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笑うムルジム19

「いえ、そんな方は見ておりません」
 居酒屋の娘が、おずおずと答える。綺麗な顔立ちだが、どこか人を拒絶するような空気のジャッキールに少し警戒しているらしい。
 ジャッキールは、短く礼を述べるとそこからすばやく立ち去った。
「そうか、この筋には来ていないようだな」
 ジャッキールは、居酒屋を覗きながら花街を歩いていた。普段こういう場所には寄り付かない彼だが、今日は仕方がない。どこか不穏な空気を持っているおかげで、めったに客引きに捕まらないのはありがたかったが、行けども行けども目的の男の姿が見当たらない。
(おかしいな。奴の懐具合と行動範囲から考えて、このあたりが限度のはず)
 自棄になって廓遊びをするほど、金のある男でもないし、時間的にもこの辺でたむろしている筈だった。
(予想をはずしたか? もっと北の方にいってみようか?)
 ジャッキールが、そう思い始めた時、ふと向こうの方で騒ぎがあるようだった。喧嘩らしいな、といいながら歩いてくる酔っ払いの言葉をききつけて、ジャッキールは慌てて彼らを呼び止めた。
「何か揉め事か?」
「あ、ああ、なんだか知らないが、若い男が数人あそこで喧嘩してるらしいんだよ」
「あの角の向こうか?」
「ああ、そうだよ」
 ジャッキールの風貌に、少しぎょっとしつつも男達がそう答える。ジャッキールは、短く謝辞を告げると、揉め事があるという場所に駆け出した。
 角を曲がると、人だかりが出来ていた。夜であったが、街の明かりで視界は十分に効いた。思いのほか、人が注目しているのは、どうやら相手がそれなりに名うての悪党であり、一人ではないこと。そして、それに対して一人の若造が、意外に押していることが原因のようだった。
「全く、あの馬鹿が」
 ジャッキールは、ため息をつき、人だかりを割って騒ぎの中心へと向かった。
 男達数人に一人が囲まれる形になっている。男達が悪態をつきながら、やや離れつつ、隙をうかがっているのに対し、囲まれている一人の青年は、まだまだ余裕の表情を浮かべていた。おそらく、男達は人数を少し減らしているらしい。すでに戦闘意欲を失ったものがいるようだった。
「どうしたんだよ? それだけか!」
 シャーの方は、ほとんど無傷らしく、おまけに剣も抜いていなかった。男達が短剣を抜いているので、それをあしらう為か、自分も短刀を抜いてはいたが、積極的に使っている気配はない。
「くそっ! コイツ」
 男達には、ややおびえの色が走っていた。
「てめえら、雁首そろえてるわりには大したことないな。そろそろ本気でやろうぜ?」
 シャーは、短剣をぱちりとおさめると、今度は腰の剣に手を伸ばす。男達が身を引いたのがわかる。
「行くぜ!」
 シャーが、剣を抜こうとしたとき、その腕がいきなり強い力で圧迫されたのだった。
「そこまでだ!」
 いきなり腕をつかまれて、シャーは、相手をふりほどこうとした。どうして接近に気づかなかったのだろう、とシャーは思ったが、相手は極力殺気も気配も消していたのだろう。黒服の相手は、闇にまぎれて視界にも入らなかったのだ。
 シャーは、きっと相手をにらんだが、その男の正体を知って驚いた。相手がジャッキールだったのが予想外だったのだろう。ジャッキールは、そんな彼を無視して周りの男達を見た。
「お前達もいい加減にしておけ。遊びでやるとただで済まんぞ」
 いきなり水をさされた形となった男達だが、劣勢だったこと、そして、ジャッキールが、どうもただの人間ではなさそうなことから、及び腰になる。ジャッキールは、腰にいつも大剣を吊るしているので、たとえ軽装だとはいえ、彼に武芸の覚えがあるのは一目でわかった。
「そろそろ役人が来る頃だ。貴様らも、無頼の徒といえ、厄介を起こしたくはなかろう!」
 ジャッキールは、そう追い討ちをかける。
 男達は、ずるずると後ずさる。そして、とうとうなにやら覚えておけと捨て台詞を言って早足で逃げていった。野次馬達は、なんだよ、とやや不満そうな空気を漂わせながら、四散をはじめる。せっかく面白くなりそうだったところに、とんだ邪魔者が入ったものだと考えているらしかった。そして、その思いは、シャーも同じである。
「チッ、邪魔しやがって! いいところだったのに!」
 シャーは、荒々しく吐き捨てて、ジャッキールの手を振り払った。
 ジャッキールは、眉根をひそめる。
「何を無益な争いをしているのだ。力が有り余っているなら、別の所で使え。迷惑だぞ」
「アンタに止められる義理はないぜ。昨日、自分だって好き勝手暴れてたじゃねえか! オレだって今日は、目一杯暴れたいんだよ!」
 シャーは、皮肉っぽく言う。
「だったら、そういう時の俺がどれだけ迷惑な存在かわかっているはずだ。そういう風にならんほうがいいとわかっているだろう?」
 ジャッキールは、至極まじめに正論を吐く、が、今のシャーにはそれすら癇に障る。
「いい子ぶりやがって! それとも、何か? アンタが代わりに相手をしてくれるっていうのかよ?」
「俺はやりたくないが、貴様がそのつもりなら仕方がない」
 ジャッキールは、静かに答えたが、シャーの方は収まらない。ははと笑い声を立てて、ジャッキールから距離をとった。
「ふふん、アンタが相手なら不足はないぜ!」
 シャーは、腰を落としてすばやく剣を抜く。ぎらりと夜の街に刃物の光がきらめいた。
 シャーが剣を抜いたことに、不穏な空気を感じてか、周りの連中が悲鳴を上げて飛びずさった。シャーは、すでに殺気を一杯に放ちながら、ジャッキールをにらみ付けていた。
 ジャッキールは苦笑した。
「衆人環視の中でやるのは好みに合わん。場所を変えるぞ」
「おうよ、好きにしな!」
 シャーが答えるや否や、ジャッキールはさっと身を翻して駆け出す。シャーは、一旦剣をおさめて彼に続いて走り出した。
 

 ジャッキールは、華やかな街を抜け、暗い路地裏に入り込む。シャーは、その後を追いかけていた。おそらく、本気で走れば、シャーの方が足が速いし、ジャッキールが逃げるとは考えてはいなかったが、それにしても彼にしてはよく走る。一体どこでやるつもりなのかとシャーが考え始めた時、ジャッキールはようやく足を止めた。
「さて、ここならいいか」
 ジャッキールの選んだ場所は、昼は市場が開かれている広場である。昼は露天商でごった返す市場も、夜はまったく人気がなく、いっそのこと不気味なほどだ。
 ただ、障害物がないためか、月の光が入りやすく、思ったより夜目がきく場所だった。
「へえ、アンタにしては珍しい場所だな」
 シャーは、息を整えつつきいた。
「珍しい?」
「そうさ。こういう昼間賑やかな場所キライだろ?」
 ジャッキールは、意外にもにやにや笑う。
「俺は、別に自分の好みでこの場所を選んだわけではない」
「じゃあなにさ」
 彼は顔を引きつらせて笑う。
「まだわからんのか? ここはネズミの別荘に程近い場所だ。俺は、貴様を引きずって帰るのが面倒だから近くまでおびき寄せただけの話だ」
 シャーは、少しむっとする。どうやらジャッキールは自分を挑発しているらしい。シャーは、皮肉っぽく笑い返す。
「そりゃあありがたいねえ。俺もアンタをうっかり倒した時に面倒がないほうがいいぜ」
「そうか。お互いの利害が一致したものだな」
 ジャッキールは、平然とそう受け答える。
「それじゃあ、はじめようぜ!」
 シャーは、だっと地面を蹴った。駆け出すうちに右手で柄を握り締め、刃を抜く。走りこむ間にもジャッキールは、彫像のように動かずに仁王立ちのままだ。
 それでも気をつけねばならない。相手はほかならぬジャッキールなのだから。
 シャーは、小手先調べに抜いた剣をそのまま斜めに走らせる。そこで初めて棒立ちのジャッキールの右手が動くのを見た。
 金属的なかたい衝撃を手の平に感じ、シャーは用心して足を踏み込んだ勢いで後退した。
 が、てっきり来ると思っていた追撃が来ない。それどころか、ジャッキールは腰の剣に手も触れていなかったのだ。彼の手には、確かに光るものが握られてはいたものの、それは護身用の短剣で、彼にとっては玩具のようなものだった。
 ぷらぷらと力もいれずに揺れている白刃に、シャーは、頭に血が上るのを感じていた。
 ジャッキールは、短剣を軽く抜いてシャーをあしらっただけだったのである。もちろん、それは彼が本気でないことを意味していた。
「てめえ、ジャッキール!」 
 シャーは、あからさまにいらだった。
「ふざけんなよ!」
 シャーが吼えるが、ジャッキールは、短剣を右手にぶらさげたまま、腕を組んだままニヤニヤしていた。
「オレを相手にその短剣で相手しようってつもりかよ! 抜け!」
 ジャッキールは、あからさまに嘲笑を浮かべた。
「ふっ、何故、俺が酔っ払い風情に剣を抜かねばならんのだ?」
「何だと?」
 シャーは、ひくりと頬を引きつらせた。
「てめえ、馬鹿にするなよ! オレを相手に手を抜くとどうなるかわかってるだろう!」
 ジャッキールは自分の腕ぐらい知っているはずだ。彼のほうが経験も多いし、力も強いが、それでも、シャーとて、こういう場においてジャッキールの命を奪える機会は今まで何度でもあったのである。シャーは、たとえ彼でも本気でかからなければならない危険な相手だったはずであるし、彼自身もそう認めていたのではなかったのか。
「抜け、ジャッキール!」
「普段の貴様ならいざ知らず、今の貴様如きに抜く剣など持ち合わせておらん」
 ジャッキールは、あざ笑うように口の端をゆがめた。
「本来なら素手でやりたいところなのだが、まァ、一応短剣は抜いておいてやる。一応、相手が貴様だから、顔を立ててそう”やってやる”のだ。わかるか?」
 くく、と短く笑って彼は顎をしゃくった。
「正直、貴様みたいな飲んだくれの餓鬼なんぞ、俺が刃を向ける価値もないんだがな?」
 ジャッキールのあからさまな挑発だった。
 普段のシャーならけしてそれに乗ることはなかったかもしれない。ジャッキールの挑発行為は、ただ単に敵を嘲りからかっているのでなく、明らかに攻撃を誘う目的なのだ。特に彼が執拗に挑発を繰り返すのには、意味があるはずだった。
 が、今のシャーは、そんな冷静な彼ではなかった。元から苛立っていたのに、この火に油を注ぐようなジャッキールの言葉をきいて逆上しそうなほどだった。
「ああ、そうかよ!」
 シャーは、怒りに任せて答えた。
「それなら、オレは本気で行くぜ! 死んでも後悔するなよ!」
「貴様にできるものならな。期待しているぞ」
「行くぜ!」
 ジャッキールが言葉をいい終わらないうちに、シャーの足は地を蹴っていた。
 


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