一覧 戻る 進む 笑うムルジム35 待っていたゼダの手下に手引きされて、ベリレルは、ミシェを連れて街の門へと走っていた。 王都の門は、一時は門限が厳しく決まっていたが、今は真夜中の零時まで数箇所の門が開いており、以前に比べると比較的緩やかだった。 ゼダの手下は、ミシェと一緒に待っており、ベリレルの姿を見かけると、すぐにこのまま門まで走って逃げるようにと告げた。ミシェは、どうやらゼダから心づけとしていくらか金銭をもらっていたらしいが、とにかく夜を徹して近くの町に逃げるようにとベリレルに話したものだった。 もとより、ベリレルもそのつもりだった。 あの二人の言ったことはもっともだ。今自分達を追いかけている敵は、どうも自分ではかないそうもない相手だった。こうなったらほとぼりが冷めるまで都落ちするしかない。 「どうしたの? 誰かに追われているの?」 ベリレルの必死さに異常を感じ取ったのだろう。そう尋ねてくるミシェが、危うくまろびそうになるのを支える。 ゼダもゼダの手下も、大通りを通って門を目指すようにと、彼に告げてはいたが、いつの間にか彼は、小さな裏路地のほうに回りこんでいた。ミシェのような女を連れて慌てて駆け出す男。そんな男女の姿は、何かと不穏に見える。夜間は大通りといえど、花街でもない限り、めっきり人気はなくなっているものの、巡回の兵士などに見つかる可能性はある。別にそのことに思い至っていたわけではないが、もともとすねに傷を持つベリレルは、本能的に大通りを避けてしまっていた。 「ねえ、ちょっと待って、ベイル」 抱きかかえるようにしていたミシェが、顔をあげて彼に話しかける。 「ねえ、こんな寂しいところ、怖いわ」 「あ、ああ、そ、そういえばそうだな」 ミシェにそういわれて、ベリレルも、ようやくそのことに気づいて、はた、と立ち止まった。 門まで近いところまではきている。それに、ひとつ路地を越えれば大通りにも通じている場所だ。しかし、ミシェが不安がるように、いかにもさびしい場所だった。 それに。 ベリレルは、はっとミシェを背後にかばいつつ、剣の柄を握った。 静まり返った通りに、確かに何者かの気配がする。ベリレルが、思わず構えた瞬間、暗闇から音もなく黒い服を着た男がぬっと現れ、彼に襲い掛かってきた。 ミシェが悲鳴を上げ、ベリレルは彼女を突き飛ばす形で横に避けた。 「だ、誰だ、お前は! 先回りしてやがったな!」 ベリレルの言葉も聞かず、黒い覆面をした男は、ベリレルの喉元を狙って短剣を繰り出してきた。慌てて剣で受け止めながら、彼は反撃しようとするが、男の剣先は鋭い。奇襲をしかけられたこともあり、受け流すのが精一杯だった。 「ベイル!」 後ろでミシェが悲鳴を上げる。思わず彼女の方に気をとられたところで、刺客の短剣がベリレルの二の腕を掠めた。痛みを感じるより先に、避けようと身をひねった拍子にバランスが崩れ、ベリレルはそのまま後ろに倒れこむ。地面に打ち付けられて上を見上げると、刺客が彼にとどめを刺そうと追撃をかけてくるところだった。 「残念だが、そこまでだ」 男の声が聞こえたのと、視界の端に黒い布が見えたのは、ほぼ同時だった。 「俺もその男に所用があってな。殺されては困る」 いつの間にか、ベリレルの目前に黒服の男がもう一人立っている。男は、ただ陰鬱な笑みを浮かべてゆったりと立っていた。黒い服のせいで男も闇に溶け込むかのようだったが、顔が白い為闇に浮かんで見えるようだった。 「どこの犬だから知らんが、今日のところは退け」 男はそう呼びかけたが、刺客は相変わらず言葉を発する気配はなく、男の言葉をきく姿勢もなかった。彼の言葉が終わるか終わらないかのうちに、刺客が男の方に刃を向けて襲い掛かった。 「やれやれ。今日は俺は気乗りしないんだがな」 ため息をつきながらも、男の唇がぎこちなく歪むのがベリレルにもはっきり見えた。そして同時に男の手が背中に背負っている剣の柄に吸い寄せられるように伸びていくのも――。 思えば刺客も油断をしていたのだろう。目の前の男は、殺気も消していたし、今日は常日頃の狂気を抑えてもいた。そうしている時の彼は、どちらかというと生気のない陰気な男にしか見えなかった。 刺客が飛び掛るより早く、男の手元に白銀の光が閃いていた。刺客は、そのまま後ろに投げ出される。しかし、すぐに体勢を立て直して、男の様子を伺った。腕を押さえているところを見ると、それほど深い傷ではないらしい。 「わかっただろう? 今なら見逃してやる」 男は、刺客を見下ろしながら物憂げに告げた。刺客はぐっと身をかがめ、ためらう様子を見せたが、思い立ったように身を翻した。そして、そのまま街の暗闇の中に消えていく。 「ベイル、大丈夫?」 ミシェが震えながら、地面で二人のやり取りを見ていたベリレルの元に駆け寄った。 男は、二人のほうに向き直る。ベリレルは、緊迫した面持ちで立ち上がりながら、彼を見上げた。 「あんた……、まさか昼間の……」 ふっと彼は笑った。 「覚えてもらっているとは嬉しいな。話が早い」 「な、何の用だ!」 ベリレルはミシェを背にかばいつつ、剣を再び構えた。男は、それを冷笑する。 「ふふ、別に俺は貴様を殺そうというわけでここに来たのではない。所用があるといっただろう?」 「所用だって?」 「そうだ。高飛びさせようなどとは、いかにもあの三白眼とネズミの二人の考えそうなことだが、あの二人は詰めが甘い。案の定先回りされているとは。俺がここに来てよかっただろう?」 にやりと笑いながらも、男は、その瞳の剣呑な光を消していなかった。 「それに、俺は貴様と取引をしたくてここに来た」 彼は、懐に手を入れて皮袋を取り出し、ベリレルの足元に投げ置いた。ちゃらちゃらと音が鳴るところをみると、その中にはそれなりの額の貨幣が入っているようだった。 「ネズミは、貴様に小遣いぐらいは渡しているだろうが、どうせそれでは足りまい。逃亡生活には当面の資金が必要だろう。ここにいくばくかの金がある。それを貴様にやる代わりに、俺の出す条件を飲んでもらいたい」 「な、何だって?」 ベリレルは意外そうに彼を見た。男は、やや口元をゆがめて笑っているようにみえたが、彼の真意が読めなかった。 「い、一体どういうつもりだ?」 「疑っているようだな。それも仕方がない」 彼は、笑みを止めてため息をついた。 「貴様の人格を考えてのことだ。都落ちして仕事にあぶれれば、また都に戻ってきてしまう。この都には危険だが、高収入の仕事はいくらでもある。俺は、ほとぼりが冷めるまで貴様に都に戻って来られると困るのでな。色々と厄介なことが起こる。だから、そうしない為の資金を俺が立て替えてやる」 「な、何がいいてえんだ?」 「当分都に戻って来ないこと。それが条件だ」 男は、ベリレルをにらみつけた 「その代わり、戻ってくるというなら、奴らの目に触れる前に、俺が貴様を殺す」 彼の瞳は、冷たく刺すようだった。彼はまだ剣を握ったままだ。全身から静かに殺気を放っている男の視線に、思わずベリレルは体がかすかに震えるのを感じていた。 「も、もし、俺が金を受け取らないとしたらどうする?」 「別に。受け取る受け取らないは貴様の自由。ただし、俺がその後見かけて目障りだと思ったら、その場で斬るだけだ」 ふっと薄い唇を歪めて笑う。思わず、触れると切れそうな彼の視線に、ミシェがベリレルの腕を強くつかむ。 返答は、と言いたげに、男が軽く首をかしげた。ベリレルは、彼の顔と目の前に投げ出された金の入った袋を見比べていたが、ふと、何かに気づいて顔を上げる。 その異変に気づいたのは、男も同時だった。彼らが見つめる暗黒の中に複数の人間の足音が聞こえる。 「やれやれ、さっきのヤツが加勢を連れてきたらしい」 男は肩をすくめて苦笑し、ベリレルのほうを見た。 「金を受け取って条件を飲むというのなら、足止めはしてやろう。どうする……?」 ミシェが、ぎゅっとベリレルの腕をつかむ。 「都に戻ってこなければいいんだな?」 「そうだ。それ以外に何も強制するつもりはない」 ベリレルは、男を睨みながらうなずいた。 「わかったよ。俺には、それしか道がないみたいだしな」 「賢明な判断だな」 男がそう呟いた時、闇の中から黒い手が男の方に伸びてきた。が、男は落ち着いた様子で、ぶら下げていた剣を斜めに滑らせて、刺客の刃を受け流した。 その一瞬に、ベリレルは足元に投げ出されていた袋に手を出した。そして、ミシェの手をつかんで走り始める。 「ベイル……!」 「いいから! とにかく、早くこの街から抜け出すんだ!」 ミシェを抱えあげるようにして表通りへと走り出す。門はすぐそこだ。表通りにさえ抜けてしまえば、門を護る王国の兵隊の目につく。そこまでは刺客もやってこられなかった。 背後では男が戦っているのか、金属の打ち合う音が断続的に響いている。それに追い立てられるようにして、二人は王都の門に向かって駆けていった。 引き絞られた弦がきしむ音が響いていた。 神殿に面した塔の上では、すでに二人の男が標的に狙いをつけていた。 「さあ、標的のお出ましだ」 エルナトがそういって、引きつった笑みを浮かべる。彼の視線の先には、神殿の大きな天窓があった。明るい拝殿の中は、夜の闇の中で浮き出すように見えている。中央に絨毯が敷かれ、ところどころに王族のタペストリーが飾られている。そこをゆったりと進んでくるのが、今宵の標的に違いなかった。 今回の標的が、国王シャルル=ダ・フールであることは、エルナトも知っている。当初ははっきりと名は告げられなかったが、周囲の空気や様子でそんなことはすぐに見当がついた。 病弱で引きこもりがちだという彼は、ゆったりとした外套を羽織り、おっとりとした足取りで絨毯の上を歩いていた。 エルナトは、ギリギリと弦の軋む音を聞きながら、改めて狙いをつけた。彼がその天窓の中央に来た時。それが決行の時だ。 改めて鏃を見る。ひっそりと矢毒を塗った鏃は、夜の闇のなかでも、妖しいぬめりのある光沢を帯びていた。 「残念だが、この件、俺がもらったぜ。サギッタリウス」 緊張をほぐす為と相手を挑発する目的で、エルナトは自分の後ろのほうで、同じく弓を引き絞っているサギッタリウスに声をかけた。 「俺のほうがいい位置だしな」 が、サギッタリウスは、というと、エルナトの声など聞いてもいない様子だ。返事がないのでエルナトは、彼の顔をちらりと見る。 サギッタリウスは、鋭い目つきで標的のほうを見つめていた。その様子は彫像のように冷たい。普段はどちらかというと表情の変わりやすい男であるし、むしろ騒がしく、生命力に溢れていたが、今の彼はひどく静かな印象だった。ただ、鬼気迫るような形相が、エルナトに少し恐怖心を呼び起こしてもいた。 サギッタリウスは、実際、エルナトのことなど、何も気にしていなかった。標的を射る時の彼はいつもそうである。周囲のことなど除外して、ただ標的と自分だけの世界を作り上げる。それが常の彼だった。 サギッタリウスは、今、天窓の中央に歩いてくる標的を見ていた。その標的の頭上の青いタペストリーは、シャルル=ダ・フールをあらわす紋章がかたどられている。 彼は、あの紋章や旗を見た覚えがあった。ふと、サギッタリウスは、かつて戦場でみた光景を思い出していた。 青い空に黄色の砂漠が広がる戦場でのことだった。当時、彼はザファルバーン隣国であるリオルダーナに雇われていた。そこで彼は、青い兜をかぶった、まだ少年といってもいい年頃の敵将を狙い撃ったことがあったのである。その青く染めた孔雀の羽で飾った青い兜の将軍が、実際、誰であったかは定かではない。その軍を率いていたのは、東方遠征中のシャルル=ダ・フール王子であったのは違いなかったが、当時から本人は寝込んでいて戦場にでてこないとまことしやかに囁かれていたからだ。 その代わりに、戦場で活躍していたのが、名前も知られない年少の青い兜の将軍だった。青兜(アズラーッド・カルバーン)とあだ名をつけられたその男が、事実上、その軍の精神的支柱であったのは間違いないようだった。 そして、その日、彼は、その男を狙う機会を得た。 サギッタリウスは、自分と標的以外が黒塗りされたような世界を作り上げて、相手を射抜く。その世界の中で、その青い兜の少年は、燦然と輝いていた。馬を走らせ、前線で突撃をかけていた彼の存在感は、ただの少年とは思えないものだった。 彼がシャルル=ダ・フールであるかどうかは、サギッタリウスには知る術はなかった。ただ、サギッタリウスは、そのとき思ったのだった。目の前の標的こそ、自分が射抜く価値のある標的だと。 そして、そのとき、サギッタリウスは、ひそかに彼こそが本当のシャルル=ダ・フール王子ではないのかと、ひっそりと確信を得てもいたのだった。 青いマントが翻り、サギッタリウスは、冷徹な狩人そのものの目で彼をねめつけた。そして彼は矢を放った。ゆっくりとそれは彼が黒く塗りつぶした世界を飛んでいく。唯一、まぶしいほどの青い色を放つその男に向け――。その瞬間、サギッタリウスは、間違いなく彼を殺せたと思ったものだ。 青い服の男の左胸に矢が突き立ち、そして男は落馬した。その一連の動作は、ひどくゆっくりしていた。 落馬した彼は、しかし、すぐに起き上がった。そして、こちらを見た気がした。それは殺気に満ちた凄まじい視線だった。到底あの年頃の少年の視線だとは思えなかった。 十分、距離は離れていたのに、サギッタリウスは、彼に睨まれたのだとはっきり理解した。悪寒すら感じるほどだった。そして、サギッタリウスは、彼を射抜くことに失敗したことを悟っていた。 サギッタリウスは、タペストリーから再び視線を標的に戻した。 あの時、予想通り、彼は死ななかった。彼は生き延びた。やがて、戦争が終わり、その青い兜の男のうわさは聞かなくなったが、代わりにシャルル=ダ・フールが即位したと風のうわさに聞いた。その彼を再び狙撃することは、あるいは運命かもしれないとサギッタリウスは考え、この作戦につきあうことにしたのだ。 天窓の中央に、ゆっくりとした足取りで、シャルル=ダ・フールが歩いていく。そしてその中央部分に差し掛かる前、ふと彼はこちらを見た気がした。 はっと、サギッタリウスは、目を見開いた。 「いまだ!」 エルナトの声が聞こえた。 その瞬間、びっと空気を裂く音が響き、二人は同時に矢を放った。 一覧 戻る 進む |