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苦い昼の挿話-3



 ゆるやかに紅茶から湯気が立ち上っていた。
 ザハークの部屋からお茶を持ち込んで、二人は向かい合って座っている。どこからともなく菓子をだしてきたザハークは、その菓子をボリボリ齧っていたが、菓子の粉が床に落ちていることを後でジャッキールにとがめられると思うと、シャーは少しだけうんざりした気持ちにならないでもなかった。ジャッキールは綺麗好きで、それこそ床に塵一つ落ちているのも許さないような男なのだ。この古い部屋ですら、綺麗に磨き上げて修復してしまっているので、おそらく、同じ形のザハークの部屋とはベツモノになっているだろう。
「いいのかな、適当に散らかしちゃって」
「ヤツは掃除が趣味のような男だからな。たまには汚してやった方が、掃除のし甲斐もあろうというものだ。生き甲斐をあたえてやっているようなものだろう?」
 気になってシャーがそう尋ねると、ザハークは寧ろ得意げだ。
「大体、あの男、昔から、死にたがりだからな。生き甲斐を定期的に与えてやるのも人情だぞ。掃除し終わらない内は、死ぬ気にもならんだろうが」
「それはそうかもしれないけどさ」
 シャーは、やや苦笑気味だ。
「でも、ダンナって昔からああなの?」
「俺が知る限りはああだったな。もっと前は違ったかもしれないが、俺が知った時のヤツは既にああいう男だった」
 ザハークは、いってしまってから、いや、と付け加えた。
「昔はもっとアブナイ男だったな」
「え? 今よりも?」
 シャーは、やや驚いて飲もうとしていた茶碗を机の上に戻す。
「今は、随分と落ち着いていると思うぞ。あんな冷静なエーリッヒを見たのは、本当に久しぶりだ」
 ザハークは、ゆったりと紅茶をふくみながら、やや剣呑な笑みを浮かべていた。
「一時期のヤツはな、近づくとこっちの身が切れそうなぐらい殺気走っていて、それだけならまだいいのだが、まあ、俺が言えたクチではないが、とにかくマトモな人間じゃなかった。精神的にも随分と不安定でな、ふふ、俺はな、ヤツと次に再会した時、ヤツは正気ではないと思っていたんだ。だから、今の状況は意外にも思っているし、嬉しく思っている」
 ザハークは、やや苦くにやりと笑った。
「俺とエーリッヒが最初に会ったのはな、ここから少し東方のとある戦場でだった」
 ザハークは、少し目を細めて続けた。
「俺は傭兵稼業を始めたばかりの駆け出しだったが、ヤツは既に名が知られていたな」
 シャーは、なんとなく茶を飲みそこねたまま、ザハークの顔を見ていた。当のザハークは思い出をたどるように、立ち上る湯気をぼんやり見つめながら、そして、唇を開いた。
 
 
 リオルダーナとザファルバーンの国境周辺は、ここ百年ほど落ち着いたことはなかった。
 ザファルバーンの前王朝は、内部腐敗で疲弊しており、そのスキにリオルダーナ側が領地を奪ったり、属国を増やしたりして勢力を拡大していた。その後、セジェシスが新しい王朝を建て、国内をあっさりと平定した。その後、彼と彼の背後にいたハビアスが取ったのは、大々的な領土拡大政策だったが、当然、リオルダーナに奪われた領地を取り返すために東征を行った。その東征を担当したのは、当のシャーであり、シャルル=ダ・フール王子であるわけであり、彼らが直接出会うきっかけとなった大東征につながるわけだが、それはまた別の話だ。
 ともあれ、傭兵でよりよく稼ぐ為に、ザファルバーン側からもリオルダーナ側からも傭兵達が集まっていた。
 ザハークが故郷を捨てて傭兵稼業を始めた頃も、シャルル=ダ・フール王子の何度目かの東征が行われており、リオルダーナ側からも西方への王の親征があり、兵士の募集が途切れることはなかった。そんな事情もあって、ザハークはとりあえず仕事を求めて西方を訪れたのだった。
 そこでは小国が複数あり、どちらに従属するか決めかねている国も多かった。それらの諸国もまた自衛の為、はたまた、どちらかの国に味方するために戦力を欲していた。ザハークは、その中立国の一つにたどり着き、雇ってもらうことにした。
 リオルダーナとザファルバーンは、多少方言の違いはあれど言語や文化において共通項が多く、両国から兵士達が集まっていたが、別にザハークも居心地が悪くはなかった。彼はまだ新入りの部類であって、まだその腕前を恐れられてはいなかったので騒がれることもなかったし、リオルダーナ人も多かったが、辺境地域の人間がおおいせいか、前王朝の血を引くという厄介な彼の出自を知るものもいなかったので好都合だった。
 ただ、傭兵達の部隊は募集をかけた二人の将軍によって、二つに分けられていて、お互い交流はほとんどなかった。ただ一度、訓練後の休憩時に、二つの部隊は一緒になって休んだ。
 その時、ザハークは、自分の所属していな部隊の間を通る機会があった。その部隊は、ザハークの所属していた部隊に比べ比較的遠方の兵士たちを雇っているらしく、ところどころ聞き慣れない外国語が飛び交っていた。そして、その時に彼を見かけたのだった。
 その男は、一人、他の兵士達からは離れて剣の手入れをしていた。背が高く、役者にもいないような稀な美青年といった顔立ちである上、随分と上品だった。流れの傭兵というより、どこかで儀杖兵でもやっているのでないかと思うような洗練された身のこなしをしていて、明らかに周囲から浮いていたのだ。黒い服をきていたが、顔色だけは青白い。その容貌も、どこかしら北方の血が混ざっているのではないかと思わせる風貌で、ザファルバーンでもリオルダーナでもなかなか見かけぬ顔立ちをしていた。リオルダーナもザファルバーンも交易で成り立ってきた国であるので、異国の異民族がいたとしても大して驚くことではない。まして、彼の組には遠方の兵士が多く、彼とてその一人だとすれば、別に気にすることはなかったのだが。
 通りすがる一瞬に、ザハークは何かその男の身辺に見逃せない何かを感じたようだった。
「やあ、暑いな」
 何を思ったか、ザハークはふと笑いかけて彼に声をかけた。男は、ふいと顔を上げた。陰気で老けてみてたが、意外と若いのかもしれない。優雅な顔立ちをしている割に、その目つきは異様に冷く、静かに殺気をたたえているようだった。通りすがる一瞬に感じたとおり、彼の身辺には染み出すように不吉な気配が漂っていた。几帳面に整えられた外見にも関わらず、血の臭いが染み付いているような気がした。
(何だコイツ……)
 ザハークは、今までになかったような感覚を覚えて戦慄したが、そんなことはおくびにも出さずに愛想良く続けた。
「剣の手入れか。なかなか業物をお持ちらしい」
「……ここに来てから三月になるが、使う機会がない。鈍っては困るからな」
 男は直接的には返答せずに立ち上がり、唇をゆがめた。しかし、男の側もザハークの事が気にかかったのか、それとも何か思惑があったのか会話を続けてきた。
「貴殿は、あちらの組か?」
「そうだ。ちょっと野暮用があってな。俺は、ここにきてまだそれほど経っていないのだが、どうやらこの国は平穏だな。俺達のいる意味もあまりないようだ」
「はは、それはどうかな? 近日中に、腕を振るう機会があるかもしれん」
 男は意味深に冷たく笑った。
「何だ? そんな予定があるとでもいうのか?」
 ザハークは小首を傾げる。
「貴殿はおかしいとは思わないのか。何故、我々は二つに分けられているのか? 実はな、この国は揉めているのだ。このまま中立を貫いても勝ち目はない。いずれはザファルバーンに着くか、リオルダーナに着くか、二つに一つ」
「それはそうだ。本気で抵抗しても長持ちせんだろう」
「実はな、我々を雇った将軍はそれぞれザファルバーン派とリオルダーナ派の将軍だという話がある。貴殿はリオルダーナ人だな。そちらの将軍の組には、リオルダーナ人が比較的多いときいている」
「まあ、そう言われればそうかもしれんな」
「実は、国王は、比較的距離の近いリオルダーナに着く気持ちがあるというのだが、それを反対派の将軍が大人しく聞き入れるかどうか?」
「まさか、反乱を起こすとでも?」
「ふふ、さて、どうかな? ここ数日、城では会議が行われているそうだ。それが決着した時、何かが起こるかもしれぬ」
 にやりと男は笑う。
「だが、俺はそれを静かに望んではいるのだ。そうでなければ困る。はは、ここ三ヶ月、ずっとくすぶっているのでな。……実のところ、そろそろ限界だ」
 男はにやっと笑った。その笑いはひどく冷たく、愉悦に満ちていた。瞳は笑っていなかったが、どこか内から湧き上がる野蛮な暴力的な喜びに悦に入るような。それは妖しい笑みでもあったのだ。
(なんなんだ、この男。今、なんといった?)
 思わずザハークは、体が総毛立つような戦慄を覚えた。
 それはどういう意味だ? ザハークは聞きかけたが、男はザハークから視線を外すと、ふらっと歩き出してしまった。何かに取り憑かれているようなふらふらした歩き方で、どこか洗練された彼らしくもなかった。
 そのまま、彼は自分の組に戻ったのだが、先ほどのやり取りを見ていたらしい仲間の兵士達が慌てて寄って来た。
「新入り、お前、あんなヤツに声をかけたのか?」
「いや、組は違うとはいえ、見かけない男だったからな。何か不都合でもあったか?」
「お前、アイツの事知らないのか?」
「見るからにヤバそうなヤツだろうがよ」
「まあ、それはそうだとは思ったんだがな。目があったら挨拶ぐらいしとかんとならんだろ?」
 のんきに答えるザハークに、他の兵士達が口々にまくし立てる。
「アイツは、エーリッヒだよ。エーリッヒ=ゲーベンバウアーって、聞いた事あるだろ?」
「エーリッヒ? ああ」
 その聞き慣れないはずの異国風の名前に、ザハークも聞き覚えがあった。
 その時の彼は、エーリッヒという名で通っていた。正確には、その時分は、エーリッヒ=ゲーベンバウアーという姓をつけて名乗っており、その異国風の名前で知られていた。
 彼の名乗っている名前は、すべて偽名である……らしい。その真偽は不明だが、彼自身がそういっているのでおそらく間違いないのだろう。こういう稼業は恨みを買うことも多いし、彼は若い頃は相当無茶をやっていたようだ。そのために、頻繁に名前を変えた時期があったらしい。
 姓については、その内に別の姓も含め、彼自身もあまり名乗ることはなくなったのだが、エーリッヒという名前についてはかなり長く使っており、彼がジャッキールという名前を使い出す直前まで頻繁に名乗っていたし、以前からの知り合いにはその名で呼ぶことを許していた。
 その名前は、もしかしたら本名に連なるような、それなりに愛着のある名前だったのかもしれないと勝手にザハークは思っている。
「ふむ、ヤツがエーリッヒか。聞いた事はあるぞ。戦闘中に見境がなくなるとかいう噂だろう?」
「そうだよ、だいぶイカレた男さ。だが、馬鹿に強い。暴れたら手に負えない」
「しかしだ、全滅した部隊でヤツだけが生き残って帰還したとも聞いたぞ。それだけ腕が立つのだろう?」
 ザハークが聞き返すと、仲間たちは首を振る。
「腕が立つのは間違いないところだが、それについてはどうだか。全滅したのは、アイツが殺したからかもしれないじゃねえか」
「そうだぜ。大体、病気が始まると敵味方の区別もつかねえっていうじゃねえか。とにかく、アイツが戦場にいるときは、近づかないほうがいいんだよ。新入り、お前も覚えておくんだぜ」
「そうか。あれが、エーリッヒ」
 と、ザハークは、あごひげを弄りながら向こうに見えるエーリッヒという男を見た。今は、ただ一人、周囲から浮いた背の高い黒尽くめの男といった印象しかない。ただ、もやのように立ち上る不吉な気配を除いては。
 しかし、先ほど口元に浮かんでいたのは、明らかに愉悦と陶酔の表情だ。だが、彼は何に陶酔してあの表情を浮かべたのか。それを思い返すとどうもぞっとしなかった。
「まあ、変わった男には違いないな」
 ザハークは、他の仲間にあわせて相槌混じりにそう告げながら、先ほど、彼が語った内容を思い起こしていた。それはザハークが、ここに入り込んでから懸念していた内容を裏付けるものでもある。見かけは平穏で、戦いなど起こりそうもなかったが、実のところ、自分たちが集められた理由ははっきりしている。
 エーリッヒという男は、どうやら自分の置かれている状況を見極めることはできるらしい。そして、ひそかに情報を集め、いつコトが起こるかを予測している。イカれた男だと言われながら今まで生き延びてこられたのも、はたまた一人激戦区から帰還できたことも、おそらく、腕が立って凶暴であるからだけではないだろう、
「評判と違って、意外に頭がキレるのだな。となると、どうも敵に回したくないのだが」
 もし、奴の見立て通り、将軍が反乱をおこしたとしたら間違いなく彼は敵になる。
「厄介だな」
 ザハークは無意識にそんなことを口にして、少し歪んだ笑みを浮かべたものだった。


 果たして、ジャッキールの予想は当たった。
 王国はリオルダーナへの帰順を決めたと伝えられたが、その直後、反対派の将軍が反乱を起こしたのだった。ジャッキールと彼が話をして数日中のことだ。
(いい読みだったな)
 ザハークを含む傭兵たちは、すぐさまその対応を余儀なくされた。
 ザハークは傭兵としては駆け出しであったが、それまでにも豊富な実戦経験はあったので、無難に戦っていた。彼の弓矢の腕は、幼い頃からの訓練のたまものであり、その頃にはすっかり身についていた。弓を使って有利に戦いながら転戦していたが、実のところ、その頃には彼は白兵戦においても恐ろしく強くなっていた。普通の兵士などでは太刀打ちもできないほどに強かったのだ。初めて彼の戦いぶりを見たものは、普段のどこか飄々として適当な彼の姿から結びつかないと驚いていたようだったが、そんなことなど気にも留めず、彼は弓矢を使いながら、気の向くままに移動していた。
 彼は、あることを確信していた。そして、それを捜さなければならなかった。
 あの男。エーリッヒは、必ずこの戦場にいる。しかも、敵としてだ。
 あの時、彼がつぶやいた言葉。あの暴力への期待に唇をわななかせていた彼は、その願いを叶えずにはいられなくなるだろう。
 ふと、目の前から男が走りこんできて、反射的にザハークは剣で払いのけそうになった。男は慌てて声を出した。
「ま、待ってくれ。新入り! 俺だ!」
「何だ」
 よく見れば、それは仲間の傭兵だった。
「随分慌ててどうしたんだ」
「どうしたも、こうしたも」
 彼は息を荒げていた。正確には、慌てたのでなくて彼は怯えていたに近い。彼の背後で物音がし、彼はひっと声を上げて振り返った。
 その視線の先をザハークは辿った。
「エーリッヒだ!」
 ぎゃあっという悲鳴が聞こえるのと同時に、大きく黒くひらめくマントが見えた。
「ふははははははははっ」
 乾いた笑い声がその空間を切り裂いた。そこには、ジャッキール、エーリッヒ=ゲーベンバウアーと名乗っていた男その人がいた。
 が、その様子は随分と違う。この間見た彼は、どちらかというと冷静な男だった。妖しい殺気を揺らめかせながらも、彼自身は落ち着いた印象も持っていたのだ。ところが今の彼はどうだ。歓喜をその瞳に容赦なくきらめかせながら、暴力の悦楽に身を委ねて笑っている。はっきりと狂気と殺気を撒き散らし、彼は哀れな獲物を鮮やかな手並みで斬り捨てていく。
「はははははっ、そう、随分待った!  もうこれ以上待てんほどに」
 その様子はまるで別人のようだった。
「はは、俺は嬉しいぞ! さあ、来い! 俺に殺されに来るがいい!」
 どこか恍惚とした表情を浮かべ、彼は次の獲物に目標を定める。やぶれかぶれになった兵士が、彼に飛びかかるが、それを難なく一刀のもとに斬り伏せる。
(速い! それにあの興奮状態であるにもかかわらず、非常に正確に打ち込んでいる!)
 ザハークは、その手つきを観察して思わず舌を巻いた。周囲の死体を見てもわかるとおり、彼はほとんど一撃で正確に相手を打ち倒しているのだ。その手並みの鮮やかさは見事であり、ザハークはここが戦場なのを忘れたかのように呆然とそれを眺めていた。
「エーリッヒのやつがああなったらどうしようもねえ。お前もはやく逃げるんだ!」
 傭兵仲間は、そう言い置くとほうほうのていで逃げ出した。ザハークはそれに見向きもしなかったし、実際のところ、彼の言葉すら耳に入っていなかった。
 ただ、目の前の光景にゾクゾクとした悪寒すら感じ、彼は無意識に引きつった笑みを浮かべていた。
 放心しているような彼を手ごろな獲物と、不意に近くで気合の声がして彼に突っかかるものがいた。ザハークはそちらに目も向けなかったが、確実に彼の剣を避け、そして男を肘鉄一発で沈めていた。
 彼にはもう周りの雑音も風景も目に入らなくなっていた。彼の視線の先には、黒い衣服を翻して暴れまわるあの男だけだ。
「面白い!」
 彼は呟くと、そっと弓と矢を数本手にとり、素早く弓を引いて彼に狙いをつけた。男がコチラに気づいた様子はなかった。彼は引き絞った矢を彼に向けて放った。
 

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