使ったというのは、サギッタリウス本人を知るジャッキールとしては考えられない。それでは、この事態から、何を予想すればいいというのだろう。サギッタリウスは、この一件から下りているのだろうか。いや、しかし、ジュバの言葉とあの男の気性から、土壇場になって下りるというのは考えづらい。
「あの男の動向が気になる。何かわかったら、貴様が言える範囲でいいので俺にも教えてくれないか」
「ああ、そりゃあ、アンタが協力してくれるなら、俺としても助かるんだが……。しかし、アンタがそんなに気になるなんて」
 ジャッキールの深刻そうな表情に、ハダートは、やや気圧され気味だ。
「サギッタリウスは、一度の失敗であきらめないとでもいいたいのか?」
「いや、……俺が懸念しているのは」
 ジャッキールは、声を低めた。
「あの男が、相手を射るときに、標的が”本物”であるかどうか気づいたかどうかなのだ」
 もし、サギッタリウスが、そのことに気づいていたとしたら、それがゆえの逃亡なのだとしたら。
 ハダートと別れてから、この隠れ家に来るまでに、ジャッキールは何度かそのことを考えていた。
 何にせよ、サギッタリウスという男は、異常に勘が鋭い男だ。何も考えていないが、勘が鋭く、それがゆえに扱いづらい。何を考えているのか、こちら側から予想できない。
 敵に回すと怖ろしいのは、腕前だけでなく、サギッタリウスがそういう男だからでもある。
(しかし、今は、あの男を暴走させんようにしないとな。下手に情報を与えると、何をしでかすかわからん)
 いつの間にか扉の前に立っていたジャッキールは、ため息をひとつつくと、扉を、二、三度、控えめに叩いた。
 少しあって、中で人が動く気配がする。
「どなたですか?」
 やたらと大人しい声色だが、声の主はすぐにわかった。ゼダだ。兵士が来たら、例の外向けの声色でごまかすつもりなのだろう。
「俺だ、開けろ」
「なんだ、ダンナかよ?」
 小声でそういうと、ガラッと声色を変えたゼダは、あっさりと扉を開けてジャッキールを確認した。そして、すばやく彼を部屋の中に入れ、念入りに扉を閉めた。ゼダは、改めてジャッキールに向き直った。
「へえ、よく来れたな。外は兵士で一杯だろ。質問されてしょっぴかれそうなのによ」
「二回された」
「なんだ、やっぱりされてるのか、その面でよく解放されたねえ。そんな信用できない風体しているのにさあ」
 ゼダは面白そうにジャッキールをからかう。ジャッキールは、むっとした様子になる。
「お前らより、いくらかマシだと思うがな。どうせ今夜も、どこぞで揉めてきたのだろう?」
「おや、よくわかるね」
「そんなことだろうと思っていたのだ。昼間の様子も様子だったしな」
 ジャッキールは、自分の行動については、ややすっとぼけつつ、ため息をつく。
「貴様の顔をみると、どうやら揉め事は一段落したらしい」
「まぁね」
 ゼダは、そう答えつつも、でも、と眉根を寄せる。
「でもよ、なんだか連中も動きが怪しくてさ。変な奴らが絡んでくるし、今日の騒ぎと何か関係があるのかね」
「深入りするのは危険な話だろうがな」
 ジャッキールは、苦笑する。
「まったくさ。今日は美味い酒が飲めると思ったんだが、リーフィの美味い飯だけになっちまったよ」
 そういわれると、確かに先ほどからいいにおいがしていた。ささやかながら、テーブルに美味しそうなあたたかな料理が数点並べられている。
「リーフィさんが来ているのか?」
 そう尋ねると、ゼダは、ああと答えた。
「酒場が終わったらここに来るように言ってたのさ。あのコも、動いてるほうが気が楽だろうと思ってね。だから、メシを作ってもらおうと思って。でも、この様子じゃ、家まで帰れそうにねえから、一番綺麗な部屋にリーフィの寝る場所作ってやらねえとな。悪いことしちまったな」
 ゼダは、割と素直なことを言う。ふと、ジャッキールは、気づいたようにゼダに聞いた。
「そういえば、三白眼のヤツが見当たらないが、リーフィさんと一緒にいるのか?」
「アイツ、今日ちょっとおかしいんだ」
 ゼダは、やや心配そうなそぶりを見せた。
「帰ってきてから気分が悪ぃっていって、あっちの部屋で休んでるんだけどさ。どうも、様子が変なんだよな」
「そうか」
 まあ、そうだろうな。と、ジャッキールは思ったが、口に出さなかった。


 その女性は、彼が覚えている限り、とても美しいひとであった。
 彼は、両親に関する記憶がなかった。ただ、一人、路地裏で好き勝手に暮らしてきた。腹いっぱいに食べ物を与えられることはなかったが、持ち前の性格で面白がられ、その日の食い扶持には困らなかった。彼は一人でいることに、別に違和感を覚えていなかった。ただ、母親に連れられた自分と同じ年頃の子供を見て、自分の境遇を思い知った。そういう日の夜は、ことさらに寒かったことは何となく覚えている。
 そんな自分に会いに、綺麗な身なりの男がやってきた。男は優しくしてくれて、自分を綺麗な馬車に乗せて、綺麗だが窮屈な服を着せ、たくさんの食べ物を与えてくれた。彼は、自分が何者なのかを知らなかったから、自分がなぜ突然男からこんなに優しくされるのか、まだ理解をしていなかった。
 あの女にあったのは、まさにそういう時期だった。
 彼を宮殿に連れてきた男は、無骨で不器用だが優しい男だった。だが、彼はあくまで自分に対して、主君の息子として接していた。それは、それ以後も変わらなかったが、彼にとっては寂しかった。特に、そのころの彼は、なれない宮殿の生活に疲れ、特段に愛情に飢えていた。
 そんな彼に、その女は母親のように接した。彼女に挨拶をする為に、彼女の部屋に呼ばれたときに、彼は彼女から優しくされた。たくさんの女官をかしずかせた彼女は、自分を母のように思ってよいと言い、彼に美味しい食べ物を与え、女官達と遊ばせた。彼は、その女が好きになった。しかし、男は、彼女と自分が親しくするのを嫌った。早く帰ろうとまで言い出した。
 結局、男の意見が通り、彼は早くに女と引き離された。別れ際に、彼女はこっそりと彼に菓子をくれた。それは、小麦を焼いて作って蜂蜜で味付けをした、甘い甘い菓子だった。
「あの男には内緒におし」
 と、彼女は言った。どうして? と彼は尋ねた。
「あの男に言えば、甘いものは、歯に悪いというだろう。だから、あれに見つからぬようにこっそりと召し上がれ」
 そういって頭を撫でられた。だから、彼は答えた。
「わかりました。『母上』」
 男は、とても優しかったが、同時に口うるさかった。それに、優しい「母上」と会うのをやめるようにも言っていた。その女は美しく優しかった。そんな彼女が本当に母親だったら、嬉しいなと彼は思っていた。
 だから、彼女に言われるままに、帰った後、自分の部屋でひっそりと、男に見つからないようにして……
 彼はその菓子を口にしたのだった。
 とても甘くて美味しい菓子だった。が――、なぜか後味がとても苦かった。
 どうして苦いんだろうと思った瞬間、なぜか息苦しくなって、天井がぐるりと揺らめきだした。そのときは、自分の身に起こったことが何であるのか、彼は理解できなかった。


 珍しくめまいがしていた。
 外の重苦しい空気に酔ったのか、とシャーは、額を押さえた。
いや、今日は体調が悪くなる心当たりは山ほどあるのだ。大体、昨日、自棄酒をくらって喧嘩はするし、ジャッキールには殴られるし、そのせいで、寝不足で二日酔いだったし。それでもって、さっきの逃亡劇だ。おまけにちょっと気を取られたときに、膝蹴りをもらっていまだに左胸がズキズキする。
「めまいもするよな」
 シャーは、ため息をつく。
 まだ部屋の天井が揺れている。シャーは目を閉じて、右手で頭を抑えていた。あの時も、そういえばこんなめまいがしたものだっただろうか。それに気分も悪かった。
 この隠れ家に飛び込んだとき、リーフィは、酒場が終わってここにやってきたばかりだった。あまり手の込んだ料理はできなかったらしいが、既にいくつか机の上に皿が並んでいた。
 普段は、けしてその料理を見たところで、あのころのことを思い出すことはない。ただ、今日は、帰る道すがら、ずっとあの女のことを考えていたからだっただろう。あの後、何度もあった毒を盛られた時の記憶が蘇って、急に吐き気がして、シャーは、逃げ込むようにして別室に引っ込んでしまったのだった。
(折角、リーフィちゃんが作ってくれた飯だったのに)
 忌々しい記憶だ。思わず舌打ちをしてしまった。
 菓子に毒を盛られたその日以降、彼の中でその女は敵だった。
 あの甘い甘い菓子を食べた後、彼は泡を吹いて昏倒した。カッファがすぐに彼の異変に気づいたので、その後、すぐに処置して命は取り留めたが、あの女に二度と甘い感情を抱くことはなかった。口では「母上」とは呼んだが、本当は、それすら呼びたくもなかった。
 それ以降も、あの女には随分毒を盛られたし、刺客もよく送り込まれた。彼が少年から青年といっていい年頃になったころは、毒入り料理の見分け方にも慣れてきたし、剣の腕も上達していたから、刺客も余裕で返り討ちにするようになった。そして、彼も公式の場で顔を隠すようになったので、あまり重大な暗殺未遂にはあわなくはなっていったが――。
 もちろん、やられっぱなしで黙っている彼ではなかったが、カッファしか後ろ盾のいないシャーと、実力のある外戚をたくさん抱えるサッピアとでは分が悪すぎる。確たる証拠をつかませてはもらえないので、強引に弾劾するのは彼の身分では避けたほうがよかった。だから、表沙汰にこそしなかった。
 しかし、シャーとしてもそれで黙っていられる性格でもなかったから、公式の場で彼女に会っても、シャーは彼女に対しては、あまり態度が良くなかった。敢えて皮肉な口調で挨拶をしてやったこともあるし、相手に反感を持たれるのを承知で睨みつけてやったこともあった。
 だが、彼女の息子である弟に対しては、悪感情を抱いたことはなかったし、ある種の同情を抱いてもいた。そのこともあったから、彼は、彼女を許して幽閉の処分に留めたのだが――。
 そんな自分が甘かったというのだろうか。
「シャー、大丈夫?」
 ふとそんな声がして、目を開けるといつの間にか傍にリーフィが立っていた。リーフィはしゃがみこんで、持ってきた水と水でぬらした手ぬぐいをかたわらにおいて、シャーを覗き込んできた。
「ん、平気。ちょっと疲れただけだよ」
 シャーは軽く答えた。
「そう。お水飲む?」
「はは、ありがと」
 そう答えて水を受け取り、唇を湿した。自分も少し落ち着いてきていたのか、気分の悪さは半減していた。それを心配そうに眺めていたリーフィがため息をつく。
「ごめんなさいね、シャー。無理させちゃったみたい」
「ううん、あいつらを逃がすのは、別に大した労力だったわけじゃないんだ。ただ、オレが寝不足だったから」
 シャーは、そう答えて愛想笑いを浮かべる。
「ネズミから聞いてるだろうけど、あいつらは無事に逃げたよ。安心して、リーフィちゃん」
「ええ、ありがとう、シャー」
 リーフィは、かすかに微笑んだが、少し眉根をよせて、そして思いついたように切り出した。
「シャー、こんなこときいて、気に障ったらごめんなさいね」
 シャーがきょとんとしていると、リーフィは、小声で彼に尋ねた。
「シャー、何かあったの?」
「え?」
 その視線の強さにどきりとして、シャーは面食らう。
「ここに帰ってきた時のシャー、とても怖い顔をしていたわ」
 リーフィは、そういって彼を見あげた。
「本当は、何かあったのでないの?」
「あ、ああ……」
 シャーは、少し考えた後、ため息をついた。
「……ちょっと、気になることがあったんだ」
 彼女に本当のことは言えないのだ。シャーは、わざと強がって笑う。
「でも、もうどうでもいいんだ。多分、大丈夫だろうし」
 これ以上追及されたらどうしようかと、シャーは心配したが、リーフィもそれ以上は尋ねてこなかった。
「そう」
 リーフィは、そっと微笑むと立ち上がった。
「私で力になれることは少ないけれど、何かあったら相談してね」
「うん、ありがとう、リーフィちゃん」
 シャーは、そう答えて身を起こした。
「心配かけてごめんね。もう大分良くなったから、ご飯もいただくよ。水飲んでからいくから、先に戻ってて」
「ええ。でも、無理はしないでね」
「うん、ありがと」
 シャーがそういうと、リーフィはにこりとして部屋から出ていった。
(ああ、リーフィちゃんにまた心配かけちゃった)
 何となく罪悪感を感じて、シャーはため息をつき、もらった水を一気に飲み干した。廊下のほうで、リーフィが誰かと話している声がした。ゼダかと思ったが、どうもそうではなさそうだ。
 そう考えているうちに、声の主は、リーフィが去っていったばかりの入り口にぬっとあらわれていた。
「なるほど、顔色はあまり良くないな。仮病ではないらしい」
 ジャッキールは、シャーをみやりながらそんな皮肉をいい、部屋の中にはいってきた。
「ありゃ、ダンナ。来てたのかい?」
 少し復活してきたシャーは、にっと口の端を歪めて面白そうにきく。
「こんな厳重な警戒の中、よくたどり着けたね。職務質問されなかった?」
 その質問も既に二度目だ。
「残念だが二回された」
「へー、よくしょっぴかれなかったねー。オレが担当の兵士だったら、アンタみたいな怪しい男、間違いなく連行するけどな」
 むっとした顔のまま、ジャッキールは、シャーの向かいに座った。
「コレがあったからな」
 そういってジャッキールが差し出したのは、国王シャルル=ダ・フールの花押だ。昼間、ジャッキールがハダートに会いたがったときに渡したものである。
「あ、そっか。アンタ頭いいね。この大事のなかでも、それを見せりゃ、特別な任務をしょってるんだと思って解放してくれるわ、そりゃー」
「あんまり乱発するつもりはなかったんだがな。なにせ、貴様らの言うとおり、信用のない面をしているからな」
「そ、そんな言い方しなくてもいーじゃないの。ダンナは、ほら、じっくり見ると意外とイケメンさんじゃん」
 少し拗ねたような口ぶりのジャッキールに、シャーは慌てて追従に走る。が、思わず左手を動かした際に、どこかに響いたのか、左胸が痛んだ。
「いてて……」
 左胸をおさえつつ、シャーは、顔をしかめる。
「どうした、珍しいな。反撃されたのか」
「それもそうだけど、昨日アンタにやられたせいで身体が痛んでてね。間違いなくそのせいだぜ」
「それは、自業自得だろう」
 恨めしそうなシャーに対し、ジャッキールは、憮然とした面持ちだ。
「そんなことより、貴様、色々心配ではないのか? 何が起きているのか、予想ぐらいはしているだろう」
 そういわれて、シャーは、表情を曇らせる。
「そ、そりゃあ、そういわれればそうだけど、この状況でオレが出て行くわけにはいかないだろ」
「それもそうだ。蝙蝠のヤツもそういっていた」
「あれ? アンタ、アイツに会ったの?」
「まあな。下手をして、貴様が暴走してはならんからと、ヤツに言い含められたのだ」
 そっとジャッキールは声を低めた。シャーの顔に緊張が走る。
「やはり神殿で襲撃があったらしい。だが、狙われた当の本人は無傷で元気だとか。犠牲者もいないから安心してくれということだ」
 シャーは、ほっと胸をなでおろす。
「そっか。それなら良かった。で、当の襲撃した奴らは?」
「さてどうだろうな。つかまっているなら、これほど大騒ぎはしていないとも言っていた。それに、お前も知っての通り、相手が女狐だとしても、証拠がなければ動けないのだろう」
「そうだよ。だから困るのさ」
 シャーは、唸った。
(サギッタリウスが関わっているなら、そう簡単にはつかまるまい)
 ジャッキールは、そう考えたが、その名を今は出すのを避けた。まだ、あの男が関わっているかどうかはわからない。情報が足りなさすぎるし、不自然なところが多すぎる。
 そして、仮に彼が関わっていたとしても、シャーにその話をしていいのかどうかはまた別の話だった。何せ、あの男は、かつて彼を撃ち落した男なのだ。下手に話をすれば、意外と壊れやすいところのある、そして、立ち直ったばかりのシャーのトラウマを抉ることにもなりかねない。ただですら神経質になっているところなのだ。あまりそのあたりを刺激するのは、よくないことになりそうである。
「蝙蝠は、今はここで静観してほしいといっていた。お前が下手に動くのは危険だと」
「そうだね、今はまだあんまり状況がわからねえし、下手にあれこれ考えないほうがいいかもな」
 ふうとシャーはため息をついた。
 ひとまず、「彼」が無事であるのがわかっただけでも良かった。今はそう考えるほかはなかった。



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