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笑うムルジム5
 
「ジャッキール!」
 シャーは、慌てて飛びずさった。反射的に剣の柄に手が伸びてしまう。
「なんだ、貴様か」
 ジャッキールのほうは、シャーの大げさな反応に多少困惑気味だったが、相手がシャーだとわかったせいか、少しほっとしたようである。
「いきなり騒ぐから何事かと思ったではないか。もう日が落ちているのだから、迷惑だ」
 あのなあ。シャーはため息をついた。
「何事って、あんた、何してるんだよ。こんなところで」
「何といって、俺は銭湯に行った帰りなのだ」
 ジャッキールはまだ困っているようだ。シャーは瞬きして、ようやく胸をなでおろす。どうやら、今日はジャッキールは正気らしい。夜に出会うとどうなのかわからないので、余計にびっくりしてしまうのだ。少なくとも、夜間のジャッキールにはいいイメージがない。夜、特に月の夜は、彼の血が逆流しやすいときなのだ。
 よく見れば、今日のジャッキールはいつものきっちりとした詰襟の武官風の上着とマントではなく、色こそ黒っぽいが軽い素材で出来たチュニックのような上着に長ズボンといったいでたちで、短剣だけを腰に下げていた。彼が普段持ち歩いている凶器は家においてきているようである。手ぬぐいらしきものが、大事そうに抱えている桶からのぞいていた。石鹸ももっていたから、彼の申告はうそではなさそうだった。
 それだけでも、ジャッキールの危険性は随分と下がるので、シャーはますます安心した。頭に血が上っている時は、超一級の危険人物だが、普段のジャッキールはどちらかというと大人しくて常識的な人間の部類にははいるのだ。
「ふーん、つくづく綺麗好きだね、ダンナ」
「べつに普通のことだろう。ここは水も豊富だから、湯を張った風呂があるのがよい。蒸し風呂でもよいが、やはり浸かるほうの風呂もあるとな。ここにはいい温泉もあるし、おまけに近くに質のよい石鹸の名産地もあるので、本当に住みやすいことこの上ない」
「ふ、ふーん。それで仕事もないのに住み着いてるんだな」
 シャーは呆れ気味にいった。今、ここでジャッキール向けの仕事を探すのは非常に困難だ。おまけに、ジャッキールは、某暗殺計画にも一役買っていたので、余計に仕事が見つからないはずなのである。だというのに、恐らく内職か何かしながら、王都でいまだにぼんやり暮らしている様子のジャッキールを見ると、何か理由があるのだろうなとは思っていたが。
「でも、遅い時間じゃんか。昼にくればいいのに」
「あまり人が多い時間に来ると、周りもそうだが、特に子供が怖がるのでそれはそれで気が引けるしな。この時間にくるものは、みんな顔見知りなので、気が楽なのだ」
(そりゃまあ、傷だらけでちょっと危ない雰囲気のがいたら、怖いだろうけどさ)
 シャーは、案外神経質なジャッキールの様子にため息をついた。この男は、ちょっと見掛け倒しのような一面がある。とはいえ、本当に見掛け倒しだと思って舐めていると、恐ろしい目にあうのも事実だったが。
 そんなことに思いをはせていると、ジャッキールが話を変えた。
「ところで、貴様はこんなところで何をしている。遊んだ帰りにしては少し早いし、酒を飲んでいるようには見えないがな」
 シャーは、ぱちんと指を鳴らした。
「ああ、そうそう。いいところに気がついたね、ダンナ。実は、ちょっと困ってるんだよぉ」
 シャーがなれなれしく近づくと、ジャッキールは片眉をひくりとひそめた。
「金なら貸さんぞ。貸すほどももっていない」
「金の無心じゃないってば。いやだなあ。大きな誤解だよ」
「それでは、一体何のようなのだ」
「ちょっと困ってるっていったじゃない。ねえ、ちょいとその辺で軽く飲んだり食べたりしながらちょいちょいと相談を」
「どうせ俺がおごるのだろう」
「いーじゃん。この前助けたでしょ。それぐらいお願いしてもとかいいたいとこだけど、今日は、ちょっとアテがあるんだよ」
 シャーはにんまり笑った。
 そうだ。ここでダンナを出汁にしてゼダの金で酒を飲んでやれ。それなら、シャーのちっぽけなプライドも大義名分を得ておさまりがつくというものだった。
 ジャッキールは、少し眉根を寄せて考えていたが、結局普段の彼は意外に善良なので、シャーに相談と頼まれて断ることはなかった。シャーはそのままジャッキールを連れて、適当な飲み屋に足を運んだのだった。



 不思議とシャーは、ゼダに頼るのは嫌だが、ジャッキールに頼るのは平気である。年齢の違いと性格の違いもあるのかもしれないが、正直、シャーがジャッキールに一目置いていることもあるのかもしれない。なんにせよ、正気のときの彼は説教臭いのが玉に瑕だが、案外よい相談相手になるのだった。
 シャーは、あまり高級そうな店が好きでなく、どちらかというと場末の雰囲気漂う店が好きだ。そちらのほうが気を遣わないので、ゆうゆうと入り浸れることもある。今日もそういう酒場を選んだ。といっても、あまり汚いところだと、きれい好きのジャッキールが嫌がりそうなので、シャーとしては少しいいほうの酒場を選んだつもりではあったが。
酒場はそれなりに人がいてざわついてはいたが、ジャッキールが嫌がりそうな馬鹿騒ぎするような場所でもなかった。人々は思い思い、自分の世界に浸っているようである。シャーもあえてそういう場所を選んだのだが、ちょうど何か相談事をするには便利なところだった。
 シャーはジャッキールと向かい合わせに酒を頼んで、ゆったりと座っているところだった。しばらくして運ばれてきたのは、つまみのハムと野菜の煮込んだもの、スープとパンだったが、ジャッキールもどうやら軽く食事はしているようなので、それで酒があればちょうどいいぐらいである。
 ジャッキールに何事か相談するのは、別にいやではないシャーなのだが、こういう状況を客観的にみるとなんとなく珍妙だった。ジャッキールとは何度か戦った仲だし、おそらくジャッキールは戦う理由さえあれば、シャーに襲い掛かってくるだろう。そういう相手と向かい合わせに酒を飲みながら、困ったことを相談している自分に気づいたとき、シャーはなんとなく思わず苦笑いしてしまうのだ。
 実際、戦闘中は、全身の血が逆流したかのような狂気に突き動かされているジャッキールだったが、今は静かで実に穏やかな男だった。狂気の片鱗は体の隅々には残っていて、それが他人を近づかせないような危険な気配を彼に与えているのだが、それでも、普段の彼はむしろ生気が抜けているようなところがあって、かなり脱力したような、無気力なところがあった。
 ただ、もっともこれはあくまでそう「見えるだけ」で、ジャッキールのやつは案外血の気が多いから、不用意なことを言うと、一気に火がついてしまいかねないから、油断は禁物ではあるが。
 とはいえ、戦場での彼の姿を知っていると、普段の彼の姿に何となく肩透かしを食らったような気分になるものだった。
「なるほど。事情はわかったが」
 一通り話終えた後、ジャッキールは、初めて口を開いてそういった。
「それで、リーフィさんにいいかがりをつけた女を探っていた、と」
「ああ、そうだよ。でも、俺はあの子に嫌われちゃったからさ、直接話はきけないしさ」
 シャーは、塩味のきいた羊肉のハムをつまんで口に投げ込みながら言った。ふむ、とジャッキールは首をかしげる。
「それで、あのネズミ青年に協力してもらったわけだな?」
(ネズミ青年……。コイツからみても、ゼダの奴はやっぱりネズミに見えるんだ)
 シャーは、自分のつけたあだ名の的確さに思わずほくそえみつつ、そういえば、あの男、戦士としては小柄だが、一般的に見ればそんなにちびでもないくせに、どうしてネズミのイメージがあるのだろうと不意に疑問に思った。あの童顔と、性格のかわいくなさがそう思わせるのだろうか。
「ああ。でも、あいつでも聞き出すのは時間がかかりそうなんだ。俺も同席してたんだけど、正体がばれちまいそうだし、奴に任せようかと思ってるんだけど」
 ジャッキールは唸って困った顔になる。
「ふむ。しかし、俺にそういうことを相談されても力にはなれんぞ。ネズミ青年で時間のかかるようなことを、俺が聞きだせるわけがない」
「わかってますよ、ダンナ。ダンナが女の子苦手なのは知ってるってば」
「だったら、俺に何を相談したいというのだ?」
 シャーは、またハムをつまみまながら、酒をちろりと舐めた。猫のようにだらりとした姿勢でひざに片ひじをついて、シャーはジャッキールを見やる。
「あんたにききたいのは、そのこがぽろっともらした人間の名前さ」
「名前?」
 ジャッキールが眉をひそめた。
「アンタは、仕事柄結構そういう裏方面の人に詳しいんじゃないかとおもうんだけどさ。名前知ってないかなーって」
「確かに、ラゲイラのところにいたときはそこそこ詳しかったが、今はあまり情報が入ってこん。俺はごろつきどもの用心棒はせんことにしているので、そういう方面のうわさは直接入ってこんのだ」
「確かにヤクザ連中にゃ、ダンナはちと荷が重いしな」
 シャーは冗談めかして言った。実際、ジャッキールを扱うのは至極難しい。時に発作的に凶暴になる彼なので、雇う方の度量も広くなければいけないのである。自覚はあるので、ジャッキールはどこか自嘲的だ。苦く口の端で笑いながら、ゆったりと杯に口をつけた。
「だから、期待せんほうがいい。きくだけ無駄かもしれん」
「別に何も情報がなくってもいいさ。まだ調べ始めてすぐだし、ぜんぜん情報がねえもんだから、ダメモトだよ」
「わかった。して、その名はなんと言うのだ?」
「ムルジム」
 ジャッキールが一瞬目を見開いたのがわかった。シャーはそれを、杯に口をつけながら、何気ないそぶりで注意深く観察していた。
「ムルジム、さ。その女の子のカレシが狙っている誰かさんの名前」


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このページにしおりを挟む 背景:空色地図 -Sorairo no Chizu-様からお借りしました。