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笑うムルジム18


 誰もいなくなった部屋の中で、リーフィは一人ため息をついていた。
 まだシャーの手当てをしたたらいが、そのまま残っている。立ち上っていた湯気は見えなくなっていた。もう冷めてしまったのだろう。
 それを片付けなければならなかったが、なんとなくぼんやりとそのまますごしてしまっていた。ランプのともし火がゆらゆら揺れ、油の燃える音が耳についた。
 彼女は一人暮らしをしていたから、部屋はいつもの部屋だった。それなのに、急になにもなくなって、がらんとしてしまったようで、寂しい感じがした。彼女らしくもなく心細い気持ちになり、夜の寒さすら感じられた。
 そうしてどれだけ経ったのか、不意に扉をとんとんと叩く音でリーフィは顔を上げた。 
 誰だろう。シャーが戻ってきたのだろうか。
 リーフィは慌てて扉に駆け寄り、扉を開けた。
 そこには思わぬ人物が立っている。彼は、自分が名乗りもしないうちに扉があいて、血相を変えたリーフィが立っているのを見て、少しあっけに取られた様子だった。
 リーフィも、少しは驚いていた。彼が自分の家をと訪れるのは、想定していなかったのだ。
「ジャッキールさん?」
「すまない。夜分に恐れ入る」
 闇の中にたたずむジャッキールは、わずかに表情を緩めた。軽装のジャッキールは、それでもやはり闇夜の似合う危険な空気を漂わせてはいたものの、なんとなく穏やかだった。
 リーフィは、礼節にうるさいカタブツのジャッキールが、夜に一人で自分の家を訪れたことが気がかりだった。けれど、見たとおりの軽装であるし、彼の表情からして、何かが起こったわけでもないらしい。もし、何か事件が起こっているのなら、ジャッキールは、もっとかたい表情をしているはずだった。
 けれど、だとしたら、一体何だろう。リーフィは、怪訝に思った。
「どうしたの?」
「いや、こんな宵に訪れるのもぶしつけかと思ったのだが、その、諸事情があり、飯を作りすぎてしまったので、……食べていただけないかと」
 そういって、ジャッキールは、手に提げていた包みを持ち上げた。リーフィは、少しきょとんとしたが、その意味を理解して微笑んだ。
「それは嬉しいわ。今日、私、まだご飯を作っていなかったから。でも、ジャッキールさんが作ったの?」
「ん、いや、まあ、その、ちょっと、諸事情があってだな」
 ジャッキールは照れたのか、少し慌てた様子で視線をはずす。ジャッキールにそういう趣味があるのは意外であったが、リーフィにはそのことがほほえましかった。
「ありがとう、ジャッキールさん」
 リーフィは、そう答えてジャッキールに中に入るようにすすめようとしたが、彼のほうが先に口を開いた。
「ところで、だが、ここに先ほどアズラーッド……、いや、シャーが来なかったか?」
 リーフィは、はっとする。
 その表情で、ジャッキールには何が起こったのかわかったのだろうか。ジャッキールは、視線をさげて苦笑した。
「やはり、来ていたのだな?」
 リーフィは、少しうつむいて、意を決したように顔を上げた。
「あのね、ジャッキールさん、私……」
 ジャッキールは、片手をあげてリーフィの言葉を制止する。
「いや。それ以上話す必要はない。大体予想がついている」
「けれど、私……、シャーを傷つけてしまったのでないかと思うの」
 ジャッキールの声は思いのほか優しかった。
「気にすることはない」
「けれど」
「別にリーフィさんが悪いわけではないのだ。あの男が、ああ見えて少し繊細なだけだ。だが、繊細すぎるのも厄介だな」
 ジャッキールは苦笑する。
「明日、奴の方から話をさせるようにしておく。今日は安心して休んで欲しい」
「ジャッキールさん」
「それもあって、今日はこれをもってきたのだ」
 ジャッキールは、リーフィに料理の入った包みを手渡した。
「それでは、私はこれでお暇させてもらう」
「あら、もう帰ってしまうの? せっかくお料理をいただいたのだし……」
 玄関口で追い返すようなことは悪い、とばかり、リーフィは、彼を引き止めるが、ジャッキールは首を振った。
「いや、気にすることはない。このままいると夜も遅くなってしまうし……、それと」
 ジャッキールは、意味ありげに微笑するとこう付け加えた。
「実は、今夜は少し野暮用があるのでな」
 そうしてリーフィに会釈すると、ジャッキールは背を向けた。去っていこうとする彼に、リーフィは、そっと声をかける。
「ありがとう、ジャッキールさん」
 一瞬、ジャッキールは立ち止まり、手を上げた。そして、彼の姿は闇の中に見えなくなっていった。
 リーフィは、玄関口でしばらく見えなくなった彼を見送っていた。



 酒場の中は少しざわついていた。
 都の歓楽街を少し通り過ぎた所、少し質のよくない客の多い酒場だった。
 女将は、今日もろくな客のいない酒場を見渡しながら、酒をついで回っていた。毎晩変わらない風景だ。客には少しの入れ替わりはあるものの、ほとんどが常連だった。毎日同じ顔ぶれだ。
 が、その日は、珍しく目に付く客がいた。その男は見慣れない客で、きているものはそれなりに上等ではあったが、到底金のありそうな感じでもなかった。まだ若いが、なんとなく他の客と雰囲気が違っていた。
 男は一人きりでやってきたのか、連れもおらずにひたすら一人で飲んでいた。 すでにずいぶん深酒をしている風だった。
 女将は、少し警戒した。なんとなく不穏な空気を漂わせる男だったので、このまま無銭飲食するのでないかと不安になったのだ。
 その時、その男と目が合った。ぎょろっとした大きな目で、あまり目つきがよくない。ひょろりと痩せていて強風で吹き飛ばされそうな体型だったが、今日の彼はそんなひ弱な男には見えなかった。すでに酔っ払っている彼だったが、その身には、危うげな殺気を放っていた。
「代わりをもってきてくれねえか」
 男の周りには、すでに何本か瓶が転がっていた。女将は、居丈高な態度を作って男に近づいた。
「それはいいけど、ずいぶん飲んでるね?」
「いいだろう。オレの勝手さ」
 男は不機嫌に言い捨てる。
「お金は持ってるのかい?」
「うるせえな。先に渡せば満足かよ?」
 男はぶっきらぼうに言うと、懐から財布を取り出して中の硬貨をぶちまける。
「これで出せるだけもってこいっつってんだよ」
 男は顔をあげて女将にそういった。 一瞬、ギラリとにらんだ視線が鋭くて、女将は少しぎょっとする。
「わ、わかったよ」
 女将は、慌てて硬貨をかき集めると、そそくさと席を離れていった。
 男、シャーは、残り少なくなった杯の酒を飲み干してしまって、ため息をついた。
 酒には強い彼だったが、今日はそれでもかなり飲んでいる。少し目の前がゆらゆらしていたが、あの時胸を焦げ付かせたねっとりとした炎はまだくすぶっていた。まるで沸騰した金属のような、ねっとりとへばりつくような業火が、いまだに彼を苛んでいた。
 理由はわかっているのだ。わかっているから、余計に、苦しみは消えない。むしろ、吐き気がする。
(聞かなければよかった)
 シャーは、ぐらぐらする視界の中、一点を睨みつけていた。
 向こうで酌女を抱いて馬鹿騒ぎしている客がいた。荒々しい凶暴な感情を抱えて、シャーはこぶしを握り締めた。そうでもしないと、あいつらを目の前の空いた酒瓶で殴り飛ばしてしまいそうだった。
 女将にいいつけられたのか、女が彼の前に酒瓶を置いていく。愛想笑いでもしようとしたらしかったが、彼の表情をみておびえているのか、ぎこちなかった。
 そんな反応を見せられるのは別に初めてではなかった。かつて、自分もそんな風に、恐がられる存在だったことがある。そのことを、そそくさと去っていく彼女を見ながら、シャーは酒瓶を手にとって思い出していた。
(そうだよ。オレだっていつまで経っても、そうそう変わっちゃいねえんだ)
 シャーのイライラは募っていた。ひたすら酒を流し込んでいないと、自分の中の凶暴な獣に歯止めが利かなくなりそうだ。正直、この感情をどうしていいのかわからない。持て余していた。
 相変わらず、男達が騒いでいる。その声が妙に癇に障るのだ。  
「チッ、うるせえな。騒ぐならよそでやれよ。馬鹿どもが!」
 ぼそりとシャーは吐き捨てた。
 と、その声を聞きとがめたのか、近くにいた客がシャーを睨む。シャーは気づいてもいなかったが、どうやら騒いでいる客と彼らは同じ集団だったらしい。
「なんだ? 何か言ったか?」
 屈強な男達が数名立ち上がって、シャーの周りを囲んだ。今日のシャーのまとう空気には危険なものはあったが、シャーはシャーである。背丈はあるが痩せっぽちで、それほどの貫禄もない。目つきはよくなかったが、基本的にはそんなに強そうな見た目ではない。元から絡まれやすい彼の体質は、ここにきても変わるものではない。
「兄貴が楽しそうに酒飲んでるのに、何か文句でもあるのかよ?」
 男に凄まれて、シャーは、口をゆがめて笑った。
「馬鹿騒ぎすんなって言ったのさ」 
「何だと! お前、兄貴を知らねえのか! 兄貴は……」
「そんな奴しらねえなあ!」
「てめえ!」
 生意気な口を叩いた所で、胸倉をつかまれた。 
「あぁ? やる気か?」
 いつもの彼なら、余計な争いを避けて逃げる所だが、今日のシャーは、余計な争いがしたくて仕方がなかった。シャーは、男を下から睨みあげる。その目に、一瞬男の手が緩んだ。シャーは、手を振り払って立ち上がる。
「この野郎……」
 酒場の客のほとんどが彼らのほうに注目していた。その半数以上は、二つ名があるらしいナントカの兄貴の身内なのだろう。
 シャーは、いっそのこと都合よく思っていた。シャーは、そばに立てかけていた剣を腰におさめながらにやりとした。
「オレは、今日は機嫌が悪いんだ。手が滑って殺しちまっても文句言うなよ? 表出な!」

 


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