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サギッタリウスの夜-2


 彼は馬に乗り、戦場を駆け抜けていた。
 彼は幼少期から、戦場にいた。前線を走り抜けることは、それこそ乱戦のときぐらいだったが、別に珍しいことではない。
 いつもどおり、彼は青い軍衣を纏っていた。兜の上には、青く染めた孔雀の羽がたなびき、青に染め抜いたマントには、細やかな植物の刺繍がなされている。
 戦場でも目を引く真っ青な将軍の彼の本当の正体は、敵味方どちらにも噂程度でしか流れておらず、知る者はそうそういないはずではあったが、どちらにしろ、彼が将軍として一種の象徴的な存在だったことは確かだった。そのため、狙われることもないわけではない。
 彼はそれを承知で前線に出ていた。自分が出て行くことで、兵士達の士気が上がることを彼は知っていたし、その日は、そうせざるを得ないほどの激戦だったのだ。
 だが、その日は、いつもとは明らかに違った。
 明らかに誰かに狙われている気配がひしひしと肌に感じられ、落ち着かない気分だったのだ。どこからか、自分を狙っているものいて、それの殺気を本能的に感じていたのだろう。
 どこだ。どこだ。一体どこから。
 目の前の敵をやり過ごしながら、彼は焦燥に駆られていた。いつもなら、すぐに相手の場所に気づいていて、そちらに対して用心しているはずだった。それなのに、その日だけは、どうしても自分を狙う敵の存在を見つけることができなかったのだ。もちろん、それだけ戦闘が激しかったこともあった。
 だが、そのことで、彼はますます焦りを募らせていた。それがいけなかったのか、彼は敵陣の深くに入り込みすぎてしまった。味方に先んじてしまって、瞬間的に孤立してしまったのだ。
 その状況をマズイと思った彼は、敵の囲みを強引に突破しつつ、状況を打開しようと動いたが――。
 そのときになって、ようやく彼は自分に初めから向けられていた殺気の主に気づいたのだった。
 ちょうど囲みを破って視界が開けた先に、その男は立っていた。真っ黒な衣服をきたがっしりした男だった。それぐらいしか覚えていない。その男から発せられる殺気が彼を突き刺すかのようだった。
 と気づいた時には、すでに遅かった。
 空気を切り裂く音が、耳を劈いた。避けることもできなかった。左胸に衝撃があり、彼はそのまま落馬した。落ちながら自分の胸を見ると白い羽のついた矢が突き立ち、赤い血が青い空にさかしまに流れていった。
(あぁ、オレ、とうとう死ぬのか……)
 彼は漠然とそう思った。
 背中から落ちる衝撃の代わりに、彼は目を覚ました。目の前にあるのは、青い空ではなくて、ここ数日見慣れている天井だ。反射的に起き上がろうとして、左胸に激痛が走った。
「いっ、てえ……!」
 彼は左胸をおさえつつ呻いた。そこに矢が突き立っていたのは、もう五年近く前のことだ。

 

 
「畜生、夢見最悪だぜ」
 シャーは、ぶつくさ呟きながら、酒場までの道を歩いていた。
 このところ、例の暗殺未遂事件のせいで、街中は緊張状態が続き、歓楽街は自重している場所が多かった。リーフィの働いている酒場も、ようやくここ二日ほどで再開したところだ。その間、シャーは、ゼダが貸してくれた例の別荘に潜んでいたのだった。
 今回については、シャーはある意味当事者であるので、それなりに参っていた。
 いつもなら、何か異変があった時は、さすがに一度は、宮殿には帰ることが多い。そうでなくても、こう見えて、彼も、一応、月に一度は仕事をしているのだ。その際に、一応宮殿の中の様子を確認してくるのである。
 そもそも、幼い頃から戦場ばかり巡り、剣術を中心に戦闘訓練を積んできた彼は、将軍としてはそれなりに有能ではあったし、こういう性格をしているので、それなりに相手との交渉も苦手ではない。しかし、庶子扱いだった為もあり、彼は領地らしい領地を与えられていなかったし、まともな帝王学も学んでいない為、内政については自他共に認めるド素人であり、苦手にもしていた。法律の条文がどうのこうのも、税金の計算の仕方も、ろくろく知らない。
 それについては、レビ=ダミアスが、補佐をしてくれていた。普段は、病弱でのんびりした彼だが、元から領地を与えられていたことがあり、政治の才能については、一定の評価もされている。本当は不在のシャルル=ダ・フール王の身代わりを務める彼は、実際に、摂政といってもよい役割を体力の許す限り果たしていた。
 とはいえ、勅命を出せるのは、あくまで「彼」だけ。
 勅命をあらわす花押は、彼にしか書けないので、特に緊急を要しないものについて、一ヶ月に一度、命令書を決裁し、サインをする仕事が彼には与えられていた。
 もちろん、彼のところに行くまでに、官僚達の間で十分話はまとまっているし、彼は、よほどでない限り、ただサインをすればいいだけなのだが、そもそも、彼はデスクワークというものが全く向いていない。机の上に一時間座るのが苦痛でならないのだ。
 そんな彼が、一ヶ月に一度、執務室で五時間ぐらい座ってどうにかこうにか書類の山をやっつけて、それで貰えるお駄賃が彼の一ヶ月の放蕩生活の為の生活費になっている。もちろん、それだけで食っていけるはずもないので、必然的に、あっちこっちで酒をたかる羽目になるのだ。
 もっとマジメに働けばよいのだが、それができるようなら、そもそも、こんな生活などしていない。
 そして、以前、彼が一端の不良青年を気取っていた時に、彼の求めるままに金銭を提供したところ、誰の歯止めもきかなくなって、立派な暴君になってしまったことがあり、それを引き止める為に、あくまで彼の給料は時給制なのだった。
 そんなわけで、この国で本来なら最高権力を持つはずの「彼」が、この町の片隅で、ほとんど浮浪の生活を送るという、何となく理不尽な状況が続いているのである。
 まあ、その件に関しては、彼は別に悪く思っていない。豪華でふかふかの寝台で寝るより、路上で筵かぶって寝ているほうが落ち着くぐらいなのだから。これで、彼も平穏な精神を保てているのだ。
 とはいえ、彼もこの二重生活を送る上で、一応、責任は感じていた。それも、今回は自分の命が狙われたということなのだから、気にならないはずがないのだ。
 しかし、ここで彼が派手に動けば、あくまで今は相手に居場所も顔も知られていないのに、自分をアピールすることになってしまう。そういうこともあって、向こうからも、しばらく戻ってくるなとも言われているし、自分も戻らないほうがいいとは考えているのだったが――。
 彼の性格上、気にならないわけがない。
 そして、もう一つの問題は、生活費。この間、数少ない小遣いを全額酒代につぎ込んでしまったため、彼の持っているのは、ジャッキールから恵んでもらった小銭だけだ。
 酒場も再開したばかりだし、ああいう事態が起こったばかりで、酔っ払って街中を歩くと、兵士達に難癖をつけられると困る。そんなことから、いつものように舎弟たちに酒をおおっぴらにたかれない。
 ここのところは、なにやら彼を心配しているらしいゼダが、定期的に差し入れをもってきてくれたが、わざと嫌味の一つでも言って帰るし、彼に対してはどういうわけか意地を張ってしまうシャーとしては、あまりゼダの世話にもなりたくない。
 ということで、こんな状況が続いているのは、彼にとっても滅入ることには違いなかった。
「にしても、なんだか痛えなあ。この間ので、マジで古傷のとこ、折れちゃったんじゃないかな」
 夢を見て起き上がった後、例の左胸の古傷が痛んでいたのを思い出し、シャーは肩を回す。普段はそれほど痛まないのだが、ここのところ、思い出したように痛くなる。
「あーあ、やってらんねえなあ。面白くねえ」
 シャーは、そういって悪態をついたが、ふと目の前から来る連中を見て、慌てて路地裏に身を隠した。
 そこを闊歩しているのは、最近、王都中をうろついている兵士達だ。シャーみたいに普段から怪しい風体の男は、何かと職務質問を受けやすいのだが、今のような状況だと、必ずといっていいほどつかまる。
 しかも、その兵士達の先頭に立つ色の黒い男は、メハルという名前で彼らの隊長をしていた。どうやら、元々はジェアバード=ジートリュー将軍の部下らしいのだが、意外に勘が鋭いし、シャーの力についても気づいているらしい。事情は知っている筈なので、一度、話を聞いてみる手もあるのだが、多分、今行くと怪しいとか言われて質問攻めにあうにちがいなかった。
 何となく滅入った気分の今日は、関わりたくない相手だ。そんなこともあり、彼が完全に行ってしまうのを路地裏で待つことにして、シャーはため息をついた。
「ああ、やだなあ。こんな生活ぅ。元の生活に戻りたい」
 シャーが、ぐんにゃりと背筋を丸めて本音を吐いたところで、不意に路地の向こうから数人の男達がやってきて、あ、と声を上げる。
「あ、兄貴、こんなとこにいたんですかい!」
 と顔を見ると、酒場にいるいつもの顔ぶれが数人だ。先頭にいるのは、カッチェラである。
「あれ、お前ら、何やってんの?」
 なにやら慌てている彼らをみて、シャーはきょとんとした。基本的には、連中はシャーには寛容ではあるのだが、金食い虫の兄貴をわざわざ探すことは珍しい。どうしても盛り上げ役が欲しいときなどは別なのだが、必死に探されることは今までなかった。
「ちょっと、兄貴、大変なんですよ」
 シャーが怪訝にしているのをみて、カッチェラは駆け寄ってそんなことをいう。
「た、大変って、何が?」
 何かとんでもないことが起こったのかと、シャーが驚いていると、カッチェラは強引に彼の服の袖を引っ張った。
「とにかく、来て下さいよ。説明するより、見る方が早い!」
「え? 何、なになに、何なの?」
 意味がわからないシャーを引っ張って、彼らはいつもどおり酒場の方に向かうのだった。

 

 酒場には、妙な空気が漂っていた。
 彼女は、その空気に居心地の悪さを感じていたものだ。
(どうしよう。……シャーの様子を聞いて、そのまま帰る予定だったのに)
「お茶でいいかしら? 何か好みの味付けはある?」
 そう尋ねてきたのは、リーフィという酌女だった。まっすぐなつややかな黒髪の娘で、年は同じぐらいか少し年上ぐらいか。ほとんど表情が変わらなくて、冷たい感じも受けるが、どうやら他意はないようだ。彼女の言動は、ひたすら親切である。
 シャーの様子を聞こうとしたところ、リーフィが微笑んでいったものだ。
「シャーなら、そろそろ来る頃よ。お茶でも飲んで待っていてくれればいいわ」
 そういわれて、何となく断れなくて、席についてしまっていた。
「え、ええ、お茶をお願いするわ。味付けは、お任せするから」
 彼女が答えると、リーフィは、ええ、と答えて奥へと引っ込んでいった。
 リーフィに変わった客が来ても、あまり他の女の子達は驚かない。
 彼女に変な客が現れるのは、割りに日常茶飯だった。とはいえ、前のミシェのときのように、いきなり修羅場になるのは珍しかったが。
 酒場の女の子達がお互いの過去を語ることは少ない。事情があって、こういうところで働いているものも、少なくはない。その中でも、リーフィは特別に謎の多い存在であることは確かだった。リーフィが、どうやらもともと高級妓楼で働いていたらしいということは、噂で知られていたが、それにしても、一体、彼女がどれほどの妓女だったのかということを知るものはすくないし、本人も口にしない。この酒場の主人とは、そのころからの知り合いであるらしく、彼が行き場のない彼女を哀れんでここに雇ってくれたらしいという話もよくきいている。
 ただ、彼女の前に彼女を目当てに現れる客達は、この酒場の客層とは、明らかに違うものが多く、その多くは年配の文化人風の男が多かったりもし、彼女となにやら難しい話をしたり、将棋を指したりして帰っていく。
 そもそも、彼女にとって上客のシャーとて、客としては十分に変な奴なのだ。
 日常的にそんな風なので、彼女に変わった客がきても、いつもどおりのことだった。
 それなもので、女の子達の方は、特段気にしない様子だったが、今回、彼女に奇妙な視線を投げかけているのは、客のほうだ。客の男達が、何があったのかと彼女を見ているのである。
 なにせ、シャーをたずねて女の来客があるのは、非常に珍しいのだ。
 シャーに対して、変な男の客がやってくるのは、まあまあ珍しいことでもない。彼に得たいの知れないところがあるは、皆わかっている。例の黒服の軍人風の見るからに危険な男や、童顔の若旦那と彼がつるんでいるらしいことは知っているが、どうせ存在自体が胡散臭い彼だ。何があってもおかしくないと思っている。
 ――だが、女は別。
 何がいけないのか、女の子達にもてたためしのないシャーを、わざわざ訪ねてきた。しかも、リーフィに様子を聞くなどという事態。
 シャーにとってはあり得ないことではあるのだが、彼を追いかけてきた女というシチュエーションが、そもそも、彼らの興味をかきたててしまっている。
 特に近頃、シャーはリーフィと仲がよい。まあ、あれは、ただ単に仲がいいだけらしいので、まま、あり得ないとわかっているのだが、もしや、このまま三角関係勃発か! と冗談交じりに男達が盛り上がるのも仕方がない。特にあんな事件があった後で、娯楽に飢えている連中のこと。こんな面白い状況で騒がないわけがない。
 だが、そんなことは、彼女にはわからない。ただ、妙な空気だなと思っているだけだ。
 一方、リーフィといえば、そういう空気にも、一切動じた気配がなかった。無愛想なほど冷静なリーフィは、彼女からすると激しく謎めいた存在である。
 第一、こんなうらぶれた場所の酒場にいるのがおかしいほど、リーフィは目立つ美人だった。それこそ、王宮でもそうそう見ないぐらいだ。
(ど、どうしよう。……すごい綺麗な人)
 少なからず、彼女は動揺していた。
 アレから随分経っているし、シャーにでもそりゃあ恋人ぐらいできてもおかしくない。のだが、実際に、それらしい人物と会うと、何かと複雑だった。
 しかも、その相手が、こんな酒場にいるのがおかしいような綺麗な女だったのだ。そして、この氷のような落ち着きに、淑やかで滑らかな動作。一体どういう女性なのだろう。
 そんな彼女を、ちらちらと見ながら、うっかり自分と比較してしまうのだった。
(綺麗だし、色気もあるし、落ち着いてるし、女らしいし。シャーってば、いつの間にこんな人を……)
 じっと彼女を見やりながら、ため息などついてしまう。
(ちょっと冷たいかなと思ったけど、とっても優しいし。私なんて全然勝てない感じよね。……しいて言うなら、胸の大きさぐらいしか勝てないもの。あ、あれ、この人と何を勝負しようとしているの……。べ、別に私、彼のこと……)
 色々想像しすぎて、軽く混乱に陥っていたところ、その様子を怪訝そうにみやりつつ、リーフィが席に戻ってきた。
「どうしたの?」
 リーフィにきかれて、慌てて彼女は首を振る。
「い、いえ、ごめんなさい。なんでもないの」
 そうなの、といいつつ、リーフィは、彼女の目の前にお茶と茶菓子を差し出した。
「ラティーナさんだったわね」
「え、ええ」
「多分、シャー、そろそろ来ると思うの。もう少し待ってくださるかしら」
 そういって、彼女はラティーナの反対側に座った。
「彼、このところ、何となく塞ぎこんでいたから、きっと喜ぶわ」
 リーフィは、そういってほんの少し微笑む。彼女と付き合いの短いものには、その表情変化はほとんどわからないが、リーフィが、何となく和やかな雰囲気で自分を迎えているのは、ラティーナにもわかっていた。
 そして、すでにその頃、そんな彼女達の様子を、到着した当人が、非常にひやひやしながら覗いていることには、二人とも気づいていない。



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