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エルリーク暗殺指令-35

 メイ・ベルは、その日の早くに目をさました。

 彼女の村は、海の近くにあって、時折家の中まで潮騒が聞こえてくる。海は、太内海といわれる大きな内海であり、彼女は見たことがないが外洋に比べて穏やかなのだという。
 メイ・ベルは、その碧に輝くあたたかな海が好きだった。
 メイ・ベルの名前は本当はメェル・ベールトといって、それは海の女神の加護を願って付けられた名前なのだという。女神の海、そんなような意味らしいのだが、長いので普段は単にメイ・ベルと呼ばれていた。なんでもメイベルという名前は異国で、可愛らしいとかそういう意味があるとかで、メイ・ベル本人も結構気に入っている。
 メイ・ベルの父は腕のいい漁師だった。母は父のとってきた魚介類を使った料理が評判の料理上手で、小料理屋を営んでいた。メイ・ベルも時々お手伝いをした。
 両親はとてもメイ・ベルを可愛がった。けして裕福ではなかったが、食うに困ることもなく、彼女は愛されて幸せに育った。
 その日、朝の身支度を整えて、彼女はさっそく遊びに出かけた。近くに住む友達と、少し離れた花畑に遊びに行く予定になっていたのだ。
「おかーさん、いってきまーす!」
 母に髪型を整えてもらって、それから彼女は元気よく外に出た。
 外はキラキラと輝いていた。穏やかな海、青い空、波の音が優しい。どこかで鳥の声が聞こえた。
 メイ・ベルは待ち合わせ場所で待っていた。
 友達の女の子は、いつも彼女より早く来ていることがおおかったが、この日だけは彼女はまだ来ていなかったのだ。変だな、と思ったが、寝坊したのかなと思って疑問に思わなかった。
 いつも自分が待たせているのだから、少しぐらい待たなければね、とも思った。
 けれど、その日だけは、いつまで待っても来ない。
 メイ・ベルは、もしかしたら先に花畑に行ったのかもしれないと思って、先に花畑に向かうことにした。
 その花畑は、岬の方にあった。崖は危ないので近寄らないけれど、岬のそばの草原なら安全だった。色とりどりの小さな花の咲き乱れた花畑に彼女の心は踊ったが、そこにも友達はいなかった。
「遊んでたら、来てくれるかなあ」
 彼女はそうつぶやいて、先に遊んでいることにした。
 小さな花を集めて花冠を作って遊んでいると、ふと、彼女の目に一筋の煙が目に入った。
「なんだろう、誰か焚火をしているのかな」
 別に珍しいことではないのだ。しかし、この時は何故か不安になって、メイ・ベルは、岬の、村が一望できる崖の方に近づいた。
 そして、彼女はまず沖に船が泊まっているのをみた。この村にも桟橋はあるが、大きな船は入れないのだ。船の乗組員は小舟を使っているようだった。
 そして、その次に彼女が見たのは、炎を上げて燃える村の家々だった。
 先程から立ち上る煙はそれだったのだ。
「おかあさん!!」
 一瞬呆然とした後、彼女は花冠を投げ出して村への道を急いだ。
「おとうさん、おかあさん……!」
 村に近づくたびに、物の焼ける嫌な臭いが立ち込めてきた。炎の光がちらちらと目を刺すように瞬く。
 と、彼女は何かにつまずいて転んだ。
 なんだろう、そんなふうに思ってつまずいたものをみて小さく悲鳴を上げた。
 それは人だ。しかも、見覚えがある。ああ、そうだ、この人、隣のおじさんだ。
 血だまりができていた。直感で、もう生きていないのだと気づいた。
「嫌だ、こんなの嫌だよ!」
 彼女はそう叫んで、涙をふいてたちあがった。
 立ち止まっても振り返ってもいけい。怖くて、きっと動けなくなってしまう。大丈夫、家はもうすぐだ。
「おとうさん、おかあさんー!!」
 家の前に到着した。しかし、既に家は真っ赤な炎に包まれていた。彼女は、はっとして立ち止まった。中に入って皆を探したかったけれど、もう家の入口まで火が回っている。
「おかあさん、おとうさん、そこにいるの! 誰か返事をして!」
 彼女は叫んだが返事がない。泣きじゃくりながら、彼女はしばらく家の周りをどこか火の回っていないところがないかとぐるぐると歩き回った。
 しかし、どこにもなかった。炎の熱が強くなり、家のそばにもいられない。反射的に後ずさった後、彼女は炎に包まれた家を見上げた。
「やだ、いやだよう!」
 彼女はそこにしゃがみこんだ。
 周囲で人の気配がしていた。悲鳴や怒号が響いていた。けれど彼女にはどこか遠い光景のようだった。
 ぐい、と腕を引っ張られた。
「こんなところに、まだ餓鬼がいるじゃねえか!」
 見上げると大きな男が彼女の腕を引っ張っていた。男はあっさりと彼女の首根っこをつかまえると引きずっていった。
「いやだ、はなして!」
 メイ・ベルは叫んだ。
「たすけて、おとうさん、おかあさん!」
 彼女は叫んで、ふと海の方をみた。
 あの大きな船がまた見えた。煙でくすぼる船に、紅い旗が掲げられていた。
 その旗には、四本の短剣の意匠がなされていた。


 ふと誰かが彼女を呼んだ。
 明るく光が差し込み、その視界に黒い影が入る。けれど、それに敵意はない。
 そこにいるのは、だれ?
 隊長?
 一瞬、心配性で神経質で、それから綺麗な顔をした彼の顔がよぎった。怖い夢を見たときは、決まって彼が起こしてくれる。
 大丈夫か、ローゼ。
 そんな声を期待したとき、ふと別の声が聞こえた。
「だ、大丈夫?」
 男の声に違いないが、遠慮がちな声。窓からの光に赤い髪がちらりと揺れる。
「あれ、アイードさん?」
 メイシア=ローゼマリーは、涙で濡れた目を瞬かせた。
 メイシアの目の前に、彼の心配そうで、困った様子の顔が映った。

 *

「い、いや、俺も、普段は寝起きの女の子の部屋に急に入るとかしないんだけどね」
 卵の焼ける匂いとお茶の香りが漂っている。言い訳めいたことを言いながら、アイード=ファザナーは、宿のおかみからもらってきた朝食を運んできた。
 メイシアはもうすっかり身支度を整えている。
「メイシアちゃんいつも早起きだし、もう起きてる時間かなって思ってね。で、入り口にきたら泣き声が聞こえたのでびっくりして……」
 アイードはばつが悪そうな顔で、頭をかきやり、目玉焼きを挟んだパンの載った皿をさしだし、お茶をいれてくれる。
 アイードを見上げていたメイシアは、首を振った。
「えへへ、気にしないで。なんだか寝坊しちゃったあたしが悪いんだもん。でも、大丈夫だよ。アイードさんなら、寝起きの顔見られても許せちゃうもん」
「え、そ、そうなの?」
 アイードは面食らいつつ、
「うん、そうね。隊長に見られちゃったら、ちょっと気にするけど。ほら、だって、隊長、かっこいいし。普段は怖い感じだから、気づかれないんだけど、隊長、ああみえて、そんじょそこらの役者さんより綺麗な顔してるのよ。だから、こっちもちゃんとしないとなってなっちゃう」
「そ、そうなんだ……」
「あ、でも、アイードさんが男前じゃないってわけじゃないのよ」
 慌ててメイシアが付け加える。
「アイードさん、とってもカッコいいし……」
 でも。
 と、ちらりと彼をみる。
 そう、アイードは、美男子という感じではないが、普通に二枚目ではあるのだ。口髭があるのでおじさんに見えるが、顔自体はちょっと童顔。親しみはあるが、顔は整っているし、背格好も良い。しかもなかなかの洒落もの。
 ここ数日彼と会っているが、アイードは毎度服装が違う。頭巾に使うスカーフも毎度違うし、時々かぶっている異国風の羽付き帽子などもよく似合う。服装もきっちりしていて、なおかつ、ちょっと変わった服装を着ていることも多くてこのザファルバーンにおいても、国籍不明感のある佇まいをしている。そして、大変にあっていて、彼という人物に対して違和感がない。
 メイシアからみても、伊達男と言って申し分なかった。
 のだが、伊達男というにしては、なんとなく男としての色気には欠けているのも確かなのだった。
 評判の良いアイードではあるが、街の女の子から特に黄色い声が飛ばない理由もなんとなくわかる。
「えっと、なんか、そうね。アイードさんは、なんかこう安心しちゃうというか。そう、お父さんみたいな……」
「そ、そう、よく言われるよ……」
 アイードが複雑な面持ちでうなずく。
(ジャッキールの旦那よりかなり年下なのに、飛び越えてお父さんとか言われる俺って一体……)
 そんな風に思っていると、メイシアがお茶を飲みながら続けた。
「そういえば、アイードさんってお父さんに似てるかも。お父さんもね、お茶淹れるのがとっても上手だったんだよ。あと、魚を捌いたり……。アイードさんもよくやってるんでしょ。お夕飯に出てくる小魚のオイル漬け作ったの、アイードさんだって……」
「ああ、まあね。趣味みたいなもんだから……。お父さん、漁師さん?」
「そうだよ。あたしは海の近くの生まれなの。太内海の近くでね、お父さんは腕のいい漁師で、お母さんは食堂してて……」
 ことん、とカップをおいて、彼女は遠い目をした。
「あの時は幸せだったな」
「そっか」
 アイードはそう答えつつ、気づかわしげに言った。
「夢を見て、思い出しちゃったかな」
「うん。……もう、忘れてたつもりだったんだけどね」
 メイシアは素直にうなずいた。
「あの日、あたしは攫われちゃって売られちゃったから。あの後、本当はみんながどうなったのかわかんないの。お父さんもお母さんも生きているのか死んでるのか。同じ村で攫われた子は他にもいたけど、大人は見かけなかったし……。そのあとも、色々調べたかったけど、売られてきたところが遠い場所だってのは分かったし、言葉がうまく通じなかったりしたから、慣れるので精いっぱい……。それから隊長も調べてくれたし、自分でも調べたけど、時間が経ちすぎてて村自体がなくなってるって……」
 メイシアはため息をついた。
「本当は名前だって違うの。メイシアっていうのは、ある時のご主人様がつけた名前。本当の名前は、きっとその人にとって発音しづらかったのね。名前をとりあげられるって、そのときはつらかったけど、でも今はよかったかもって。だって、そのままだったら引きずっちゃうもん。今は、隊長にお名前つけてもらったから、メイシア=ローゼマリーって気に入ってるんだ!」
「そうなんだ。確かにいい名前だもんね」
「えへへ」
 メイシアは笑いながら、ふと鼻をすする。
「普段、こんなことで泣いたりしないんだけどね。隊長が近くにいるからかなあ」
 涙目をごまかすように笑って、彼女は言った。
「隊長も悪い夢をよく見るんだって。だから、さっきのアイードさんみたいによく起こしてくれたんだよ。それから、あたたかい甘い飲み物を入れてくれて、ずっと話を聞いてくれたんだ。隊長と会う前も後も、一人だったし、そんな風に甘えたりしないから、悪い夢も見なくなってたんだけどな」
「忘れるってのはいいことだけじゃないからさ」
 アイードは言った。
「悲しい思い出は、忘れた方がいいかもしれないけど、その中に大切なことがあるなら、忘れると後悔するものさ。辛いけど、それは悪いことばかりじゃないと思うよ」
 アイードが優しく言った。
「うん、あたしも、今はそう思うんだ。そんなこと考えてたら、隊長に会いたくなっちゃうな」
「そうだ。そのことなんだけどね」
 アイードの言葉にきょとんとする。アイードはそばにおいた、羽飾り付きの帽子の羽を手持ち無沙汰にいじりつつ、
「今日、こんな朝早くに来たのは、実はそのこともあってさ。ここんとこ、ちょっと俺、忙しいんだよね。それが、今度はもっと忙しくなりそうでさ。それだけならいいんだけど、ジャキさんもそれに一枚噛むことになっちゃってさ。彼も忙しくなりそうなんだ」
 アイードは言葉を選びつつ、
「それでなんだけど、今日か明日ぐらいにでも、メイシアちゃんさえ良ければ会いに行かないかなって思って……」
 そう言われて、メイシアは一瞬嬉しそうな顔をしたが少し俯く。
「あ、いや、いいんだよ。気持ちがまだかたまってないなら、無理強いはしないから。会うの、不安かな?」
「そういうわけではないの。ただ、その……」
 と、メイシアは少し考えたあと、
「アイードさんならわかるかな。あのね、前からそうだったんだけど隊長はあたしの顔を見るとちょっと苦しそうなんだ」
 メイシアは真剣な眼差しを彼に向ける。
「眩しそうっていうか、苦しそうっていうか。何かに怯えるみたいな、そんな顔をするの。この間会った時もそうだった。だからね、もしかして、あたしは隊長にとって良くない存在なんじゃないかって……」
「なんだ、そんなことを考えてたのかあ」
 アイードはそういうと、頬杖をついて優しげに彼女を覗き込む。
「それはメイシアちゃんが眩しいからさあ。それ以外の理由はないよ」
「どうして?」
 メイシアは大きな目を彼に向けて瞬かせる。
「それはジャキさんが日陰者だからだねえ」
「日陰?」
「んー、そうだな。俺が知っててメイシアちゃんも知ってる男はみんな日陰ものだからなあ。あの三白眼のやつも蛇王さんも、日陰の人間だよ。わかるでしょ?」
「なんとなく」
「そこいくと何故かメイシアちゃんはスレてないんだよな。辛い事も多かっただろうけど、その視線は、太内海の海岸線に降り注ぐ太陽みたいに、温かくてまっすぐだ。それが日陰者にはちょっとまぶしいってこと」
「でも、蛇王さんは平気だったよ?」
「ふふ、それはまあ俺が出した例が悪いよね。あの二人は、日陰で生きてきたけど、日向にも這い上がっていける男だし、彼らは特殊だから。日陰者だけど、その気になれば自分が太陽みたいな人達だし。それにね、なんてーか、慣れてるんだ。奴等は、アレでスレた悪い男なんだよ。でも、ジャッキールさんは違うんだな」
 メイシアがふと彼を覗き込む。
「あの人はもともとは明るい日の下で生きていた。そりゃあ、全てに恵まれていたわけではないだろうけどね。身分もそれなりに高くて、能力もあって、容姿も優れていて、そりゃあ、出世街道まっしぐらだっただろう。彼には薔薇色の未来が約束されていたはずだった。それが、あることで全部崩れてしまって、一気に奈落の底に落ちてしまった。そんな人間には日向の光は眩しすぎる。しかも、君のそれはもともと彼自身の持ってた真っ直ぐさと同じだから。余計に目をそらしちゃうのさ」
 アイードの言葉をきいていたメイシアは、ゆるやかにうなずく。
「アイードさんのいうこと、むずかしいけどわかる気がする」
「昔の自分を思い出しちゃうのかねえ。心がざわっとしちゃうんだろうさ」
 アイードは優しげに微笑むと、
「でも、さっきも言った通り、辛い過去を思い出すことだって、全部が全部悪いことじゃないんだよ。思い出すってことは、多分必要だから思い出すんだ。ジャキさんだってそうさ。メイシアちゃんをそばに置いていたのは、彼だってそれを全て忘れたいわけじゃあないってことだから。だから、気にしなくていいんだ」
「そっかあ
 メイシアは感心したようにうなずきつつ、
「でも、アイードさんはどうしてそんなことがわかるの?」
「ははは、それは俺がどっちつかずの半端野郎だからだよ。どっちにもいけるし、どっちにもなれるけど、染まることはない。波間に浮かぶ白い海鳥みたいなもんさ」
 ふふ、とメイシアは笑う。
「アイードさん、本当キザだなあ」
「え、そ、そうかなあ?」
 そう言われて面食らうアイードを後目に、メイシアはにっこり笑う。
「でも、アイードさんのおかげで、元気になったよ。うん、隊長がそうなんだったら、あたしも心配しないで隊長に会えると思う。本当はね、すぐにでも会いたかったんだ」
「それならよかった。それじゃ、あっちの予定もあるから、今夜か明日にでも……。午後に連絡をよこすようにするよ」
「うん、ありがとうアイードさん」
 メイシアの様子を見て、安心したアイードはほっと胸を撫で下ろす。
「あ、そういえば、アイードさんて、歌がうまいんでしょ?」
「え? な、なに、誰からきいたの?」
「ここの宿の娘さんだよ」
「あー、いや、あれこそ趣味っていうか、別にそれほどでもなくてねえ。飲んだ後の余興っていうか」
 アイードは歌えと言われそうな状況に、やや困惑した様子を見せるが、それをみてメイシアがふきだした。
「あははっ、こんな朝っぱらから歌ってって頼まないよ。でも、アイードさん、西の歌も好きそうだなって。ほら、こんなやつ……」
 と、メイシアはふと一節軽く口ずさむ。どうやら舟歌の一種だろう。アイードにもうっすらと聞き覚えがある。
 そして、意外というべきか、話しているのとはすこし雰囲気の違う綺麗な声だ。
 歌がうまいじゃないか、と素直にアイードが褒めようとした時、旋律をなぞっていたメイシアがふと歌詞を軽く口にした。ザファルバーンの言葉ではない、旋律にそって流れるような言語。
「……って、こんなのとか。昔のことを思い出したら、聴きたくなっちゃったけど、ここでは誰も歌えないなあって……。あれ、どうしたの?」
 メイシアは、アイードがなぜか真剣な顔をしているのを見て怪訝そうにする。
「あ、ああいや、その、メイシアちゃん、歌がうまいよねえ。いい声だし……」
 それだけいいつつも、なぜかアイードの態度が変だ。少し考えた後、
「メイシアちゃん、太内海の生まれだっていってたよね。それも西の方」
「うん、そうだよ?」
 どうしたの、と小首をかしげる彼女に、アイードは静かに言った。
「もしかして、チェナンザより西の、小さな村の生まれじゃない?」
「そうだよ、すごいね、アイードさん。どうしてわかったの?」
「い、いや……」
 アイードは思わず取り繕うように苦笑いしつつ、
「さっきの歌、……耳慣れない言葉が入ってたから。俺は、あっちの言葉に詳しいからさ……。それは、太内海の沿岸の舟歌かな?」
 とりあえずそういって、アイードはそっと尋ねた。
「……メイシアちゃんの村は奴隷狩りに襲われたって話だったけど」
「うん、そうだよ」
「それって、海賊じゃない?」
「うん、太内海にはよくあることだもん」
「その時、もしかして船を見た?」
 アイードは珍しく急いて尋ねる。
「船の旗とか、何か見たの覚えてない?」
「えっと、そうね……。あたしも小さかったから……」
 メイシアはアイードの様子にやや気おされつつ、先程の夢を思い出す。確かに彼女は船を見た。最初に見たのは一隻で……。最後に見たときには……。
「赤い、旗をみたの」
 メイシアは思い出しながら言った。
「船に掲げられてたのは、赤い布に、……剣みたいなのが何本かあって、そうね、こんな感じに絡んでて……。えーっと、なんていうのかなあ、アイードさ……、?」
 話しかけようとしてメイシアは言葉を止めた。アイードは自分の方をみていなかったが、その彼の顔色がざーっと青ざめていく。
「ど、どうしたの?」
 慌ててメイシアが声をかける。
「気分悪いとか?」
「え? ああ」
 しばらく考え込むようにしていたアイードは慌ててごまかすように笑うが、明らかに顔色が悪かった。
「な、なんでもないよ。ちょっとね」
 いつもの彼らしく笑う。
「いやあ、変なこと聞いて悪かったね。俺は、ホラ、立場的に海賊対策してるからさ」
 取り繕うようにそういう。
「もしかして知ってる奴の船じゃないかと思ったけど、……どうやら違うみたいだ」
「そうなんだ……」
 メイシアは頷いた。
 しかし、メイシアは見ていた。
 先程、アイードが手持無沙汰につかんでいた帽子。洒落ものの彼が、それを乱暴に握り潰してぐしゃぐしゃにしていた。
 それがあまりにも、彼らしくなくて、メイシアは目にとめてしまった。
 

 *
 
 シャーは大あくびをしながら、路地を歩いていた。
 河岸のあるこの周辺は朝が早い。とっくに町は動き出しているが、シャーの方はどちらかというと夜型だ。太陽はのぼってはいるけれど、彼にしては十分早い時間だった。
 そんな彼が朝早くから出歩いているというのも、このところ忙しいからだった。

 ジャッキールに協力の約束をとりつけてから数日。作戦に彼を加えるための準備は、話を聞いたアイードがラダーナ将軍を通す形でやんわりとつけてくれるとのことだった。シャーの意向をできるだけくんでくれるカルシル=ラダーナはともあれ、もう一人王都に残っているゼハーヴ将軍はそんなに柔軟な考え方をしない。新参者かつ訳ありのジャッキールを作戦に参加させるにあたって、拒否反応を示さないはずもない。もちろん、それはゼハーヴ将軍に限ったことではない。他にもそういう者たちはいるから、多少の根回しは必要だった。
「その辺は、まあ、俺とラダーナ将軍に任せてください」
 アイードはそんなことをいって、あまり直接的にシャーが口を出さない方がいいとやんわりとつげていた。
 ただ、後見人の宰相カッファ=アルシールや義兄のレビ=ダミアスについては、シャーが自分で話をした。カッファは、さすがにジャッキールの出自が出自だけに難色をしめしてはいたが、シャーが信用のできる男だから、と説得するので最終的には納得したようだ。
 当のジャッキールは、どうやらアイードに伴われてラダーナ達と打ち合わせしているらしいが、まだ正式な会議には参加していない。
 しかし、事態はそこまで悠長なものでもなかった。
 ハダートとジェアバードの二人が、ようやく東側のもめ事を解決するめどがついてきたとの書簡を送ってきたが、それでもまだ王都に帰還する前にやることがあって、いますぐ帰ってくるわけではなかった。
 おそらく、この情報はシャーの手にもっともはやく届いている。
 しかし、同じ情報を敵が入手するのも時間の問題だった。
 彼がもし反乱を起こすのだとしたら、期限は彼らが帰ってくるまでである。そして、ジャッキールの情報と今までの手持ちの情報をすりあわせると、おそらくラゲイラ卿はいつでも行動を起こせる状態なのだった。
 だから、ここから数日が勝負ともいえる。
 そこでシャーは今夜急遽会議を開くことにし、正式にジャッキールを参加させることにした。
 それもあって、今日は朝早くからこうしてやってきたわけだ。
 まあ、気分転換も大いにある。ジャッキールを呼び出すのは、部屋を貸しているアイードにいいつければそれで済む話。
 シャーとて今日外出していなければ、多分しばらく外出できない。
 リーフィともまたしばらく会えなくなる。娑婆の空気も吸えない。外出するなら今日しかない。
「はあ、でも、色々心配だなあ。ダンナ、ちゃんと喋れるかなあ」
 シャーは今夜の会議のことを思うと気が重くなる。
 そして、信用しているとは言ったものの、シャーはジャッキールの仕事ぶりは知らないのである。いざ会議に参加させるとして、どんなふうに対応するのだろう、あの男。
(変なこと言って、他の連中が騒ぐと、オレ対処できない)
 何かと心配ごとはつきなくて、シャーとしてもなんとなく元気の出ない朝なのだった。
「あれ?」 
 シャーは、アイードの別荘の門をくぐったところで立ち止まった。
 扉のところで誰かが出てくるところだった。金色の巻毛の美青年といったいでたち。アイードの副官のゼルフィスだ。
「あれ、副官さん」
「よっすー!」
 ゼルフィスはそういって威勢よく挨拶をする。
 彼、いや、彼女は、あのアイードとは裏腹に、いついかなる時も勇ましくて元気だ。
「なんだ、うちの大将でも探してるのか? 探してるんなら無駄足だぜ。なんたって、今私が探しているとこだからな」
「いや、違うけど、アイツ、詰め所にいないの?」
 シャーが尋ねると、ゼルフィスは、おうと答える。
「朝っぱらからどっかいっちまってねえ。サボってんのかね、大将」
「え、それは困るんだけどー」
 まあ人のことは言えないが。
「あ、それじゃあ、あの黒服の旦那に用事かな? あの旦那もいねえよ?」
「え? マジで?」
「ああ、お髭の蛇王さんなら庭の方でなんかしてたけどさ。聞いたら散歩じゃねえかって言ってたよ」
「あのダンナ、病み上がりなのに何してんだ……」
 ジャッキールのやつ、相変わらず、意外とのんきだ。彼のことでなんだかんだ悩んでいた自分が馬鹿馬鹿しくなってくる。
「待ってりゃ戻ってくるんじゃねーかな」
「まあそうだけどさあ」
 そう答えて、シャーはふと彼女を見上げた。
「そういや、副官さんは、オレとあんたの上官の関係って知ってんの?」
 なんとなく訳知り風な副官なので、そう思い切って聞いてみる。
「んー? いやー、正確にはきいてねえよ。まあ、なんか訳ありらしいみたいなことはちらっと聞いたけどさ。あの大将も色々訳ありの人との付き合い多いから、面倒だし詮索しねえ主義なんだ。大抵のことは私には関係ないしな」
 ゼルフィスはさらっとそんなことを言う。確かに、この副官なら本気でそう思っていることもままあり得ることだ。
 そんなことを考えていると、ゼルフィスがふいに悪戯っぽくわらって言った。
「あ、でもさ、アンタがどういう人なんだかは知らないけど、うちの大将を参考にすんのは、お勧めしないぜ?」
「え?」
 シャーがきょとんとすると、ゼルフィスはにやっと笑う。
「あんな気の回し方してたら、普通ぶっ倒れるからさ。うちの大将、力抜くところはちゃんと全力で抜いてるし、任せるところは周囲に割り振りまくって負担減らしてるけどさ。でも、割と袋叩きにもあってるし、気苦労は多いんだよ。それでも、大将は基礎体力あるっていうかさ、丈夫だからできることでさ。大将にしかできないことだし、参考にならないんだよな」
 ゼルフィスは、からっと笑う。そんな彼女に釣られて、普段なら反発するところ、なんとなくシャーは素直になる。
「気苦労が多いのはわかるなあ。でも、副官さんだからきくけど、アイツ、ちょっと怖くない?」
「そりゃ怖いに決まってんだろ。大将は、私が身近で一番、コイツ、本当肝すわってんなあって思ったことのある男だぜ。まあ、普段はそうでもないけどさ。基本的にはヘタレっていうのも事実なんだし」
 褒めているのかけなしているのかわからない態度で言いながら、ゼルフィスはにやっとした。
「それでも、たまーにそういうトコロがはみ出てくるんだよな。だから、たまにすげえ怖いわけさ。私は、ずっとアレのままでもいいと思うんだけどな。隣にいてもビリビリ緊張する感じ、刺激があっていいじゃん」
「アレって、どこまで演技なんだろうな?」
「演技っていうか……、まあ、意識的にやってることはあったって言ってたよ。昔はずーっとあのまんまだったこともあるんだけどさ」
 ゼルフィスは視線を下げる。
「でも、今はやらねえってさ。自分にはもうできねえとかいいつつ、たまにちらっと覗かせてくるんだし、演技でもないんだろうけど……」
「そういう風に見せるの、疲れちゃったとか?」
「さあ、それもあるかもな。でも、アイツ、色々捨ててきたから。捨てたのは、全部自分のためって言ってるけど、半分以上他人の為だし。……演技は疲れるってのも、多分方便で、そりゃ疲れるし、期待の重圧とかあるかもしれないけど、多分、それだけじゃない。アイツにとって、その方が”楽しかった”とか”楽だった”とかも絶対あるはずなんだ」
「そうかもしれない……」
「そうだよ。顔の傷のことごまかすのと同じことだよ。あれは自分の為についたものじゃない。アイツは本当はあの傷で矜持《プライド》ボロボロにされてる。でも、他人の為に、アイツは傷ついたとは言わない。だからさ、あの傷がなければ、今でもあのままいたのかなって思うこともあるよ。私は周りの奴がヘタレって罵ってても、大将のことを本当の意味では笑えねえな」
 ゼルフィスは少し寂しげにそう言って、
「まあでも、私は今の大将のことも好きだぜ。なんっつーか、”男として惚れる”ってやつかな。だから、大将、ダメだなあって思っても、ついてくことにしてるのさ」
 本当は女子なゼルフィスの言葉としてはおかしいが、特に違和感がない。
 シャーは、感心したように言った。
「副官さんは、アイツのこと、信頼、してんだな」
 自分の身に置き換えつつ、シャーは言った。
「そんな風に信頼されるって、アイツ凄いなと思う」
「ははは、そりゃ、私も船乗りだからな。信じられねえ奴が舵取りするような泥舟には乗らないよ」
「ど、泥舟って……」
「泥舟だろ? 私はホラ、もとはザファルバーン人じゃないからさ。大将がどうしてもっていうんで、副官やってるんだけど、すぐに王様はどっかいっちまうし、揉めるし。私には特に被害はなかったけど、大将がいねえならこんなトコきてねえって」
(反論できない!!)
 シャーは内心苦笑いだ。
「そうだ、アンタこそ……」
 ゼルフィスはシャーをみやった。
「私が女って知ってるだろ」
「ま、まあ、今は……」
 気づかなかったというのは失礼なのでは、と多少悩むシャーだったが、ゼルフィスは特に気にしていない様子だ。
「女でこの業界生きていくのは結構大変なんだぜ。私は好きでこの格好してるけど、普通は女は船に乗れないんだ。この格好してなきゃ、今でも無理さ。別に女に生まれたくて生まれたわけじゃねえのに、女ってだけで船には乗れない、親の跡目もすんなりつげやしない、好きなことができない。なんで女になんか生まれちまったんだろうなーって結構思ってた。ザファルバーンに来てもそうさ。ここには、女将軍もいるけど、それでも、仮にも海軍なんだし、普通に考えれば、私が副官になることなんか認められるわけがない」
 ゼルフィスは空を仰ぎつつ言った。
「でも、アイツだけは違う。昔から私を男とか女とか関係なく、一人の人ってことで扱ってくれる。戦うときは全力で相手をしてくれるし、あまつさえ、私に副官になってくれと依頼してくる。馬鹿かなって思ったけど、大将はいうんだよな。『男とか女とか関係なく、俺にはお前が必要だから副官になってほしい。俺のそばなら、お前にそんな理由で嫌な思いはさせない。叩かれるなら、俺が全部引き受ける』ってさあ」
 ゼルフィスは笑って続ける。
「最初は口先だけだと思ってたんだけどな。大将、たまにはやる男だから。でも、私は口先だけでも十分だと思った」
 彼女はシャーの方を見つつ言った。
「アイツは、私がその時欲しかった言葉をくれた。それだけでも、信じる理由にはなるってことなんだ」
 シャーが黙って聞いていると、ゼルフィスは両手をのばして頭の上で組んだ。
「でも、大将もちょっとひねくれたとこもあるしさ。それと、あんまり怒りなれてないんで、ちょっと厳しいこと言おうと思うと、滅茶苦茶怖い感じになるんだよなー。なんで、アンタには、もしかしたら、結構ヤベエ奴みたいな態度とってんのかもだけど、別に不安がらなくてもいいんだぜ。大将は、なんだかんだでアンタのことを大切にしようとはしてるみたいだ」
「そ、そうかなあ」
 シャーは思わず苦笑する。
「そうだよ。まあ、そういうことだから」
 ゼルフィスは、からっとそういうと、あ、と思い出したようにいった。
「あ、そうだ。私は、その大将を探してるとこだったんだったな。ったく、なんかあったら逐一報告しろっていいながら、どっかフラッと行っちまうんだからたちが悪い」
 ゼルフィスはそう文句を言って、シャーに笑いかけた。
「それじゃ、心当たりのとこ、回ってくるわ」
「ああ、足を止めちまってすまなかったね。ありがとう」
 シャーが素直に礼をいうと、ゼルフィスはにっと笑って手を挙げた。
 颯爽と去っていく彼女の後ろ姿を、シャーはしばらくぼんやりと見送っていた。


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