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苦い昼の挿話-5

 その日の戦いは、彼が所属していた将軍が勝利し、ほどなく敵方が降伏したようだった。その際に、混乱を避けて相手方の傭兵達は逃げてしまったらしい。再び平穏で退屈な日々が訪れていたが、彼の心中はとてもではないが穏やかではなかった。
 あのザハークとか名乗った男、彼は自分とほぼ対等の力を持っていた。いや、それどころか、彼にはまだ余裕があった。そのことは彼にとっては衝撃的なことであり、さらに不本意にも彼に助けられた形になったことにも腹立たしかった。しかし、その一方でどこかしら謎めいているあの男のことに興味がわいてもいた。自分で名前が売れていないといっていたが、確かに彼が知る限り噂でも聞いたことがなかった。あれほどの力を持ちながら、何の話も上がってきていないのだ。
 手がかりといえば、紙きれ一枚だ。
 そこには何か文字が書かれていたが、到底彼に読めるものではなかった。この地方の文字はそれなりに読めるようになっていた彼であるが、その文字は見たこともない図形のようにしか見えなかったからだ。
 手の出しようもなく途方に暮れた末、仕方なく彼は酒場で一人で飲んでいた。
 ぼんやりと飲んでいたところ、ふいに自分の名前を呼ばれた気がして振り返ると、反対側で盛り上がっている傭兵達がいた。
「エーリッヒの顔見たか?」
「ああ、ボコボコにやられちまってよ。いい気味だ」
 彼は静かに舌うちした。どうやら、自分のうわさを肴に飲むつもりらしい。
 ジャッキール、そのときエーリッヒと名乗っていた当時の彼は、今よりもさらに人と協調しない男だった。まだ若かったが、お高く留まっているうえに、戦場では何をしでかすかわからない彼のことを周囲の傭兵仲間はあからさまに煙たがっていたし、彼もそんな連中と付き合う気がさらさらなかった。ある意味ではおっかない彼であるので、面と向かってあげつらうことはしなかったが、こうして聞こえよがしにいうことはある。
「しかし、あんな奴をあそこまで殴りつけるって、いったい誰が?」
「知らねえのか。向こうに雇われていた大男だったらしいぜ。なんでも抜群に弓がうまいとかなんとからしいが、なんだ白兵戦の腕も立つのか」
「ああ、あいつか。ありゃリオルダーナ人だぜ」
 ふと、誰かがそういった。
「あの弓のうまいやつだろ? リオルダーナの王都郊外で、弓の名人としてちょっと有名だった奴じゃねえかな? 一度見たことがある」
 と、ジャッキールは、杯を持つ手を止めた。
「噂をしらねえって? そんなこと言われても知らないが、俺が前に見かけたときはまだ餓鬼のころで、もうちょっとひょろっとした美少年って感じだったからな。すっかりでかくなりやがって、風貌がずいぶん変わってるので一瞬気づかなかったが、ちょっと弓を引くときに癖があるんでよ。それで思い出したのさ」
 男は、リオルダーナ系の人間らしい。彼はそのままべらべらとつづけた。
「リオルダーナじゃちょっと有名なんだってさ」
 ざっとジャッキールは立ち上がり、つかつかと彼らのほうに歩み寄った。
「エ、エーリッヒ」
 その態度に陽気に話していた男たちが、思わず色めきだつ。
「失礼」
 とジャッキールは一応断っておいて、彼にしてはそれなりに頑張って丁寧に声をかけた。
「その話、少し詳しくききたいのだが、かまわないか?」
「エ、エーリッヒ、べ、別に俺たちは……」
「そ、そうだぜ。お、お前の面みて、アイツの話をしてたわけじゃねえんだ……。他意はなにも……」
 男は怯えたように首をふって愛想笑いを浮かべた。
「そうなんだ。た、ただ、アイツに見覚えがあってそれで……」
「別に俺はその話が気に障って声をかけたわけではない」
 怯える男たちにジャッキールは、できるだけ穏やかに作り笑いを浮かべた。そうしなければ話が進まない。
「その男について詳しく聞かせてもらいたい。無論、ただでとはいわん」
 彼は、目の前に金の入った袋をぶら下げた。こういう相手に要求を聞かせるには、金の力が一番手っ取り早いことを彼はよく知っていた。案の定、相手の男の表情が変わっていた。
 その男からは彼がリオルダーナ人であること、子供のころから弓矢の名手としては有名であったこと、そして名声を持ちながら、リオルダーナの王国に仕えられない理由があるらしいことを教えられた。
「俺は詳しくはないんだが、何かといわくのある男だってきいたな。悪いが、この紙の文字はみたことがねえから読めないぜ。だが、そうだな、もしかしたら今この街に来てる隊商の長なら何かしってるかもしれねえ。俺がそいつのことを教えてもらったのも、その男に雇われていた時だったからさ。もっと詳しい口ぶりだったよ」
 結局、その男に紹介してもらい、彼は街に滞在している商人を訪れることにした。
 隊商を率いているという商人は、それなりに手ごわいやり手の男なのだときいてはいた。しかし、ジャッキールのような人間はとかく堅気のものからは敬遠されやすい。特に彼のような血の匂いを体に巻き付けているような男は特にである。
 そんなこともあり面会を断られるのではないかと危惧していたが、やがて人当たりのいい北方出身らしい金髪碧眼の陽気な大男がやってきて、彼を案内してくれた。男は穏やかで無邪気だったが、なるほどこのような男を用心棒にしているのなら自分を恐れることもないのだろう。
 その後、目の前に座ったのは、その時の彼より少し年長のように見えたが意外にも若い男だった。レックハルド=トゥランザッドと名乗った男は痩せていたが、知性的で生命力にあふれた瞳をしており、それでいてどこかしら胡散臭いような、なかなか癖のある男だった。そのあたりがかえって彼の魅力のようなものになっているのか、何かと印象的ではあり、けして強そうには見えないのにもかかわらず貫禄があった。
 彼はジャッキールが渡した紙を開き、珍しいものをみたというような反応になった。
「これは古いリオルダーナの文字ですよ。この文字をかけるのは今は神官ぐらいしかいないでしょうな」
「これはとある男から名刺代わりにもらったものだ。なんと書いてあるのか読めるものを探している。貴殿なら読めるかもしれないときいた」
「残念ながら私もこの文字は読めませんよ。しかし、これには見覚えがあります。人名であるならこれで間違いありますまい」
 しかし、と商人は尋ねてきた。
「旦那様、この男をお探しのようですが、見つけてどうなさるおつもりです。この紙には、貴方の首をもらい受けるとありますが」
「この男には借りがある。見つけ出して戦い、そして殺す」
 ジャッキールは正直にそう告げると、ははは、と商人は笑い出した。
「正直なお方ですな。物騒な話ですが、まあ、私には何の関係もないことだ。よろしい。教えて差し上げよう」
 机の上に紙を広げ、商人は一つずつ説明してくれた。
「これがザハーク。ここは読めませんが、次がハイダール」
 彼は目を瞬かせた。
「名前だと聞いているが、本当に名前か? 不吉な名前であるときいたが」
「ザハークというのは、邪悪な蛇の王の名をもじったものですので、不吉と言われればそれまでですな。ハイダールは、家の名前です。厳密にはザハークという名前は、ハイダールの嫡男が成人後に名乗る名前ですので、この男の諱ではないでしょう」
「それでは、この読めない真ん中の文字が名前ということか?」
 商人は、意味ありげに笑った。
「ハイダールの男は諱を隠すとされていましてね、私が読めないのはそのためです。しかし、かつてのハイダールの男は家を継いで名前を継ぐまでは、諱から最初の二音か三音を取って幼名とすることが多かったと聞いております。成人しても、滅多と本名は名乗らないとも。……ですが、これはちと面白い話だ。貴方がご存知の男がこの名を名乗っていたのだとしたら、リオルダーナでは少々もめる可能性がありますからね」
 意味がわからずきょとんとしていたジャッキールに、ふふ、と商人は笑った。
「その顔を見ると旦那様は、どうやらハイダールという姓が何を示すかご存じない様だ。ははは、意外かもしれませんが、あの男、ああ見えて世が世なら王子様だったのですよ」


「世が世なら王子様だって?」
 ハダートが途中で口をはさんできた。
「あのニィさん、高貴な家柄の人間だとは聞いてたが、そこまでの家の出身なのか」
 ハダートは個人的に興味津々といった風だった。ジャッキールはうなずいて尋ねる。
「ヴィリトア三日月王というのを知っているか?」
「ああ、リオルダーナの前王朝マハヒーラ朝の王様の名前だぞ。リオルダーナどころか、この地方も支配していた有名な英雄さ」
「あの男の家、ハイダールというのは、そのヴィリトア三日月王の直系の末裔だそうだ。もちろんいくつか分家があったが、ヴィリトア三日月王は人気のある王であったので、そうした事情から粛清を受けやすく、奴の家以外は断絶しているらしい」
「へえ、そうなのか」
 ハダートは、意外そうにいいつつため息をつく。
「なんだか王子様って名前がつくやつにろくな奴がいねえな。俺の身の回り限定なのかもしれないが」
 そうやってぼやいた後、ハダートはつづけて尋ねた。
「しかし、またなんで奴の家だけが残っちまったんだ?」
「そもそもは祭祀をつかさどる家なのだそうだ。だから、あの男には魔術めいた秘密がたくさんある。たとえば、ザハークというのも嫡男だけが成人後に継ぐ名前で本来の名前は秘匿されているのだ。だが、宗教儀礼をつかさどる家であるので、流れゆく歴史の中でも、政治権力と結びつくまでは粛清を受けにくかったと聞いているが、奴の父親の代では……」
「なるほどね」
 ハダートは、腕組みをした。
「最終的に、三日月王の直系の末裔だということで担ぎ出されたのはよかったが、結局現在の王朝にたたき伏せられて壊滅したということだな」
「まあ、そのようなことらしい」
「へえ、そんな大変な家の出とは見かけによらねえなあ」
 ハダートは、何度かうなずいて話の続きを待った。



「粛清を受けた後のハイダール家にはウロという名前の少年がひとりだけ残っていました。彼は寡黙な少年でしたが、これには理由があります。かつて、リオルダーナ国王は彼を殺そうとしたことがありました。長ずるに従い、彼が一族を滅ぼした自分への恨みを口にし、仲間を集めて反乱を企てるのではないかと恐れたのです。そこで彼の母親が、この子は口がきけないので王の悪口を言うことはないと申し出ました。周囲の者たちも、ハイダールで唯一残った罪のない幼子を殺せば、王は残虐非道だといわれるだけだと止めました。仕方なく、王は彼を打ち据えても一言も声を発しなければ信じると譲歩し、実際に彼を引き出して目の前で打ち据えましたが、彼は泣きもしなければ声をあげることもなく、静かに王を睨みあげるばかりでした。やがて同情した将軍の一人がとりなして、彼は解放されましたが、王は内心彼を恐れました。しかし、彼はそれ以降もほとんど話すことがなく、実際に声が出ないのだと思われたこと、幼い子供であるので殺せば自分の評判が落ちるだけだと引き続き周囲から説得されたことなどから、王は彼を殺すことだけはやめたのです」
 ふむ、とジャッキールは唸った。彼が出会ったあの男は、普段はよくしゃべる男だったように思う。第一、陽気に彼に声をかけてきたのはあの男の方なのだ。商人の話は続く。
「父が粛清されてからのハイダールは、当然ながらそれからずいぶんと零落し、明日の食事も事欠く始末で、少年だった彼が狩りをして獲物を売ることで生計を立てていたということでした」
「狩りを?」
「ええ」
 驚いたように目を開く彼に、商人は、なぜかにやりとした。
「その生活は、やがて彼を弓の名手にしました。私が彼のことを知ったころには、すでに有名な射手になっていました。しかし、彼が名声を得るにつれ、リオルダーナ王の不安は増していきました。やがて、彼が自分に報復するのではないかと恐れたのです。そして、長じて立派な青年になっていた彼の身辺にも変化が訪れます。彼はやがて自分の意志とは関係なく、反体制派の人間に担がれるようになっていきます。ヴィリトア三日月王の末裔である彼は、旗印にぴったりの人材でした。水面下では反乱の計画が進められましたが……」
「……失敗した」
「ええ、計画が表ざたになる前にひっそりと組織ごとつぶされました。彼はその時、どさくさに紛れて暗殺されたと噂に聞いています」
 ジャッキールは腕組みをして何か考えているようだった。商人は、からっと笑って尋ねた。
「旦那様は、私がなぜそのようなことに詳しいのか気になる様子ですね。ごもっともなことです。実は、今のリオルダーナ国王は、非常に評判が悪く人気がない王様でしてね。そして、関税が高くてやってられないので、我々隊商の人間にとっても目の上の瘤だったのですよ。我々は組合を作っておりますが、彼らから資金を寄付し、活動を応援をほしいとの申し出がありました。成功した暁には関税を下げ、優遇措置を図るからと。利害の一致した我々はそれを受け、金を彼らに渡しました。当時の私はまだ駆け出しの小僧でしたので、金の受け渡しなどの雑務に携わっていました。私が事情をよく知っているのも、彼に面識があるのもそのためです。失敗後は、我々関与をうまくごまかしましたが、おかげで今もリオルダーナには以前より高い関税を払わねばなりません。特に私などは、危なくてリオルダーナの王都には近づけないから参ったものです」
 なるほど、とジャッキールはうなずいた。
「よくわかった。しかし、それでは私の知っている男と彼は別人のようだ。あの男は、もっと陽気でよくしゃべる男だった」
「そうかもしれませんね。ハイダールの死んだ嫡男の名前を僭称しているだけなのかもしれません」
「そうかもしれない。いや、しかし、非常に参考になるお話だった」
 ジャッキールは話を一通り聞いて、商人に謝辞を述べて立ち去ろうとしたが、ふと商人に呼び止められた。
「旦那様。お待ちください」
 商人は含み笑いを浮かべていた。
「実は、私の話には嘘がございました。実は、私は、彼の諱を知っています。そして、死んだとされているその後の彼にも再会したことがある。そのことを打ち明けたく思います」
「……何故、今立ち去り際の私にそのようなことを言われる?」
 ジャッキールが不審に思って尋ねると、彼は答えた。
「お許しください。今まで、旦那様という人物を探っておりました。貴方は、彼を殺す為に私に話を聞きに来たといいましたね。しかし、私には殺す為に彼を追っているようには見えませんでした。……あなたは、純粋に彼という人間に興味を持って、彼のことを調べているように思えました」
 ジャッキールが黙っていると、商人はつづけた。
「貴方は、ザファルバーンで王位に就いたセジェシスという王に会ったことがありますか? 彼は立派な体躯をした美しく、そして不思議な雰囲気の人物です」
「いや、残念ながらない」
「それは本当に残念だ。機会があればお会いになれればよいのだが。それか、彼の息子の東征王子シャルル=ダ・フールを見かけたことはございますか?」
「いや、まだ。ただ、名前だけは聞いたことがある。紺碧の軍装に身を包んだ少年だとかいう話を……」
「彼には貴方がこの地で戦っているのであれば、近い将来お目にかかる可能性がございましょう。あの男も、なかなか面白い男ですよ。いろいろな噂があり、顔の見えない人物ではありますがね。私がたまたま彼を見かけたときは一般兵士に紛れて博打を打っておりましたが、セジェシス王の息子の中で彼が一番王に似ているともいわれています。……ふふふ、お前は何の話をしているのだ……いうお顔をなされていますね。セジェシス王は、ヴィリトア三日月王の再来と言われている男です。ヴィリトア三日月王は、とても人を惹きつける魅力のある男だったとされています。まあ、いわば人誑しの部類ですな。気が付けば人の心と扉をこじ開けて、その中に入り込んでくる。そうした人間がこの世には存在する。貴方は彼らが目の前に現れたとき、心惹かれずに済むでしょうか?」
 にっと商人は笑った。
「貴方は自分には魅力がないと思っていらっしゃるし、そのために人付き合いが苦手のようだ。だが、私からすれば貴方も十分魅力的な人物です。強く、そして知的で、かつどこかしら獣のような狂暴性に満ち、それでいて紳士的だ。矛盾をはらんだ人間は、時として非常に魅力的にもなる。貴方は自分の魅せ方がおわかりでないだけだが、自分に劣等感をお持ちだ。……しかし、それだけに、魅力的な人間が目の前に現れたときに、非常に相手に惹かれやすい。……私は先ほど、その後のハイダールのウロに再会したとも言いましたね。彼は寡黙な紅顔の美少年だったころとは様変わりし、立派な男になっていましたが、それは魅力的な人物でした。陽気で快活で、よくしゃべり笑い、――そして強く、謎めいている。今の彼は絵物語のヴィリトア三日月王によく似ている」
 あなたは、と商人は語り掛ける。
「貴方は私に彼を殺す為に追っているといった。それは嘘ではなく、あなたの本心に違いありません。しかし、それだけではないのでしょうね。それがわかったので、私は旦那様に真実を告げましょう」
 ジャッキールが答えないでいると、商人は言った。
「ハイダールの男は例外的に契約を結ぶときに、名を明かします。貴方を殺す誓いを立てたがために、彼は名を明かしたのでしょう。……そう、契約を結ぶときにです。反乱を企てる前の彼は、資金を渡した組合に対して契約を結びました。だからこそ、私は名前を知っているのです」
 商人は、彼の顔をまっすぐに見上げながら告げた。
「彼の本当の名前は、ウロボロスというのですよ」
「ウロボロス(永遠の蛇)」
 その響きは、謎めいた彼によく似合う。

 *

 砂漠の落日は物悲しいものだった。戦いの後の落日の情景は特にそうだった。
 彼は人から離れて砂丘の上に座っていた。まだ熱を帯びた赤く染まる砂の上に座る彼は、瞑想しているようですらあった。
 そんな彼に忍び寄るものがいた。そろそろと足音を忍ばせ、その男は剣の柄を握っていた。彼は静かに目を閉じているようで、何も気づいていない様子だった。
「同士討ちとは感心せんな」
 いきなり背後から声をかけられ、男は振り返ろうとしたがそのまま殴り飛ばされて砂の上に沈んで伸びてしまった。
「おっと、トドメを刺すことはないぞ。そんな雑魚、別に生かしておいても何の脅威もない」
 剣の柄で男を殴り飛ばしたジャッキールに、彼は声をかけてきた。いつの間にか、砂丘の上で座っていたザハークが立ち上がって、ジャッキールのほうを見下ろしていた。
「せっかく、いつとびかかってくるのか楽しみにしていたのに、ずいぶんと無粋なことをするのだな、エーリッヒ」
 なれなれしくそう声をかけてくるザハークに、ジャッキールは不機嫌になった。
「ようやく貴様を見つけ出したというのに、雑魚に殺されてはかなわんからだ」
「素直ではないのだな。この間の借りを返したかっただけだろう? エーリッヒ」
 ザハークはにやにやしながらそう言った。
「ま、俺は一応素直に礼をいっておくぞ」
 陽気にザハークはそういった。
 あの商人の話によると、かつてのザハークは無口な少年だった。そして、今のザハークは陽気でよく話す。まるで別人としか思えないほどに。
 しかし、それは自分の身を守るためにほかならず、そのために蛇のように声を発することをしなかった。彼は感情を押し殺し、言葉を発することを抑制し、そして自分の身を守っていただけなのだ。
 その彼が感情の赴くままに発言し、笑うようになった。それは、彼が口をつぐむことで身を守る必要がなくなったということなのである。ひとつは、彼が家を守る必要をなくし、さして自分の命に執着しなくなったことがあげられるかもしれない。だが、それよりも確実な理由が一つだけある。
 彼は、強くなったのだ。
 口を開くことで晒される危険など物ともしないほどに。それが、彼の言動の端々に静かな自信となってたたえられているために、彼は陽気で明るい男でありながら、どこか不気味で恐ろしい。
「ふふ、せっかく再会したのはいいが、残念だが今回は味方同士だな」
「コイツのように同士討ちをするつもりはない。今回は残念ながらめぐりあわせが悪かったようだ。敵であればその首もらっていた」
「それもそうだ。まぁ、今回は貴様の首はお預けだ」
 ジャッキールが、再度彼に巡り合ったのは、あれからさほどの期間をおいてではなかった。しかし、やはり彼ほどの腕前を持つ人間は、噂に上らないはずがなく、いつの間にかサギッタリウスという異名で知られるようになっていた。
「ずいぶんと名を売っているらしいではないか」
 そう尋ねると、ザハークはどっかと砂の上に座って、顔だけ彼に向けて無邪気に笑って答えた。
「はは、やはり名前を知られるとろくなことがないな」
「貴様が狙われるのは、その出自によるものだろう」
「なるほど、そこまで知られているのだな」
 ザハークは、にやりとしたが別に何も言わなかった。
「ザハークというのだったな、貴様の名は。探すのにその名を出す度、相手が嫌な顔をするので大変だった」
 ジャッキールは、わざと恨みがましく言ってやったが、ザハークには通用しない。
「だから言っただろう? 俺の名前はちと不吉だ。だから、あまり人前では名乗らないことが多いのだ」
「ふん、だからといって、貴様に一方的に名前を呼ばれるのも腹立たしい。もう一つ俺が知っている名前は隠すべき名前だ。そして、姓で呼べば先ほどのような連中を招くだけだ。本当に厄介なことだな。いったい貴様をなんと呼べばいい? サギッタリウスという名をもう少し早く知っていれば便利だったのだが」
 ははは、とザハークは笑う。
「それは俺が名乗った名前ではない。誰かがつけた名前だ。貴様にそう呼ばれる筋合いもない」
「しかし、名前がなければ不便だ」
「名前がないと不便だというのなら、貴様が適当につければよいではないか」
「名前を俺がつけろだと?」
「その通りだ。お前が俺を呼ぶのだから、お前が俺に名前をつければいいだけの話だろう? 俺はお前にたくさん名前がある中で、これぞという名前を選んで呼んでいる。お前も好きにすればいいではないか?」
 むっとジャッキールは、眉根を寄せた。そんな風に返答されるとは思わなかったのだ。しかも、一応筋が通っている気がするので、反論できなくなってしまう。
「何かいい名前はないのか? 俺を呼ぶのにちょうどいいあだ名は?」
「そう、だな……」
 そうせかされて、まじめなジャッキールはつい真剣に考え込んでしまう。ザハークといえば、そんな彼を見上げながらにやにやしていたが、それを見ると妙に腹立たしくなってくる。
 少し悩んだあと、ジャッキールはおもむろに口を開いた。
「ザハークというのは、伝承の蛇の王の名前にちなんだものだときいた。だとしたら、蛇の王であるから蛇王で……」
「おお、意外とかっこいい名前がでてきたな! 貴様のことだから、てっきり蛇男とかつけてくるのかと思った」
「な、なんだと! 貴様など蛇男で十分だが、お、俺は、それなりに真剣に……」
 ついつい相手に乗せられてそう反応しかけたところで、ジャッキールは、はっと気づいて慌てて咳ばらいをした。ザハークはそれを見てにんまりと笑う。どうやらからかわれているらしい。
「はは、これで解決だな。それでは、エーリッヒ、その首をもらい受けるまでの間、よろしく頼むぞ」
 何がよろしくだ。
 ジャッキールは言いたくなるのをおさえつつ、相手をにらんだ。しかし、ふと、こんな風に人と話をしたのは何年ぶりだろうかとも考えていた。かつて自分がこんな風になって、戦場に身を投じる前は、そういえばこんな戯言を仲間と掛け合った。
 この男は、間違いなく殺さねばならない危険な男だ。自分に匹敵し、自分の首を狙っている。それなのに、何故――?
 そんなことを考え、ジャッキールは不思議な気分になっていた。

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