一覧 進む その日の戦いは、非常に激しいものだった。 日没。凄惨な光景を全て赤く染めてしまう時間。 全てが赤く染まった世界で、彼は抜いた剣をおさめることもなく、まだ手にぶら下げたまま膝をついていた。精緻に整った白い顔には、べっとりと返り血が塗られたままで、凝固しはじめたそれらがはがれ始めている。それは、彼が、美しい容貌をしているがゆえに、かえって禍々しさを演出していた。 その時、傭兵ではあったが、すでに隊長職として召抱えられていた彼だったが、周りに部下達はいなかった。 普段、彼に付き従う取り巻きのセトですら、十分距離をとって、夜を越す為の作業を始めた他のものたちと同じ場所にいるぐらいだ。 とはいえ、この状態は、彼、ジャッキールにはそれほど珍しいことではなかった。 普段は、ただの陰気な男としての印象の強いジャッキールは、戦闘において彼は狂気の世界に陥ることで、周囲から恐れられていた。剣の腕は立つし、頭も切れるが、とにかく戦闘中に常軌を逸してしまうことがあり、そういう時は、敵味方の見境がつかなくなることすらある。 そして、そういう彼が、その後に、こういう風に座り込んで呆然としていることも、よく見る姿ではあった。狂乱した反動なのか、しばらく動かなくなり、瞳孔が開きかけたような目で、ぼんやりと虚空を見つめる彼の姿は、隙だらけだが、不気味でもある。 第一、この男は、この土地で生きるものにしては目立つ程度に潔癖症だった。顔に返り血がついたまま、それが凝固してしまうほど放置できる男ではないし、ましてや、彼が非常に大切にしている剣を鞘におさめもしないまま、放置いているということも、今、その男が正気でないという証拠にもなっていた。 どうにか前線から戻ってきたものの、多分、そこでふっつりと気持ちが途切れてしまったのだろう。 以前に、この状態の彼に水をかけてからかった男がいたらしいが、彼の狂気に再び火をつけてしまったのか、首をへし折られたらしいという噂があった。それが本当かどうかは知らないが、この状態の彼に敢えてちょっかいをかける奇特な人間もいない。 「おい、お前ら、どうした? そんなところで。ぼんやりしていると日が暮れてしまうぞ」 遠巻きに彼を見やるものたちに無邪気に声をかけてきたのは、立派な髭の長身の男だった。黒い布で頭を蓋い、弓を背中に担いで、手には飲みさしの水筒を握っていた。彼は、この戦いの後でも疲労の色がうかがえなかった。陽気という表現が正しいのかどうかわからないが、いつもと変わらぬ様子だった。 男は、かつてリオルダーナの没落貴族の嫡子だったといわれているが、本人がそうであるという話をすることはほとんどない。ただ、男は、その大らかで奔放な性格とは裏腹に、美丈夫といってよい立派な容姿をしているし、どことなく気品が漂っていたので、その噂を信じているものも多かった。 その男の本当の名前は、この地で忌まれる神の名前と通じることから、あまり知られていない。そのため、自らその名を名乗ることもあまりせず、もっぱら、異名であるサギッタリウスの名で知られていた。 「い、いや、その……、隊長が」 そう誰かが答える間もなく、サギッタリウスは、呆然と座りつくす彼に気づいて、片目を引きつらせた。 「なんだ、エーリッヒではないか」 サギッタリウスは、ジャッキールを、彼がかつて名乗っていたらしいエーリッヒという古い名前で呼ぶ。それが本名というわけではないらしいが、確かに、一部の古い知り合いから、彼はエーリッヒという名前でも通っていた。 そのサギッタリウスとジャッキールが、かつて戦場で見え、徹夜で殴りあいをしてまで勝負がつかなかったという、宿敵同士であることを知っているものも少なくない。彼らの仲は険悪とされており、顔をあわせるとにらみ合いをしていたものだ。だが、その一方で、人の寄り付かないジャッキールに、サギッタリウスが無遠慮に話しかける姿も良く見られていた。 サギッタリウスは、周囲のものが止めようとするのもかまわず、ズカズカとジャッキールの目の前に歩いていた。 「エーリッヒ」 声をかけるが、ジャッキールは反応をしない。サギッタリウスは、眉根をひそめ、水筒の水をジャッキールの顔にいきなりぶちまけた。周りの者が、どうなることやらと遠巻きに眺める中、彼は一喝した。 「エーリッヒ、ひどい面をしている! 寝ぼけてないで、顔を拭いてこい!」 ジャッキールは、静かに彼の方を見た。その視線を無視して、サギッタリウスは人気のない砂丘のほうに出て行った。 サギッタリウスは、まだ昼間に溜め込んだ熱を、放出し切れていない砂の上に胡坐をかいて座り、沈む夕日を眺めていた。 何を考えているのか、瞑想でもしているように見えるほど、彼は身動きもせずにそこに座ってぼんやりと太陽が地平線に消えていき、夜の気配が迫るのをじっと眺めていた。 「何をしている?」 そう背後から聞かれて、彼は、ちらりと振り返った。そうしなくても、声で誰だかわかってはいたのだが。 そこにいるのは、顔を綺麗に拭いて、衣服の乱れを正したジャッキールだった。まだいつもどおりの冷静な印象はないが、一応落ち着いたのだろう。 サギッタリウスは、くすりと笑った。 「ほう、ようやく目が覚めたかエーリッヒ」 「さっきは、どうやら見苦しいところを見せたらしいな」 ジャッキールは、苦々しげだった。 「ふん、のぼせあがって正気を失われても困るからな。俺がその首を落とす時に、狂った貴様だと価値が落ちるだろう」 「貴様に取られる首などないわ。別口をあたるんだな」 ジャッキールは、不機嫌にそう返した。そういう返事ができるということは、彼が、落ち着いてきた証拠ともいえた。彼は、少しため息をついて、ぼんやりとまだ落陽を眺めるサギッタリウスに言った。 「貴様こそ、こんなところで何をしている。上官たちが捜していたぞ」 「どうせ祝勝会でも開くのだろう。だが、俺は、今日は静かに過ごしたい気分でな、そういうどんちゃん騒ぎに参加したくない。エーリッヒ、貴様が代わりに行けばいい」 「残念だが、俺は貴様以上にああいう場所が苦手でな」 他意がないらしく、無邪気にそんなことをいうサギッタリウスに、ジャッキールはうっとうしそうな口調で答えた。 「ふふ、いいだろう。貴様は、上に気に入られている。たまには愛想よくしてやったらどうだ」 「そういうのが苦手だということは、貴様、よく知っているだろう」 やや苛立ったようにいうジャッキールに、サギッタリウスはにやりとした。 彼らがそういう風な会話をするのは、珍しいことではなかった。しかし、彼らはお互い不倶戴天の敵だと、心の中では思っている。敵対する理由がないので、今は剣を交えないだけのことだ。 ジャッキールにしても、常にこの男はいずれ殺さねばならぬと思っているし、多分、相手もそうなのだろうと感じていた。それでいながら、ジャッキール自身も不思議ではあったが、彼がこんな風に戯れた言い合いをする相手は、サギッタリウスぐらいしかいなかった。 それは、サギッタリウスの性格に寄る部分も多かったが――。 そんなことに、ふと、思いを寄せつつ、ジャッキールはため息をついた。 「敵の指揮官を射殺したのはお前だろう。今日の勝利の立役者は、貴様だ。だから、上がお前を捜している」 サギッタリウスが、彼のほうをちらりと見上げる。 「俺からも、祝辞を述べておく」 ああ、とサギッタリウスは、薄く笑みを浮かべた。 「あの青い兜のヤツのことをいっているのか」 「そうだ。先の戦場で手合わせして以来、俺もその首を狙っていたのだが、貴様に先を越されたらしいな」 そういうジャッキールの声は、珍しく素直に残念そうな響きを持っていた。サギッタリウスは、にやりとする。 「お前がビシェッツで、ヤツを仕留め損なったのは、相手が小僧だったからだろう? うっかりと手を抜くからそういうことになる」 「別に手を抜いたわけではないぞ」 むっとして言い返すジャッキールだが、サギッタリウスは、顎に手を置いてやり返す。 「お前は相手が餓鬼だと見ると、すぐ甘やかす。部下の小僧にも随分甘い。しかし、そういうのは、命取りになるぞ」 「余計なお世話だ」 サギッタリウスを睨むようにしてそういうと、彼は不意に笑い出した。 「はは、だが、今回は、俺も他人のことはいえないのだがな」 そういって、彼はやや自嘲気味になった。 「何がだ?」 「小僧に甘いのは、俺もだということだ。先の青い兜のヤツを間近でみると、思ったより餓鬼だったものでな。そんな風に考えてしまって、思わず狙いが甘くなってしまった」 サギッタリウスは、目を細めた。 「だから、あの小僧は死なんだろう。長いことこういう商売をしているが、こんな経験は初めてだ」 彼は一人で話し続けていた。 「しかし、俺も外したエモノをそのままにしておくのでは、名が廃る。いずれ、あの小僧は、射抜かねばならないだろう」 はは、とサギッタリウスは、歯を見せて笑った。 「そもそも、俺が的を外したのは、あの小僧以外では、エーリッヒ、貴様ぐらいのものよ。貴様も小僧も、いずれは殺さねばならん。仕留めなければ、俺が満足しないのだ」 「馬鹿馬鹿しい」 ジャッキールは、目を伏せて苦笑した。 「何度も言うようだが、貴様に取られるような首はない」 そうかな? と、サギッタリウスは笑みを漏らしながら答えた。 すでに周囲の気温は、下がり始めていた。太陽は地平線の向こうに消え、星は東の空で瞬き始め、夜の到来を告げていた。 その後、リオルダーナとザファルバーン間の戦争が終わり、生き残った青い兜の少年はザファルバーンに戻ったとされている。しかし、その後の行方はわからない。ジャッキールも、戦争終結直後、行方不明となった。彼が重傷を負ったのは目撃されており、死んだとの噂が流れていた。 宿敵の死の噂を聞いても、顔色ひとつ変えなかったサギッタリウスは、故郷であるリオルダーナに別れを告げて、きままな漂泊の旅に出たとされているが、彼がどこを目指したのかはわかっていない。 サギッタリウスの夜-1 「ありがとう、ここでいいわ」 馬車でそこまで送られた彼女は、その路地に入る前に従者に礼を言った。 街の喧騒は、元の王都の状態に戻りつつあった。 神殿で国王シャルル=ダ・フールの暗殺未遂があってから、もう一週間経つ。 犯人は捕まらないらしいが、いつまでも厳戒態勢でいるわけにはいかない為、そろそろ街は日常に戻りつつあった。とはいえ、警備の兵隊が街をいつもより多く歩いており、いつもより物々しい雰囲気が漂っていた。 そのため、さほど治安の悪そうなこの地区に、彼女を置いていくのに躊躇していた従者を、どうにか説き伏せることができた。 従者を見送って、彼女は、その路地に入り歩き始めた。 改めて首をめぐらせて、周囲をうかがったが、かつてと変わらない雰囲気に思わず目を細める。 彼女が、この界隈を歩くのは、実に久しぶりだった。 「全然変わらないわね、このあたり」 彼女は懐かしくなっていた。 彼女が、以前ここにやってきた時は、大それた計画を胸に秘めていて、とても周辺を散策するような状況ではなかったが、改めて周りをみると、それなりに雰囲気のよい場所のようにも思えた。建物は全体的に古いが、長い混乱期や内乱の時期の戦火を逃れており、風情もある。そして、うらぶれていながら、ささやかに陽光の差し込む生活観のある町並みには、なんともいえないのんびりとした時間が流れており、「彼」がこの場所を愛して住み着く理由が、彼女にはわかるような気がしていた。 あれから、もう随分経った。 編んでおさげに垂らした長い髪の毛が、背中で揺れていた。 (元気にしているのかしらね) 彼女がここに来たのは、そもそも「彼」に会うためだ。 それは、彼女にとっても楽しみではあったが、同時に不安なことでもあった。あのころと違って、彼女は、「彼」の正体を知っているのだ。それは、あのころと同じように、「彼」と接することができないことを示していた。 彼女は、そのことを少し寂しく感じ、また不安にも思っていた。あれから「彼」と面会したことが、全くなかったわけではないが、宮廷での「彼」は、本性を出すことはほとんどないし、公式の場にほとんど出てくることはない。そして、そういう場では、彼女に対し、「彼」は、一臣下の娘としての態度を貫いていた。それは、彼女にとっても同じことで、――いや、むしろ彼女の方こそ、「彼」に対して他人行儀な態度を取っていたと思う。あくまで「彼」は、主君であり、自分とは身分の違う男性だった。 物思いに耽りながら歩いていると、彼女は見覚えのある場所を見つけた。彼女が、以前「彼」と始めてであった酒場である。まだ同じ場所で店を開いているようだった。 しかし、どうやら準備中のようだ。まだ昼にもなっていないから、仕方がないだろう。 彼女がどうしたものかと、そこに突っ立っていると、店から女将らしい中年の女が出てきた。彼女は、チャンスとばかりに女将に話しかけた。 「あの、ここに、シャー・ルギィズという人が来ていたと思うのだけれど、今どこにいるのか、知らないかしら? 彼に会いたいのだけれど」 「ああ、なあに、お嬢さん、シャーの知り合いかい?」 女将は、小首をかしげて苦笑した。 「シャーに女の子のお客さんとは珍しいねえ」 どうやら、彼も相変わらずらしい。 「ええ、前に、ここで彼と会ったの。その時は、常連だったはずだけれど」 「ああ、今でもよく来てくれるよ。でも、近頃は、あっちの酒場に入り浸りなことが多くてね」 そういって、女将が指差したのは、向かいの酒場だった。そちらは、もう開店準備が済んでいるらしい。若い女の子が何人か入り口付近を行ったり来たりしていた。 「多分、あそこにリーフィっていうコがいてね。シャーと親しいみたいだから、彼女にきいてみたら、居場所がわかるんじゃないかな?」 「リーフィさん、ね。ありがとう」 彼女は、女将に礼を述べた。女将は、そのまま買い物にでもいくのか、市場のほうに歩いていった。 (シャーと親しい女の子) 彼女は、先ほどの女将の言葉を反芻する。 (シャー、いつの間に、恋人なんて……。い、いえ、でも、彼、まじめにしてれば、それなりにもてそうだし。で、でも、あんまり綺麗な人だとしたら、騙されてるんじゃ……) その話に不覚にもちょっと動揺しつつ、彼女は、向かいの酒場のほうに歩いていった。 向かいの酒場は、もう客が入っているらしい。とはいえ、早い時間なので、朝飯を兼ねた昼飯を食べに来ているという印象だった。 入り口付近で若い娘が話し込んでいる。場末の酒場には違いないが、意外と可愛い子がそろっている。 (どの子がリーフィさんなのかしら……) 思わず、彼女達をじろじろ見てしまう。その視線に気づいたのか、まだあどけなさの残る娘のほうが、彼女のほうを向いた。 「お客さんかしら? もうお店は開いているけれど」 「え、ええと、客ではあるんだけれど、その」 思わず突っ込まれて、彼女は少し焦る。 「あ、あの、ここにシャーっていう人は来てる」 「ああ、いつも来るわ。今日は見かけないけれど」 「そうなのね。ええと、それじゃ、リーフィさんって方はいらっしゃる?」 「え? リーフィねえさん?」 そう尋ねると、娘はきょとんとした。彼女は、聞き方がまずかっただろうかと不安になった。なんだか、シャーをめぐって争っているみたいな取られ方をしそうだ。何か言い訳をしようかと口を開いた瞬間、娘が、後ろを振り返ってこう呼ばわった。 「リーフィ姐さん、お客さんよ」 「あら、どなたかしら」 そう少しかすれた声が聞こえて、奥から現れたのは、長く綺麗な黒髪の美人だった。 一覧 進む |