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笑うムルジム6
 
「ムルジム?」
 ジャッキールの顔に、わずかな動揺が走っている。シャーはすかさずきいた。
「知ってるのかい?」
「いや……」
 ジャッキールは、明らかに何か知っているようだった。だが、その顔をみると、あまり話したくないということもわかる。
「知ってるなら話してくれなきゃ。大切なことなんだよ」
 シャーがそう促すが、ジャッキールは唸って頬をかきやった。
「しかし、俺の知るムルジムは、ここでそんなに話題になるわけがないのでな」
「わかんないじゃないか」
「いや、ムルジムという人間はすでに過去の人間だからな」
「死んでるとか? そういうこと?」
「まあ、そのようなことかな」
 シャーが尋ねると、ジャッキールは含み笑いをした。なにやら事情はありそうだが、そのことについて余り話したくなさそうである。だが、彼がそう断言しているからには、それなりに信憑性がありそうだったので、シャーはそれ以上追及しないことにした。
「それじゃ、違うムルジムさんってことだろうけど、それには覚えがないんだよな……」
 ジャッキールは眉根を寄せた。
「ああ、そうだな。だが、狙われているといったが、どういう理由で狙われているのだ? 殺し屋かなにかなのか?」
「それがわかんないんだってば。でも、そういう感じのことかもね。なにせ、危険な仕事だっていってたし。もっとも、誰か要人を指し示す暗号ってこともありえるんだけど」
 こういうご時世だし、とシャーはため息をつく。
「そういうこともないわけではないがな。確かに、儲け話といえば、真っ先に思いつく。アレは手当てがいいからな」
 ジャッキールは同意して酒を口に含むと、少し声を低めた。
「結局受け取らなかったが、あの暗殺未遂の時の成功報酬は、それだけで数年何もせずに飯が食えるほどの額だった。もっとも、俺の場合は指揮官としての採用だったし、標的が標的だったから、多少上乗せされていたのだが、計画段階でも口封じ料としてそれなりの給金はもらえたものだ。相手が大臣か将軍でも、それなりに贅沢な暮らしをして余りあるほどの金額はもらえるのは確かだな」
「えー、マジ? そんなに実入りいいの。経験者がいうなら間違いないんだろうなあ」
 シャーは納得して唸った。
「だが、今のところそういう仕事の噂はきいていないな。もっとも、俺はこのところそういう筋とは縁を切っているので、情報が入っていないこともある。念のために、貴様の知り合いの蝙蝠にでもきくとよい」
 蝙蝠というのは、シャーも旧知である銀髪の将軍であるハダート=サダーシュのことだ。あの男は諜報をつかさどっているので、まちのいろいろなこともよく知っている。なにか不穏な動きがあれば、まっさきに何かを掴むはずだった。
「もちろん。あのシトは情報通だもん。明日きいておくってば」
 シャーは、そういいながら背もたれにもたれかかった。いつの間にか杯の酒は飲み干してしまっていたが、すぐに次を飲む気になれず、シャーは杯を手放しておいて両手を伸ばす。
「でもさあ、なんとなくあの人も知らない気がするんだよねえ。何かあったらオレに一言あってもいいようなもんだし」
「そうだな。貴様も耳が遅いほうではないのだから、ある程度は……」
 ジャッキールはそういって顎をなでやって何か考える。意外におっとりとした動作の多いジャッキールなのだが、彼のイメージとどうもそぐわないので、シャーはものめずらしそうにそれを凝視してしまった。
「それでは、アズラーッド。こういうことではないのか?」
 ジャッキールに突然そうよばれて、シャーはやや面食らった。
「へ? 何さ」
「その男は、ムルジムの首があれば裕福になれるといったのだったな?」
「そうだよ」
 ジャッキールのもって回った言い方にややいらだって、シャーはぶっきらぼうに言った。
「だから困ってるんじゃないの。命を狙われる可能性の高い奴は、このご時世には多すぎてよくわかんない」
 ふてくされたようにあくびをしたシャーだが、ジャッキールはシャーの愚痴を無視していった。
「その首というのだが、素直に考えれば、賞金首の話ではないのか?」
「へ? 賞金首?」
 あっけにとられるシャーを尻目に、うむ、とジャッキールはうなずいた。
「そういう仕事の話はよくきくぞ。貴様は知らんだろうが、様々な事情で他人に金をかける輩が案外いるのでな。事情にもよるが、恨みをよほど買っているかなにかした大物なら、それ相応の金が首にかかっていることもままあることだ」
 なにやらわけしり風なジャッキールに、シャーは冗談めかしてきいた。
「へえ、ダンナもそういうの一役買ったりするの」
「まあ、当面の生活費を稼ぐのには手っ取り早いからな。とはいえ、逆に狙われる危険もあるから、仕事はうまく選ばねばならん。賞金と事情をかんがみて、つりあいが取れないものは選ばんようにしているのだ」
「へえ、意外と気をつかってるんだね、ダンナも。でも、そういう筋の話っってどんなとこできけるのさ。仲介してるところがあるってことなんだろ。ダンナの言い方だとさ」
「もちろんある。普通は酒場の体裁をとっていることが多い。余り近寄りたくないが、いくつか心当たりもあるがな。そこでなら、連中が狙う首の情報もきけるのだが」
 ジャッキールは、やや渋い顔をしていった。
「なんだい。いいツテがあるんじゃんか」
 シャーは例の猫なで声でジャッキールに甘えるようにいった。
「じゃあ、案内してよ〜。今日はまだ夜も早いじゃん」
「いや、それは無理だ」
 ジャッキールはつれない。それ以上話をしたくないというように、酒を飲みながらつまみを口に入れていた。
「なんでさ。店が閉まってるの?」
「夜も開いてはいるが、今日はだめだ。あの店は物騒だからな」
「ちょうどいいじゃん。最近暴れてないみたいだし」
「その暴れるのが今日は嫌だといっている。せっかく風呂に入って身を清めたばかりなのに」
「はあ〜?」
 ジャッキールの思わぬ言葉に、シャーは、容赦なく間の抜けた声を上げた。
「なにヘタレなこといってるのよ、ジャキジャキ」
 シャーはあきれた口調になった。
「アンタ、いっつも暴れたい放題暴れてるじゃないの?」
 ジャッキールは、顔をしかめて首を振った。
「冗談ではない。人聞きが悪い」
「実際、そうじゃないのよ。確かに、今日のダンナは落ち着いてるみたいだけどさあ」
「だから、俺も四六時中ああでは身が持たんといっているのだ」
 彼は深々と息をつくと、野菜の葉が浮かんでいるスープを引き寄せてさじを入れてすくいながら首を振る。
「暴れる時はそれなりに段階を踏まねばな。まず、暴れたい気分になっていないときでないと、売られた喧嘩を買う気にもならん。激しく疲れる」
「ええ? そんなこといわないでよ、ダンナ。ダンナだけが頼りなのに」
 シャーは大げさに言ったが、ジャッキールは取り合わない。
「悪いがそういうわけなので、日をあらためてほしいのだが」
「ああ、はいはい。わかりましたよお。そうしますう」
 チェっとシャーは舌打をし、そっと小声でつぶやいた。
「ったく、ちょっと暴れたら疲れて、風呂通いが唯一の幸せなんて、爺の楽隠居かよ。もうそのままいっそのこと引退しちま……」
 唐突にガッと胸倉を掴まれて、シャーは思わず悲鳴を上げる。顔を上げると、そこにはすっかり目の色の変わったジャッキールが、口元を引きつらせながら、シャーを恐ろしい目で睨みつけていた。シャーは、思わず息を飲む。そこにいるのは、先ほどまでのどことなく無気力なジャッキールではない。
「年寄りで悪かったな。貴様の言うとおり俺もいいトシなのでなあ!」
 ジャッキールは、怒りをおさえながら笑った。唇の端がわずかに痙攣して不気味に引きつっていた。
「き、聞こえてたんですか。ひ、人が悪いな、ジャキジャキ」
 ジャッキールは、不機嫌そうに手を離してシャーを突き放した。シャーがやれやれと胸をなでおろしている間に、ジャッキールは、やや怒りながら言った。
「ともあれ、そこは危険な場所なのだ。俺にも準備がいるということだ」
「そ、そうだね。ごめんごめん」
 シャーは口先だけそういいながら、先ほどの視線で人も殺せそうなジャッキールの目を思い出していた。
(コイツ、本当に一瞬でなんかいけないもんが降りてきやがるな。アブナイアブナイっていうけど、一番アブナイのはオッサン本人だろがよ)
 さすがに今度は口に出さない。聞かれたら、今度は短剣を抜かれそうである。シャーは、下手にでることにして、猫なで声で言った。
「でも、ジャキジャキー。結構この件、いそいでるんだようー。何とかなんないかなあー」
「急いでいるのなら、明日でよかろう。日が沈んだ後にこの店の前に来い。案内してやる。ネズミ青年も来るのなら、一緒に来たほうがいいだろう。味方は多いほうがいい」
 ジャッキールは、シャーの猫なで声をつめたく振り払うように、ぶっきらぼうにそういったが、ふと思い出したように付け加える。
「ああ、しかし、顔は隠したほうがいい。ネズミ青年も貴様も、自分が思っているよりも名が知られているし、特に貴様はあちこちで恨みを買っているぞ」
「ええ、そうなの。今日も変装したばっかしなのに」
 シャーは、不満そうに言った。やっぱり、自由に振舞っているほうが気が楽なのだ。シャーのようなおしゃべりが、まったく喋れなくなってしまうと、かなりつらいのである。
 シャーが、やれやれと肩を落としていると、ジャッキールは、不意に話を変えてきた。
「だが、そんなことを勝手にやってもよいのか?」
「そんなことってどんなことさ」
 唐突なジャッキールの言葉に、シャーは丸い目をしばたかせる。ジャッキールは、ふむと唸った。
「調べていることは、リーフィさんには秘密なのだろう? 彼女の過去を詮索することにはならんのか?」
「人違いなんだよ。関係ないんだもん、リーフィちゃん」
「そうかな。それだといいのだが」
 ジャッキールの白々しい言い方に、シャーはぴんと片眉をひそめた。
「なんだい。いやにからむじゃない」 
 ジャッキールは焦れるほどゆったりと姿勢を変えて腕を組んだ。
「さて、どうかな。貴様は、本当にそう思っているのかな?」
「何をさ」
「本当はムルジムを追っているとかいう男を知っているのではないかといっているんだ」
 シャーは、反射的に口をつぐんだ。
「さっきから、ムルジムの居場所ばかり気にしているだろう。どうして、当人を積極的に探そうとしない。その娘の周辺を当たれば、名前ぐらい簡単にわかるだろう」
「そ、そりゃあ、あのネズミが、今日はきくのは無理だって言ったからさ。だったらムルジムって奴を調べたら、なんかわかるかなーって」
「それだけかな」
 ジャッキールは、口の端に意味深な笑みを刻んだ。
「俺は貴様が、相手を知っているが、その居場所がわからんから、標的の居場所からどこにいるのか特定しようとしているのだと思っていたのだが?」
 シャーは、むっと不機嫌そうに眦を上げ、ジャッキールを睨んだ。
「何が言いたいんだい、ダンナ。はっきりいいなよ」
「それでははっきりと俺の予想をいうが」
 ジャッキールは、そう前おいてから姿勢を正して言った。
「俺は、貴様はその男が誰かおおよそ予想がついていると思っている。ついで言えば予想はついているが、認めるのが怖いので、あえて名前を呼ぶのを避けているのではないか」
「別にそういうわけじゃないよ。わかんないから相談してるんじゃないか?」
「俺が知っているのではないかと踏んで、俺に相談を持ちかけたのだろう。ということは、相手の男がどういう筋の人間か、ある程度判断できているということではないか。蝙蝠に真っ先に相談しようとしなかったところをみると、大体相手の予想はついているんだろう。先ほども言ったな。蝙蝠は知らないかもしれない」
 ジャッキールに畳み掛けられて、シャーは思わず口をつぐんだ。
「相手はごろつきまがいの男であって、要人暗殺や反乱などに加わるほどの度胸がない。そう、貴様が判断しているということだろう? そして、できればリーフィさんに知らせたくないと、そういうことか」
「リーフィちゃんは人違いで巻き込まれただけなんだぜ、ダンナ。そんなのに巻き込めっていうのかよ!?」
 ジャッキールは、シャーを無視して続けた。
「あの子には関係ないんだよ!」
 シャーの口調はかなりきついものになっていた。口には出さないが、ジャッキールに黙れと態度で迫っていた。
「勝手にアレコレ想像でモノをいわれても困るぜ。オレは本当になんにもわかっちゃいないんだから」
「勝手な想像ではない」
 ジャッキールは冷静に続けた。
「貴様の態度で、俺にはその男がリーフィさんとどういう関係にあったのか、凡その予想がついただけだ」
「関係ない! あの子に関係なんかねえといってるだろう、ジャッキール!」
 シャーは思わず声を荒げた。それでも、酒場の中で人が気を留めるほど、その声は大きくない。だが、いつの間にか、まるで飛び掛る前の獣のようにわずかに牙をむきながら、彼はジャッキールを睨みつけていた。ジャッキールは、斜めに彼を見ている。傍目からみれば、それは一触即発の険悪な空気に見えたかもしれない。
 だが、その空気はほんの一瞬で終わり、誰かにその様子が注目されることはなかった。ジャッキールのほうが、苦笑すると腕を広げ、あっさりと謝ったのだった。
「少し立ち入りすぎたな。悪かった」
 シャーはまだ彼を睨んでいたが、ジャッキールのほうは、ごく自然に話を続けた。彼はシャーを宥めるように言った。
「だが、隠していたところで、あの娘はいずれ気づいてしまうぞ。そんなに鈍い女人ではないことぐらい、貴様もよくわかっているだろうからな」
「それは……」
 シャーが言いよどんだところで、ジャッキールは諭すように言った。
「時間をおいてからでも、一言いっておくのがよいのではないか」
 シャーは、ジャッキールにそう優しく言われても黙っていた。なくなった酒を注ぐ気にも、何かを口にいれるつもりもなかった。ただ、獣が唸っているときのような顔をしながら、腕を組んで不機嫌に黙り込んでいるだけだった。


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このページにしおりを挟む 背景:空色地図 -Sorairo no Chizu-様からお借りしました。