一覧 戻る 進む 笑うムルジム17 室内は、静かだった。 リーフィはたらいにお湯を張って、手ぬぐいを絞っている。その水滴の落ちる音が、耳に痛く響くほどの静けさだった。 リーフィは、いつも無口だ。シャーから話しかければいいだけのことだった。それなのに、シャーは、何故かいつもの調子で彼女に話しかけられなかったのだ。 「痛くない?」 ぼんやりと彼女の所作を見つめていたシャーは、彼女に聞かれてようやく我に返った。ちょうど、リーフィが手ぬぐいを傷口に当てて血をぬぐってくれていた所だった。彼が予想していたとおり、傷は深いものではない。 「ん、あ、ああ、大丈夫」 慌ててそう答えると、リーフィが少しだけ安堵したような顔になった気がした。 いっそのこと、いつもの調子で話しかけようか。本当は、色々楽しい話をしにきたはずなのに――。 シャーがためらっているうちに、リーフィは、傷口に綺麗な布を当てて包帯を巻きおわってしまう。 「シャー、気づいていたんでしょう?」 いきなり、そう話しかけられて、シャーはどきりとした。 「え、な、何が……」 リーフィは、普段とさほど変わらない表情で続ける。 「私が、ベリレル、ベイルを探していたこと」 シャーは即答できずに、少しためらってから頷いた。 「オレが、花街で見かけたのはやっぱりリーフィちゃんだったんだね?」 「ええ。……私も、シャーの姿を見かけていたの」 「ああ……」 シャーは、嘆息とも相槌ともつかない吐息を漏らした。 再び、室内が静かになってしまう。沈黙が、シャーの胸の中の鉛のように重いものを、どんどん膨らませているようだった。 「シャー、あのね」 リーフィは、言葉を選びながら話しかけてきた。 「あの人、ベイルは……、さっきね」 リーフィは、少し微笑んでいった。 「私に別れの言葉を言いに来たの」 「別れの、言葉……?」 意外な言葉に、シャーは顔を上げて、リーフィを見やった。 彼女の瞳の奥はいつでも揺るがない。それは彼女が、嘘をついていないということでもあった。 「この仕事が終わったら、遠くに行くから。お前には迷惑をかけたが、もう会わないだろうって。あの人なりに、一応気にしてくれていたのかしら……」 リーフィは、少し寂しげに笑った。 「けれど、あの人がああいうということは、きっと今の仕事はとても危険な仕事なのでしょうね」 シャーは、無言でリーフィを見たあと、重く切り出す。 「リーフィちゃんは、……あいつを助けてあげたいんだ」 「……そう、ね」 その言葉は、シャーに刃物のように突き刺さる。それを知っているのか、リーフィは、優しく続けた。 「貴方に嘘はつけないわ。貴方なら、私の嘘を見破ってしまうもの。だから、私、シャーには本当のことをいうわね。本当は、頼めるものなら、シャーに、あの人を助けてくれるようお願いしたかったわ。でも、そういうわけにもいかないのもわかっていたから、貴方に黙っていたの……。だって、そうでしょう? 貴方のおかげであの人と別れられたのだもの。今更あの人を助けてなんて身勝手なお願いがすぎるわね」 シャーは、しばらく黙り込んでいた。リーフィは、シャーの返事を待っているのか、静かに彼を見つめている。それに耐えかねたように、ようやく彼は口を開いた。 「……どうしてさ」 シャーは、視線をはずしてきいた。 「どうして、あんな奴を助けるなんていうのさ?」 不機嫌に吐き捨てるシャーに、リーフィは目を細めて言った。 「側にいたあの子のためよ」 「あの、新しい恋人の?」 その言葉は、少し意外でシャーは、目をわずかに見開いた。リーフィは、かすかに頷く。 「シャー、……あの人は、多分今は少しだけ変わろうとしているみたいだわ。それは多分、あの子のためでもあって、あの子の影響もあるのだと思うのよ。昔のあの人なら、私に今更謝りになんてこなかったわ」 「それは、……」 「シャー……」 言いかけるシャーの言葉をゆっくりとさえぎってリーフィは続ける。 「あの人は、殺されても仕方がない酷い男かもしれないわ。でも、あの人が殺されたらかわいそうなのは、あのひとを変えようとして頑張っているあの子よ。私は、あの人の行方を探しているうちに、あの子の境遇を知ったわ。……そして、あの子を助けてあげたいと思った」 「あんな男、そんな簡単に変わったりしないよ」 シャーは、冷たく吐き捨てた。その表情は硬い。 「ダメな奴は、どれだけ経ってもダメさ。そんな簡単には更生しないよ」 「わかっているわ。けれど、もう一度機会を与えてあげて」 リーフィが優しく首を振る。 「リーフィちゃん……」 「あの人の傍にいるのは私ではありえないわ。あの子のおかげであのひとがまともになるならそれは素晴らしいことだと思うの……」 リーフィの視線が痛くて、シャーは目をそらす。胸の中の焦げ付くような感情が、抑えきれなくなりそうで辛かった。胸の奥の鉛がドロドロに溶けて煮えたぎり、じりじり体を焦がしているように苦しかった。 そんな彼の状況を知ってか知らずか、リーフィは話を続ける。 「私が、あの人のために何かするのはこれが最後だわ。シャー、私が彼を今回、探してまで助けようと思ったのは、これで過去を清算できると思っていたからかもしれないの」 シャーは、そろりとリーフィを見上げた。 「過去、って……」 「ええ。過去。……シャー、私は、あなたにはすべて知っておいてもらいたいの。軽蔑されるかもしれないけれど、私が以前どんなことをしていたか。私のこと、穢れた女だと思われるかもしれないけれど、シャーには嘘はつきたくないの」 知りたくないと思ったが、シャーはそのことを口に出来なかった。 「シャーは薄々感づいているんでしょう? 私、以前は花街の妓楼にいたのよ」 リーフィは、ためらいなくそう話した。 「私は恵まれた立場だったから、無理に春を売ったり、過酷なことをさせられたりすることはなかったけれど、自由はなかったわ。年季が明けると同時に、いくつか申し込みがきた相手に身請けされるのが決まりだったのね」 「その相手があいつなのかい」 シャーは、ぼんやりと呟いた。 「ええ。何人か候補がいた中で、くじがひかれたわ。そして、私が嫁ぐことになったのが彼だったの。その頃の彼は羽振りがよかったわ。性格は相変わらずいい加減で遊んでばかりだったけれど、その頃は余裕があったからやさしかった。彼は貴族の息子だったの」 リーフィは、眉根をひそめて目を伏せる。 「けれど、この間の内乱に巻き込まれて、彼の家は借金塗れで急に没落したわ」 「内乱?」 シャーは、そう反芻して、少し興奮した様子できいた。 「まさか、王位継承の時のかい?」 「ええ、今の王様に変わった時に、王室が揉めたときの内乱のね。彼の家は、何か別の王子様を推していて、内乱に積極的にかかわっていたわ。今の王様は心優しいお方だから、粛清は行わなかったけれど、内乱に加担したものに対しては、領地の没収や、身分の降格などで対応したの。シャーも知っていると思うけれど」 「あ、あ、ああ……」 シャーは、呆然としたまま頷いた。 「だから、彼の家は火の車になってしまった。でも、彼は、でも、以前の生活を止めることができなくて、賭けごと三昧だったわ。もともと素行のいい人じゃなかったから、どんどん堕ちていって、いつしか、ゴロツキの真似事をしだすようになったわ。そうして、私との婚約の話は、準備をしていた結婚式の中止とともに破談になったの」 リーフィは、シャーをまっすぐに見て話した。相変わらず、彼女の感情表現は薄く、そこからなにかを読み取るのは至難の業だった。 「けれど、しばらくは彼と一緒にいるつもりだったわ。年季があけて婚約して出て行った直後に、そんな状態になったから、私にはいくところがなかったし……。けれどね、彼は、きらびやかな世界で見た私のことをみていたの。実際に手に入れた私が、人形のようなつまらない女だと知った彼は、私に対する興味がすぐに失せていったわ。やがて、彼は私の元には寄り付かず、来たと思ったら私にお金をせびるようになっていった。……私は、それで彼の元を離れて、酒場で働くようになったんだけれど、彼のお金の無心は続いたわね。お前を手に入れるのにずいぶん金がかかったんだから、今、それを返せ、といわれたの。でも、それは本当のことだもの。私は、彼に自由を買ってもらったようなものだったの。だから、お金を渡していたわ。彼の借金を背負うようになったのもそのせいだったの」 「リーフィちゃん……」 シャーは、苦しげにぽつりと言った。もう限界だった。胸の内が焼け焦げてしまうように苦しくて、もう我慢できない。 「リーフィちゃんは、あいつのこと、好きだった、の?」 苦しげに吐きだした言葉の返事を聞くのが恐かった。このまま、飛び出して外に逃げてしまいたい。けれど、リーフィの静かな視線が、シャーをそこにはりつけていた。 気まずい緊張感の中、リーフィは、表情の上では何の感情も表さなかった。ただ、彼女は少し考えて、ゆっくりと首を振った。 「わからないわ」 リーフィは、そっと続ける。 「彼との婚約の話はね、私の身分では断ることはできないものだったわ。外に出るには誰かにもらわれていかなければならない。選択肢はなかったもの。でも、彼のことを嫌いだったわけではないの。私は、私なりに、彼と幸せな結婚が出来ればと思ったわ。けれど、彼が本当に好きだったのかどうかは、今となってはわからない。……私は、だって、今とても幸せだもの。裕福じゃないけれど、自由に何でも自分で出来る。花街にいたときより、彼といたときよりも、今の私は幸せなのよ。シャー、私は、結果的に彼を利用したのかもしれないわ。私が、閉じられた世界から出る為に」 シャーは、はっと顔を上げた。リーフィが、少し悲しげな表情をしている気がして、シャーは、急に胸が締め付けられるような気がした。 自分は、言ってはいけないことをリーフィに言わせたのではないだろうか。そんな気がした。 「私は、だから彼に罪悪感を持っていたの。だから、彼の言いなりになるのは、仕方がないとおもったわ。これも運命なのだろうって。だから、それに逆らっても仕方がないと思っていたの。どこかであきらめていたのね」 けれどね、とリーフィは言って、優しくシャーの手をとった。どきりとして顔をあげると、リーフィのまっすぐな視線とぶつかった。 「けれど、シャー、私は貴方と出会ってから変われたと思っているのよ」 意味がわからずリーフィを見つめると、彼女は微笑んで続けた。 「今まで、流されて生きればいいと思っていたけれど、貴方と会ってから、そうじゃいけないと思ったの。自分の運命は自分で切り開かなければいけないって、私に教えてくれたのはあなたなのよ」 シャーは、返答できずに彼女を呆然と見つめていた。 「だから、私は誰の力も借りないで、過去と決着をつけるために、あの人を助けようと思ったの。それで、私は、新しい自分に生まれ変われるのではないかと思ったの」 「リーフィちゃん」 「だからね、シャー、私は、本当に貴方に感謝しているの」 リーフィは、珍しくやわらかく微笑んでいる。その瞳には、自分に対する信頼があふれている。 「オレは……」 その顔を見つめていたシャーは、反射的に彼女の手を振り払って引き下がった。 「シャー?」 怯えたように立ち上がって後ずさるシャーに、リーフィは首をかしげる。 「そ、そんなこと、大きな誤解さ。オ、オレは、リーフィちゃんの言うほど立派な男じゃないよ!」 シャーは、震える唇でそう告げる。もう一時もここにいられない。リーフィの視線に晒されたくなかった。 「オレは、もっとずっと屑野郎なんだよ!」 シャーはそういい捨てて扉に手をかけると、身を翻して夜の闇に走り出した。リーフィが慌てて外に出て彼の名を呼んだ気配がしたが、シャーは振り返らなかった。 相変わらず、焼け付くように胸が苦しい。シャーは、それを紛らわせようとひたすら暗い闇の中に駆け込んでいった。 一覧 戻る 進む |