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笑うムルジム29

 
「シャー」
 リーフィに呼ばれて、シャーはついと顔を上げた。
 いつのまにか、リーフィがお茶をのせたお盆を手に、近くに歩み寄ってきていた。
「今、ジャッキールさんの声が聞こえたような気がしたけれど」
「あ、ちょっと遅かったねえ、いたんだけど、なんか忙しいって行っちゃった。ヤボだねぇ、ダンナも」
リーフィは、ほんの少し残念そうな様子になった。
「まあ、そうなの。せっかくお茶を淹れて来たのに」
「いいのいいの。それなら、それはオレが代わりにいただいて……」
 シャーは、そういってリーフィから茶をもらおうとしたが、その一瞬前に、彼女のそばから、ひょいと手が伸びてきて盆の上の飲み物をかっさらった。
「それじゃ、この茶はオレがもらうぜ」
 間に入ってきたのは、ゼダだ。シャーは、今までのだらだらした態度は、どこへやら、がばっと起き上がってゼダをにらみつける。
「てっ、てめえ! いつの間に!」
「いやあ、喉が渇いてたんでちょうどよかったぜ。リーフィ、すまねえな」
 これ見よがしににやりとしたゼダは、茶をぐいっと飲み干してリーフィに愛想笑いを投げかける。その様子が面白くないシャーを気持ちよさそうに見た後、ゼダは、小銭をとりだしてリーフィに渡した。
「ちょっと急いできたんで、喉が渇いててよ。もう一杯何か冷たいものくれよ。あと、ついでにこの三白眼にーさんの分もな」
「てめえの施しなんかいらねえっつの!」
 急に不機嫌になってそう答えるシャーに、リーフィはくすくすと笑い出す。
「わかったわ。少し待っていてね」
 そういって彼女は、再び厨房の方に向かっていった。
「何のつもりだよ」
「まあ、いいじゃねえか。そんなムキになることねーだろ? オレがおごってやるってば」
 ゼダは、どっかとシャーの向かいに座る。
「ちょっと話があるんだよ」
「何の話だよ?」
 そっぽをむいて不機嫌にいうシャーの顔を見て、ゼダは、不意にきょとんとした。
「ん? なんだよ。なにやら顔腫らしてるが何かあったのかよ」
「ん、んにゃっ、これは、別に……、その……ダンナに……。ああいや」
 シャーは、言葉を濁す。
「ああ、ダンナ? そういや、さっき、ダンナとすれ違ったけど、なんだいありゃ。いかにもヤバそうなヤツ連れてたけど」
 ジャッキールという言葉で、そのことを思い出したらしく、ゼダは面白そうな様子で尋ねてきた。興味津々といった様子である。
「ああ、なんか怪しいのをつれてたよな。教えてくれなさそうな雰囲気だったんで、訊かなかったんだけど」
「オレが思うにゃ、アレは絶対カタギじゃねえぜ」
「ダンナ自体がカタギじゃないもん。誰とつるんでても不思議じゃないじゃん」
 シャーは、冷たく答えるが、気にはなっているのかこう続けた。
「とはいえ、まあ、ちょっと気になる感じの野郎だったけどさあ」
 だが、ジャッキールが連れているのだから、何かしら彼にも考える所があるのだろう。ハダートのところにいくのが、彼がらみだとしたら、それこそ何か深い理由があるのかもしれない。ジャッキールの人格的に、いきなり裏切るような真似はしないだろうから、シャーにとって悪い話でもないのだろうと考えていた。
 かといって、それを追求したところで答えてくれるジャッキールでもないだろう。それがわかっているので、シャーもゼダも先ほどあまり深い理由をきかなかったわけであるが。
「で、その面はそのことと関係があるのかよ」
「い、いやっ、これは別に、関係ねえよ……。そ、それはそうと、なんか急ぎの話があるんだろ?」
 ゼダが急に話を戻そうとしたので、慌ててシャーは話を変えた。
「おー、そうだった、そうだった」
 ゼダは、さしてシャー自身に興味がないらしく、それ以上の追求はしなかった。ゼダは、声をひそめていった。
「実は、ミシェに会って事情を聞いてきたんだ」
「おお、あの子に?」
 ゼダは、とうなずく。
「あの子もかわいそうな子でな。ああ見えて結構苦労してんだよ。それなのに、あんなダメ男にひっかかっちまって……」
 ゼダは、ため息交じりにいって首を振る。
「ああ、そうそう。お前にも切りかかったんだって、結構気にしてたんだぜ。今日だって一緒に謝りにいくっていってたんだけどさ」
「オレの方はかすり傷だよ。それに、オレも悪いんだ。あの子を大分恐がらせちまったからな」
 シャーは、少しばつが悪そうな顔になる。
「それならいいんだが、あの娘、本当はそんな大それたことするようなコじゃないんだが。ちょっと思いつめると何するかわかんねえところがあってな。でも、健気でかわいそうなんだよ。つくづく相手の男をボコボコにしてやりたい気にはなるんだが」
 ゼダは、そういって、頬をなでやる。
「かといって、そうすると悲しむのはミシェだし。一応、男の方も努力らしいものはしてるみてえだろ。でも、話きいてると、今の状況、どうも泥沼みたいなんだよな」
「オレの方も、そういう風に聞いてるぜ。なんかヤバイところに手ぇ出しちまって、引っ込みがつかないみたいだな」
「おう。そうなんだ。それも、今、まさに大詰めの仕事らしくてな」
 ゼダが、ふと目を細める。
「この仕事が終わっても、ヤツは消されかねない。かといって、借金も多いし、どの道、ここじゃ生きていけねえぜ。それで、オレは考えたんだが」
 と、ゼダは、シャーの方を見上げる。
「どうにかして、あいつら、この街から逃がしてやれないもんかなと思ってるんだ」
「逃がしてやるって、男と高飛びさせるつもりか?」
 シャーが尋ねると、ゼダは、ああ、と答える。
「ほとぼりが冷めるまで、この街から出てったほうがいいと思うんだ。野郎を助けてやる義理はねえんだが、あのコがかわいそうなんでな。あのコを幸せにしてやる選択肢はそれしかねえよ」
 シャーは、何も答えずに腕を組んで考え込む。ゼダが、ずいと前のめりになった。
「んで、お前がもしミシェのことを怒ってないんなら、ちょっと手を貸してくれねえかなあと思って。さすがにこれはオレだけじゃ手が回らなさそうだからよ。そりゃ、オレの舎弟総動員してもいいんだが、何かとうるせえし、変に情報漏れると厄介だから、そこんところ、お前のが安全だろ。それに、てめえも乗りかかった船だろうしさ?」
「そうだなあ」
 シャーは、少し考えて、それから顔を上げた。
「わかったぜ。オレも無関係じゃねえし、それしか方法なさそうだからな」
「よし」
 ゼダは、にんまりと笑う。
「よっしゃ、そういうことなら今夜決行だぜ」
「へ? 今夜?」
 いきなりそんなことをいうゼダに、シャーは、少しあっけにとられる。
「あたりめえだろ。こういうのは、思いついた時にやるもんだぜ」
「そりゃあ、早い方がいいんだろうが、情報が足りてないんじゃ……。野郎をつかまえなきゃならねえじゃんか」
「その辺は、どうにかなるだろ。オレもミシェにもきいたし、舎弟どもにも調べさせてるし、お前だってオレの知らない情報を知ってるだろ。継ぎ合わせば大体どこが現場かわかろうってもんだぜ。世間ってえのは、案外狭いもんだしさあ」
 そんな理屈を述べて説得にかかるゼダに、シャーもそれもそうかと考え直す。
「そうだな。んじゃ、夜逃げさせるのは決定として、野郎を今夜うまいことしょっぴけるかどうかだが」
「ああ、ミシェのほうは用意させてるんだが、野郎のほうがな」
 ゼダが腕を組み、シャーと二人でため息をついたとき、いつの間に戻ってきたのかリーフィの声がした。
「あの人の逃げ込みそうなところは、なんとなく予想がつくわ。それに行動範囲もね?」
 はっと二人がリーフィのほうを見やる。リーフィは、机の上に二人の茶を並べると、にこりとした。
「二人とも、あのコを助けてくれるのね。私も出来る限り手伝うわ」



*
 日が暮れると、急に温度が下がってくる。夕暮れ時は、過ごしやすい気候となり、中庭に出てみると涼しくて気分がよかった。
 高い塀で囲まれたこの屋敷にも、夕暮れの涼しい風が入り込んでくる。
 半ば中央から隔離されたようなこの宮殿のはずれには、この国の前王セジェシスの妃の一人であるサッピアとその息子であるリル・カーンが住んでいた。ほとんど幽閉されたも同然ではあったが、シャルル=ダ・フールの情けから、ある程度、外出などの自由は保障されていた。
 少年は、中庭の椅子に座って、日の沈んだ空をぼんやりと眺めていた。西の空はじんわりと紫色になり、絶妙な色合いで描かれるグラデーションが美しい。塀で囲まれた中庭から、その空を見上げるのが、少年にはひそやかな楽しみでもあった。
「殿下。こんなところにいらっしゃったのですか?」
 声をかけられ、少年はおっとりと振り返る。その穏やかで整った顔立ちと、いかにも育ちのよさそうなゆったりとした動作は、彼が高貴な身分であることを示していた。年のころは、十五、六といったところで、大きな目が特徴的だ。
「ああ。すまない。ナズィル」
 背後にいるのは彼の世話役の初老の男だった。少年は、にこりと笑いかける。
「ちょうど良い風が入ってくるものだから、外に出ていたのだ」
「リル・カーン殿下」
 男は、困惑気味に言った。
「それはようございますが、今日のところは、早くお部屋にお戻りなされ」
「どうしてだ?」
「今夜は、殿下にはお部屋の中でいていただきたいのです。余計な疑いをかけられぬために」
「疑い? 何故だ」
 怪訝そうだったリル・カーンは、不意に顔を曇らせた。
「母上が、何か良からぬことをしようとしているのか? それで、私に部屋に戻れと?」
 このところ、母のサッピアの動きがおかしいのをリル・カーンは知っていた。
 かつての内乱でも、相当悪辣なことをやってのけた母だった。殺されてもおかしくなかった母を、兄のシャルル=ダ・フールは、情けをもって事実上の幽閉でもって済ませた。それを感謝しなければならないというのに、サッピアはそれすら恨みに思っているようだった。
 リル・カーンは、何度かそれをいさめようとしたものの、サッピアは「すべてはお前の為なのよ」と述べて、聞く耳を持たない。
「今度は、母上は何をしようとされているのだ?」
「そ、それは……」
 ナズィルは言葉を濁す。リル・カーンは、眉根を寄せた。
「よい。私に何も言うなといわれているのだろう?」
 ナズィルは答えない。リル・カーンはため息をつき、彼に背を向けた。
「ナズィルよ、心配ない。あと少しここで涼んだら、すぐに部屋に戻る」
「は、しかし……」
「少し一人で考えたいことがあるのだ。これぐらい好きにさせてくれ。すぐに部屋に戻るから」
 リル・カーンの言葉は、穏やかではあったが、ある程度の強情さを秘めている。ナズィルは、無理に彼を連れ戻すのを諦めて、それでは、と続けた。
「では、わたくしは一足先に戻っております。殿下も、お気がお済になられましたら、すぐに」
「わかっている」
 リル・カーンが答えると、ナズィルが頭を下げて去っていく気配がした。
 一人っきりになって、リル・カーンはため息をついて椅子に座り込んだ。
(兄上がせっかく許してくださったというのに、まだ母上は……)
 母がこれまで行ってきたことを、リル・カーンに進んで報告するものはいなかったが、周囲から漏れ聞くことを継ぎ合わせて、ある程度はわかっているつもりだった。しかし、それが本当だとしたら、母は何と恐ろしいことをしでかしてきたのだろうと、リル・カーンは、時々母が恐ろしくなるのだった。
 彼女が、現在王位についた兄を何度も暗殺しようとしたことも、知っている。しかし、そんな母を兄は許したのだ。本来なら自分もろとも殺されてもおかしくなかったのだが、兄は自分達に情けをかけたのである。
 だが、母はまだリル・カーンを王位につけて、自分が権力を握ることに対して諦めきれない様子だった。そもそも、母にはそうした野望があったのだろうが、今となってはもっとも自分が気に食わないシャルル=ダ・フールが王であることが許せないのだろう。母は、彼を王位から追い落とすことに、何か妄執のようなものを抱いているようだった。
 あの男は恐ろしい男だ。と母は言う。けして近づいてはならない。と。
 彼のことを話す母の瞳には、いつも憎悪が燃え上がっていた。常に彼女は、あの不思議な兄のことを憎んでいる。
(しかし、兄上はきっとよい方です。我々を助けてくださったのだから)
 リル・カーンは、母のそんな表情を見るのが辛かった。
 けれど、リル・カーン自身も、兄王に実際会ったことがなかった。遠くから見たことはあったり、すれ違ったことぐらいはあるが、ほとんど言葉を交わしたこともなかった。彼は兜や仮面で顔を隠していることが多く、その顔立ちすらリル・カーンはまだ知らない。何度か面会を申し入れたが、兄王は遠征後病気がちになったらしく、謝絶されてばかりだった。
 リル・カーンは、それはきっと行動を改めない母に彼が怒りを覚えているのだろうとなんとなく考えていた。だから、兄は自分にあってくださらないのだろうと。
 リル・カーンは、母や兄のことを考えると、なんとなくふさぎこんだ気分になるのだった。
 ふいに、ざ、と足音がして、リル・カーンは頭を上げた。近くに人の気配があった。
 ナズィルだろうか。気がつけば、空はずいぶん暗くなっている。いつのまにか、中庭の向こうの回廊には、一定間隔で吊り下げられたランプに火が入れられ、綺麗に輝いていた。
「ナズィル、すまない。もう部屋に戻るから」
 リル・カーンはそう声をかけて、はっとした。視線の先で人影が揺れている。それは明らかにナズィルより大柄だった。
 かすかな光で、相手の姿が見えた。かなりの長身のがっしりとした体格の男で、黒い布で頭を覆っている。癖が強い長い髪がだらりとそこから垂れ下がっていた。男はひげを生やしているらしく、鋭い眼光とあいまってどこか恐ろしい印象だったが、その顔のつくりは意外にも上品で整っている。見かけたことのない男だった。となると、客人であろうか。それとも。
 思わず警戒したリル・カーンに男は、声をかけてきた。
「おう、すまない。驚かせたな、小僧」
 男がにっと笑ってそう声をかけてくる。その妙に親しみやすい笑顔に、思わずリル・カーンは警戒を緩めた。男は、続けて言った。
「すまんことをした。こんな深いところまで来るつもりはなかったのだが、迷い込んでしまってな。はっはっは」
「そうでしたか」
 となると客人だろうか。サッピアには、時々得たいの知れない客が来ることがあるのだが、この男もそうだろうか。
「この屋敷はどうも狭くてな。俺は体が大きいので、狭い所はあまり好きでないのだ。窮屈だなと思っていたら、ふいに良い風が入ってきたのに誘われて庭に出てきたのだが、案外中庭は広いのだな。思わず開放感のあまり、準備運動がてら散歩していたのだ。そうしたら迷いこんでしまった。あまり深い場所にいかんように言われていたのだが、困ったな」
 男は無邪気にそんなことを口にした。そんな男の手には、長弓が握られていた。握り手のところに装飾があるらしく、キラキラと輝いて見えた。男は、どうもそれを振り回しながら歩いてきたようである。
「準備運動、ですか?」
 リル・カーンが怪訝そうにそうきくと、うむ、と男は素直に頷いた。
「仕事の前に体を動かしておきたくてな。それに、コイツの調整もしておきたかったのだ」
 男は端的に答えると、ぴん、と弦を軽く弾いた。
「何事も準備が大切だからな。しかし、どうやらあまりここで派手なことはしない方がよさそうだな。こんな所に入り込んだのをみられたら、怒られてしまうわ」
 ははは、と笑いながら男は答える。
「しかし、本来大仕事の前は、念入りな準備と確認が大事なことなのだぞ。小僧も覚えておくがよい。きっといつか役に立つぞ」
「ええ」
 人懐っこいところのある男の様子にリル・カーンが笑顔で答えると、不意に向こうの方で誰かの声がした。男はそちらの方に視線を向けた。
 そこには、見覚えのある男が立っていた。確か母に仕えている武官の一人だ。どうやら彼が男を呼んだらしかった。
「で、殿下、まだこちらにいらしたのですか!」
 その声で庭をのぞいたのか、ナズィルが慌てて駆け寄ってきた。
「殿下。お部屋にお戻りなさい」
 ナズィルは、側にいる男と武官に交互に一瞥をくれて、やや慌てながら、しかし優しくリル・カーンの背を押す。
「あ、ああ」
 それに気おされてリル・カーンは、素直に彼に従いながらも、迷い込んできた男のほうをちらりと見た。別れの挨拶をしようと思ったのだが、彼はもう闇にまぎれてしまって、リル・カーンから離れてしまっていた。
 リル・カーンがナズィルにつれられて去った後、そこには男と武官の男が残されていた。
「サギッタリウス。こんなところで何をしている」
 とがめるような武官の口調に、彼は首を振った。
「こんな所に迷い込んでしまったのは失礼した。だが、別に遊んでいたわけではない。俺は、最終調整がしたくて広い場所に出たかったのでな」
 取り立てて悪びれない様子の彼を、武官は不審そうににらみつけた。
「最終調整だと? もう出発の時刻だというのに、何をのんきなことを言っている?」
「おやおや、調整は大切なものだ。特に、今日は大仕事中の大仕事。そんな時に、うっかりと弦が切れてしまったり、思ったとおりに射れなかったりするわけにもいくまい? 体も動かしておく方がよいというものだ。射的大会でも緊張してばかりでは、良い成績は残せんぞ?」
 男は、にやりとする。
「本来、できれば、ここで試射したいところではあるのだが、さすがに怒られると思って遠慮していたのだ。俺は今まで知らんかったのだが、どうも、ここはやんごとなきお方の屋敷のようだからな。あの小僧など只者では――」
 思わせぶりに言葉を濁す男に、武官はきっと彼をにらみつける。
「余計な事を言わんでもよい。貴様は、余計な事情を知る必要はないだろう」
「それもごもっともなことだ。雇い主の都合がどうあろうと、俺には何の関係もないことだからな」
 男は、さらりとそう答える。
 武官は、ふうとため息をつき、不審そうに男を見上げた。
「それにしても、貴様、本当にあの”サギッタリウス”か? 噂のサギッタリウスは、狙ったものは必ず仕留める神業を持つ男だ。準備運動がいる、調整が大切だなどと言っているようで、そんなことで本当に標的を射抜けるのだろうな?」
 疑いの目をむけられて、ふっと、男は目を伏せる。
「貴殿が何を言っているのか理解ができん。他人が俺のことをどう呼んでいるのかは、俺にとってはどうでもよいこと。俺の知ったことではない。だが、射程範囲にあるものなら、俺に射抜けないものはないし、標的は必ず撃ち取る。今までもそうであったし、これからもそうだ」
 男は、そう断言して続けた。
「俺が射抜けないものは、神によって特別に守られたものぐらいだ。そうでなければ、俺がわざと外さない限り、すべて俺の意のままに撃ち抜くことができる」
「ほほう、大した自信だ。それだけの大口は命がけで叩いているのだろうな?」
 武官の高飛車な言葉に、男は笑い声を上げた。
「はっはっは。疑り深いお方だな? まだお疑いなら、少し証拠を見せようか?」
 男は、唇の端をぐいと歪めて笑うと、いきなりさっと後ろに飛びずさった。そして、手に持った弓を持ち替え、そっと矢を箙から取り出し、そのまま、武官に向けて矢を番える。
「き、貴様、何をする!」
「気が変わった。少々試し射ちをさせてもらう」
 さっと顔色を変え、慌てる武官にそう答え、男は弓を構えた。
「おい、な、何を……」
「動くな。手元が狂うと、間違って貴殿の眉間に当たるかもしれん」
 にたりと男は笑う。はっと武官が身をすくめた時、その一瞬、男の目が見開かれた。
 弦が弾かれる音と共に、矢が放たれる。矢は空気を引き裂きながら、武官の肩をかすめ、背後にまっすぐに抜けていった。
 パンと何かが割れるような音がした。武官は慌てて背後を振り返る。回廊の灯火が一つ消えていた。
 吊るされていたガラス製のランプが鎖を射抜かれて落ちて割れ、石畳の上で漏れた油に炎がうつってちらちらと燃えている。
 あっけに取られる武官を尻目に、男はにやりとすると弓を手におさめた。
「余興にしては刺激が強すぎたかな? 震えておられるではないか」
 ぐいと武官の肩に手を置いて、男は彼に視線を投げる。
「さて、これで少しは認めていただけたかな?」
「貴様は……」
 冷や汗を流す武官に向けて、男は無邪気そうにはっはっはと豪快に笑った。
「ああ、これで、ちょうどよい準備運動になった。ご協力感謝する。それでは、持ち場に戻るとしよう」
 男はそういって、武官を置いてさっさと歩き出し、あっという間に闇の中にまぎれていってしまった。
 



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