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苦い昼の挿話-4

「それが当たったってこと?」
 シャーは、違和感を覚えて、ふと口をはさんだ。
 先ほどの話を聞いていれば、ザハークは矢を射る前にジャッキールに対して名乗りを上げなかったようだ。それはどうにも彼らしくない行動のような気がした。ザハークは、これぞという相手に対してはわざわざ存在を誇示したうえで戦闘に及ぶような男だ。彼はジャッキールを素晴らしいエモノだと思って狙ったのだから、それなら警告の一つや二つあってもいいだろう。
 ザハークは今まで昔のことを思い出しながら話していたせいか、シャーのほうに目を向けずにいたが、そういわれて彼に視線を向けた。
「いや、当たればエーリッヒが今もこの街でぶらついているわけがないではないか」
 ザハークは、話が一息ついたと思ったのか、菓子をひょいっと拾い上げてもぐもぐ食べながらシャーの問いに答えた。
「でも、蛇王さん、名乗らなかったってことだよね。警告もしなかったんだよね?」
 シャーは小首をかしげた。
「蛇王さん、その頃から弓矢うまかっただろ。それが警告もなしに、いきなり射られたらかわしようがないじゃない。まして、ジャッキールのダンナはイっちゃってる時のダンナでしょ? いきなり奇襲されても、気づかないんじゃない?」
 腕を組んで見上げるシャーにザハークは含み笑いで応じた。
「ふふふ、小僧、そこがエーリッヒの恐ろしいところではないか。奴は、俺の矢など見事に払いのけたぞ。ま、二射目は腕に当たったが、深手とはいかんかったしな。そういう男ではないかと思ったから、俺は最初に名乗りも警告もしなかった」
 はぐはぐと菓子を口の中に入れてしまい、ザハークはまだ温かい茶でそれを流し込んで首を振る。
「あの男はな、一見、理性がないように見えても、実際は頭の芯に冷えた部分を持っている。いざという事態になったとき、理性的な男に瞬時に切り替わることができるのだ。まー、時々本気でトんでしまってることもないわけではないのだが、そういうわけだから、ああいう状態見てもなめてかかるわけにはいかんのだ。あの男が非常に厄介なのは、本当に理性がなく暴れまわっているだけなのか、実は理性的に反撃ができる状態なのか、それが見た感じでわからないということだな」
 わかるだろう? といわれて、シャーは今までの彼との対戦を思い出していた。
「た、確かに。それ、なんかわかる気がする」
 そうだろう、とザハークはうなずいた。
「大体、前にも言ったことがあるかもしれんが、俺が殺意を持って狙って完全に失敗したのは、お前とエーリッヒだけだといっただろうが」
「オレの時は偶然だと思うけどねえ」
 シャーは苦笑するが、ザハークはからっと笑った。
「はは、もっと自信をもってもいいぞ。俺はな、絶対に勝てる自信のある人間は殺さない主義だ。生かしておいたせいで後に狙われても、返り討ちにする自信があるからな。だが、今を逃せば自分が殺されるかもしれない人間に対しては、殺すと明言もするし、本気でやる。お前の時もエーリッヒの時も、矢を射かける前に声をかけなかったのはそのせいだな。お前たちは危険人物だから、反撃されるとこちらが危ないと思っていたからだ」
 ということで、と、ザハークはやや真面目な表情になってにやりとする。
「お前とエーリッヒについては、そのうち殺す予約ができているので、俺からの評価は相当高いということだ。まあ、喜んでくれ」
「全然ありがたくない話だけど、あ、ありがとう」
(やっぱり、あのダンナの宿敵ってだけあって、時々蛇王さんもまともじゃないよなあ)
 シャーは、率直にそんな感想を持ちながら話を戻した。
「で、その後、泥沼の戦いになったの? 噂によると一晩中殴りあってたとか聞いたんだけど。というか、なんで殴り合いにまで発展するわけ?」
「うーん、まあ、そういわれればそうだったような。一晩中というのは、誇張が入っていると思うのだが」
 ザハークは、腕組みをといてからっと言った。
「ま、奴はしぶといからな。俺も体力には自信があるが、あいつの場合は青白い顔をしつつ、なかなか倒れないという困ったやつだ。とりあえず、俺が弓を捨てて接近戦を挑むだろ。だが、エーリッヒに剣を持たせとくと俺が危ないから、有利にするには剣を離させて肉弾戦に持ち込むしかない。ということで、奴から剣を奪うまでが一苦労だったな」
「えええっ! ダンナから剣奪ったの? あの死んでも剣離さないようなダンナから!」
 シャーは素直に驚いて、思わず椅子から立ちそうになった。
「そりゃあ、大変だったぞ。だが、やれんことはない。だが、そのあともしぶとくてしぶとくて……。おまけにエーリッヒの奴、勘が鋭いので間合いを取って関節技やら絞め技やらを決めさせてはくれんかったからな」
 驚くシャーを後目に、ザハークは人ごとのようにやれやれと肩をすくめた。
「時間がかかって嫌気がさしたので、その日、奴を殺すのはやめたのだ。まあ、はじめにあったときから、奴は無駄に頑丈だったということだな」
 シャーは、なんとなくまた違和感を感じていた。ザハークは、何か省略したことがあるのではないだろうか。
 しかし、それを尋ねたところで彼が教えてくれるはずもないだろうし、確証があるわけでもない。シャーはそれ以上追及しないことにした。

 * 


 頭まで沸騰したような熱い血が回って、目の前が真っ赤になる。そして、いつしか体も気持ちも軽くなる。この憂鬱で恐ろしい戦場が、まるで違ったもののように楽しくなる。まるで世界の色が違って見えるかのようで、それは恐ろしく気分のいいものであり、そして、まるで自分というものがなくなってしまうのではないかというかすかな恐れを抱かせるものでもあった。
 いつしか、彼は戦場に出るときにそんな状態になってしまっていた。彼のその姿を知るものは、戦場はおろか日常においても彼に近づくこともなくなってしまう。だが、それでも、彼がこの世界で生きる上でその性質は有利に働いていることも多分にあったのだ。
 しかし、そのときの彼はすでにある程度の冷静さを取り戻していた。そうせざるを得ないような相手が目の前にいたため、彼の頭は冷えてきていたのだ。
(なんだ、コイツは?)
 息を切らしながら、彼は目の前の男から少し間合いを取る。相手も疲れてはいるようだったが、その表情からは疲労の度合いがはかれない。男は、ギラギラとした殺気をこちらにまっすぐに向けては来ていたが、どちらかというと無表情だった。何を考えているのかわからず、そのあたりが不気味だった。
 彼の左腕からはかすかに血が流れ落ちていたが、それより彼が気がかりなのは右手に何も握っていないことだった。ちらりと視線を向けると、自分とその男の間に剣が転がっている。
(俺から剣を奪うとは、この男……!)
 先ほどもみ合いになった時、男はあくまで自分から剣を手放させるのに専念した。男も鋭い剣筋をもったかなりの手練れではあったが、剣術においてはまだ自分の方に利があると彼は見ていたが、男も同じことを考えたようだ。男は自分の剣を収めてあえて危険を冒して接近戦を挑んできた。剣だけは死んでも離さぬと思っていた彼だったが、とびかかられて地面で何度ももみ合ううちに、一瞬のスキを突かれて剣を手放してしまったのだ。

 いつものように狂気に魅入られて、彼は敵を蹴散らしながら前進していた。ここのところ、こうした場はお預けを食らっていたためか、そのときの彼は自分でも恐ろしくなるほどに上機嫌だった。すでに何人斬ったか覚えてもいなかったが、そんな中でいきなりその男からの襲撃を食らった。
 最初の矢に気付いて弾き落としたが、すぐに二射目が飛んできた。その矢は彼の左腕にかすり傷を与えたが、毒も塗っていない様子であり、さほどの傷ではなさそうだ。
「ははは、さすがだな!」
 相手の男は嬉しそうに笑った。どうやら見覚えがある。彼は多少冷静になりつつあった頭で、その男のことを思い出した。あの時、陽気に自分に話しかけてきた男だ。あまり名の知られていない男のようだったが、自分にああして平気に話しかけてくる男は珍しいので覚えていた。どこかしら不穏な落ち着きがあるとも思ったが、人懐っこい笑顔も相まってそのときはたいして警戒しなかった。
「貴様!」
 そういって睨み付け、即座に襲い掛かったが、男は冷静ににやりとして三本目の矢を放ってきた。当然それを打ち落として一気に斬り捨てようとしたとき、男はあっさりと弓を捨てて腰の剣に手を触れ、自分と正面から打ち合って来た。
 独学で学んだのか、やや読みづらい剣筋だったがそれは鋭く、さすがの彼も油断がならぬと警戒した。もはやどれほど時間が経ち、何合打ち合ったのか覚えていないが、男は彼の剣を受け流すようにして離れては、わずかなスキを見つけて流れ込むように攻めてくる。外見の割に動きは存外に優雅で自然でもある。
 だが、それでも剣においては彼の方に若干の利があった。鋭く攻め込んでやっているうちに、男は正攻法では勝てないと悟ったのか戦い方を変えてきたのだった。あえて剣を収めて飛び込んできて手首を握られた。剣を奪おうとしているのだと気付いた彼は振りほどこうと抵抗したが、男は蛇のようにしぶとかった。結局もみ合いの末に剣を手放してしまい、彼は男を蹴り上て起き上がり、その場で剣を手にするのをあきらめてさっと相手から離れて間合いを取った。
「やるな。エーリッヒ。噂に聞いたことだけはある」
 先ほどのもみ合いで切れた唇を無造作にぬぐって、男はにやりと笑った。最初の一言を告げた後、男は彼と戦う間きわめて無口であった。彼がしゃべり、そして表情を変えたのはそれが初めてだったかもしれない。初めにあった時の無邪気な陽気さとは裏腹だ。
「そういう貴様は何者だ?」
 彼は剣を取り戻せないか、目の端で地面の剣を確認しながら尋ねたが、男はもうそっけない様子になっていた。
「俺の名か。つまらん名だぞ。だが、まあ、お前が死ぬ前には教えてやる」
 男は腰に剣を収めてから自分にとびかかってきたので、まだ剣を持っているのだ。小剣を抜いて戦えないことはないが、不利になるのは間違いない。
 と、ふと男が剣を手にした。
 来る! と彼は小剣の柄を握ろうとしたが、意外にも男は剣を鞘ごと手にして捨て、そのまま彼に殴りかかってきた。重い一撃を頬に食らったが、すぐさま相手の胸倉をつかんで応酬した。
(なんだ、コイツ。馬鹿か!)
 彼は、殴り合いながらそう思ったものだった。剣を抜けば、もっと楽に勝敗を決めることもできただろうに。自分から剣を捨てるとは、理解しがたい馬鹿だ。
 彼は自分がどんな顔をしながら殴り合いをしていたのか知らないが、少なくとも男が妙に嬉しそうだったことは覚えている。
 いつしか、日が落ち始めていた。暗くなる空の下、撤退を告げる太鼓の音がなっているのを彼は聞いた。勝敗がついたのかもしれず、いつもの彼なら深追いしすぎぬようにそろそろと戻るころだった。しかし、今の彼にはそんなことは関係がなかった。もちろん、その男にも。




「オタクらも大概だなあ」
 話を聞いていたハダート=サダーシュは、あきれた様子でつぶやいた。ジャッキールは、むっと眉根を寄せて不服そうな顔になる。
「奴のほうが馬鹿なのだ。戦場でわざわざ丸腰で殴り合いを仕掛けてくるなど、非常識にもほどがある」
「サシの勝負を喜んだのは、アンタもだろ? アンタだって別に持ってる武器が一本だけじゃなかったはずだぜ。刃物抜けたはずなのに抜かなかったのはアンタもだよな?」
 そう突っ込まれてジャッキールは、うっと詰まったが、わざとらしく咳ばらいをして話を逸らす。
「そ、それはともかく、まあ、奴との腐れ縁はそんな感じのものでだな」
「確かに、俺が蠍のジュバから聞いたのと大体合ってるが」
 ハダートは顔をあげてジャッキールに視線を向けて半笑いになっていた。
「夜通し殴り合って疲れて倒れたので、お互いの力量を認めて名乗りあって別れたとかいう、どっかの思春期の小僧みたいなことをしたってのも本当かい?」
「な、なんだ? 世間ではそういう話になっているのか」
 ジャッキールは、やや驚いて困惑気味にため息をつく。
「あれ、違うのか? んじゃ、もう一つジュバが言ってた、いい加減やめないので双方の味方が引きはがして終わったっていうのは?」
「それも違う。大体、夜通しというのはかなり尾ひれがついている」
 ジャッキールはため息をつき、ふむ、とうなった。
「それはそうかもしれないとは、ジュバも言ってたぜ。ジュバの奴はサギッタリウス本人にも、確かめたことがあるといっていたからな」
「なるほど、蛇王の奴、それでは本当のことを話していないのだな」
 ジャッキールは、やや不機嫌に舌うちした。何やらいわくありげな様子に、ハダートが興味深げに前のめりになった。
「それじゃ、どうしたっていうんだよ?」
「あの勝負、実のところ、奴のほうが有利だったのだ」
 ジャッキールは、やや苦々しげに言った。



 暗くなりゆく空の下、彼らの勝負はつく気配がなかった。
 自分にこれほど容易についてくる男がいたということに、彼は驚愕もしていたが、目の前の男がどこかしら歓喜を帯びていたように、彼自身とてその勝負を楽しむ気持ちがなかったわけではなかった。男は粘り強く体力もあり、その結果、勝負はほぼ互角である。果たしてこのまま勝敗がつくのかどうか、彼も疑問に思うほどだった。
 しかし、彼らであっても限界はある。二人とも息は完全に上がっていたし、徐々に足がもつれて攻撃も正確さを失っていた。砂の上に転ぶように倒れこんで取っ組み合いになることもたびたびあった。
 今となってはその男が絞め技や関節技を得意とすることを彼は知っているが、当時の彼はそれを知るべくもなかった。ただ、剣を奪われたことを考えると、あまりに接近されるのは危険だと本能的に悟っていた彼は、取っ組み合いの状態になっても彼に技をかける間合いも機会も与えなかった。結果的にはそれは正しい判断であり、もし、首を取られていたら、彼はそのまま絞め落とされていただろう。
 まだ熱を帯びた砂の上を転がりまわり、ぼやけ始めた視界にも構わず、お互いになお殺意を抱いて相手を圧倒しようとする。何度かそのようなことがあり、転げまわった結果、彼が優位な立場にたった瞬間があった。男を砂の上に押し付けて上にのしかかるような状態になり、彼はこの機会を逃すまいとした。
 と、そのとき、ふと自分をにらみあげていた男の視線の向きが変わった。彼は、その意味に気づいてはっと後ろを向いた。
「エーリッヒ、死ね!」
 いつの間にか、背後に人影が現れ、剣を振りかぶっていた。膠着状態になった戦闘に割って入ってきたものがいたのだ。目の前の勝負に没頭していた彼は完全に虚を突かれた形になり、小剣を抜きにかかるが間に合いそうになく、剣は手放して遠い場所に転がっている。万事休すと思ったとき、いきなり押さえ付けていた男が彼を突き飛ばした。そのまま、男は手につかんだ砂を襲ってきた兵士に振りかけ、素早く起き上がって兵士を襲撃した。
 彼が立ち上がった時には、男は兵士をあっさりと絞め落としたらしく、無抵抗になった彼を無造作に捨てて立ち上がったところだった。
「まったく、いいところだったのに、興が削がれたわ」
 男はそういって砂ぼこりを払い立ち上がる。彼は、兵士の腕に赤い布が結び付けられているのを見た。それは、同士討ちを避けるために与えられたものである。ということは、彼は自分と同じ雇い主に雇われたものなのだろう。
「災難だったな。貴様は名前を知られているからな。覚えのない恨みを買うこともあろう」
 心を見透かしたように男が声をかけてきた。きっと彼が男をにらみつけるが、男は興が削がれたという言葉通り、どうやらやる気をすっかりなくしているようだった。まるで闘争心がないらしく、いまだ殺気だった様子の彼とは対照的だった。
「さて、もう日が落ちた。今日のところはこれまでにせんか」
 男は、初対面の時の無邪気さを腫れた顔に漂わせ、饒舌になっていた。
「どうやら貴様は殺さねばならん男のようだが、今日はもう疲れた。これ以上やるのも面倒だしな」
 いわれてみれば確かに、すっかり日が落ちてしまっていた。周囲に戦闘の気配もなく、すでにほかのものは引き揚げてしまったようだ。彼が返事をしないでいると、男はそれを肯定と取ったらしく、さっさと背を向けて帰り始めていた。
「それではそういうことだ。続きは次回にな」
「待て!」
 彼は、ぶっきらぼうにそう呼び止めた。男はくるりと振り返る。
「なんだ。先ほど助けた借りならいいぞ。そのうちお前の首をもらい受けるつもりだから、邪魔をされたくなかっただけだ。それで払ってもらえればよい」
「そんなことをきくために止めたのではない」
 彼は不機嫌さを隠さなかった。
「俺は貴様の名を聞いていない。俺の名を一方的に知られているのは腹立たしい。名乗れ!」
「お前が死ぬときには名乗ってやるといったぞ」
「俺が殺すときに不便だ。名乗れ」
 はっはっは、と男は豪放磊落に笑う。
「俺が通常使う名前は不吉なもので、名乗るのがちょいと面倒でな。だが、そうだな。せっかく殺すと決めたのだから、予約票ぐらいは置いて行ってやろう」
 と、男はふと思い出したように懐に手を入れると、紙と携帯用の筆入れを取り出して何事かをさらりと書き連ねたようだった。
 男はそれを彼のほうに投げやる。彼がそれを拾い上げ、暗がりに目を細めて眺める。
「ザハーク」
 確か、ここの古い邪悪な蛇の名前だったか。異邦人の彼には、その不吉さはさほどは理解できない。しかし、それだけでなく、そのあとに彼には到底読めない文字らしい東方風の意匠の図形が連ねてあった。
「ザハークは俺が名乗るべき名」
 男は言った。
「しかし、その後の文字の名前が俺の本当の名前だ。滅多と人に教えるものではないが、特別に教えておいてやろう」
 貴様の首は、とザハークは彼に背を向けながら笑った。
「どうやらそう簡単にはもらい受けることもできなさそうだからな。不本意ながら長い付き合いになりそうだ」


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