エルリーク暗殺指令-34


「セジェシス王は出自のはっきりしない男。奴隷の子とも言われている。しかし、彼の母は青い目をしていた」
　リリエスは、相手の反応を見やりながら続ける。
「その話はどうやら確からしい。もちろん、青い目の女など、それほどは珍しくない。数は多くないもののこの地でも結構見かけますからね、青い目の人間は。しかし、貴方の侍女も奴隷出身との資料がある。まあ、侍女に奴隷女を使うのも珍しくはない。その方は特に美しい方だったそうですしね。しかし、だからこそ、アルターク王に見いだされたのかと思いますよ。けれど……」
　ちらとリリエスはギライヴァーの反応をうかがった。
「結局、貴方の侍女だった彼女は、暴君となったアルターク王その人によって、ありもしない不貞の罪をかぶせられて惨殺された」
「やめろ」
　静かにギライヴァー＝エーヴィルが低い声で制した。
「その話は聞きたくもない！」
　リリエスはその反応を意地悪く流す。
「殿下がセジェシス王とその子に入れ込む理由があるなら、きっと彼女だと思いました。しかし、私にはここまでしかわからないことだ。彼女とセジェシス王に血のつながりがあったのか、それとも血のつながりがなくても、彼女の面影を感じ取ったのか。どちらにせよ、貴方がなにかと彼女の悲劇を引きずっているのは間違いないですよね、ギライヴァー殿下」
　小首をかしげるようにしながら、リリエスは続けた。
「先程の、殿下が絵に描かれたご婦人のこと。なにやらご執心のようでしたね。殿下は女性にはことのほか紳士的で優しいと聞きました。それは、何よりも彼女のことがあるからでしょう？」
「あの娘に危害を加えないように、俺に協力しろってことか？」
　ギライヴァーは笑みを引きつらせる。
「はい」
　リリエスはゆったりと頷いて、そっと彼に近づいた。その手には、薬瓶が握られていた。
「さすがの貴方でも、大臣には無理でしょう。でも、できれば軍人の方が狂わせると面白いと思うのですよね。動きがある方が好きなんです。しかし、下っ端の反応は見飽きている。ですから、できれば将軍がいい。七部将など面白いのでは？」
　リリエスは勝手にそう言って、にっと笑った。
「七部将のどなたかに、この、”紅月の雫”を改良したものを差し上げてほしいのです。液体にしてありますから、これなら飲みものにでも混ぜられる。エーリッヒに使ったものに比べれば、多少効力は薄いんですがね」
「七部将？　お前も欲張りな男だな」
　ちっと舌打ちして、ギライヴァーは鬱陶しそうに顔を上げる。
「殿下は物分かりがよいお方のはず。だからこそ、私は取引を申し上げているのですよ」
　にっとリリエスは笑いかけた。
「だって、殿下、……もうあのような悲劇は、二度と見たくないのでしょう。あの綺麗な踊り子が、引き裂かれるのは見たくありませんよね。貴方の侍女の、あの美しい彼女のように。ああ、そうだ、確か、その王妃の名前は……」
　リリエスが言いかけたとき、ふとギライヴァーの手が動いた。瞬間、リリエスの手の薬瓶がはじけ飛び、石畳の上におちた。かろうじて割れなかったと見えて、それはコロコロと地面を転がる。
「な……」
　リリエスが驚愕の表情を浮かべる前に、白刃が閃いた。がっとリリエスののど元に長剣の切っ先がつきつけられていた。
「黙れ、下郎！」
　唸るように、しかし、抑えた声だ。それはおおよそ、普段の彼とは違う気配を帯びていた。
　彼は目を見開き、怒りの感情を瞳に浮かび上がらせていた。
「その名は貴様が口にしていいような名ではないわ！」
　流石のリリエス＝フォミカにも、怯えの色が顔に走った。
　その瞬間、ギライヴァーの背後から静かに黒い影がとびかかる。が、ギライヴァー＝エーヴィルはちらりとそれを一瞥するなり、半身を翻して左手をその人影の鼻柱に当てた。のけぞる男をそのまま掴んで腰投げに地面に落とし、すかさず頭を踏みつける。
「下種共が」
　ギライヴァー＝エーヴィルは冷たく告げた。
　周囲に刺客達の気配がわきおこる。が、ギライヴァーは、リリエスの首に相変わらず剣を突きつけながら、周囲を探ることもしなかった。
「舐められたものだな、"私"も」
　彼は独特の威圧感を立ち上らせていた。ほんの少し低くなった声は、普段より品があり、そして重たい。
　その威圧感とリリエスの喉元の刃のせいで、刺客たちもその場から動けないでいる。彼はそれを当然として、リリエスをゆったりと見下ろした。
「貴様は、私が地獄の中で生き延びてきただけはある、と、そう言った」
　足元の男の頭を踏みつけながら、ギライヴァーは目の前のリリエスに静かに告げる。
「ならば、遊び半分に突っかかるような相手ではないことも、理解しなければならなかったな」
　ギライヴァーは、つと目を細めた。
「お前ひとり潰すことも訳はない。このまま力を入れれば、貴様は終わる」
　喉元にかすかに血が滲み、リリエスは険しい表情で彼を見上げている。
「そして、私も一人ではない。お前を殺し、私が死ぬ前に部下を呼ぶことはいくらでもできるぞ。なにせ、私にも、お前のような金さえ与えれば何でもするような輩がいる。つまり、貴様らごと、私は潰すことができる」
　ギライヴァー＝エーヴィルは、既に怒りを顔には表してはいない。ただ、表情がない。しかし、それ故に背負っている威圧的な空気がビリビリと伝わった。
　今の彼は、リリエスの知る不良王族のギライヴァー公ではなかった。まるで別の人間のようだ。
（いや、では、一体この男何なのだ）
　そんなリリエスを嘲笑うかの如く、ギライヴァー＝エーヴィルは静かに唇を歪める。
「しかし、この状況ではさすがに貴様らと争いたくはないのも本音だ。よかろう、俺にも多少の責はある。今一度だけ貴様の戯れに乗ってやる」
　取れ、と背後にいる刺客に命令し、顎をしゃくる。彼の視線の先に、転がった薬瓶があった。
　それに気づいて、慌てて部下の一人が、地面に転がった小瓶を拾って差し出した。それを乱暴に受け取りつつ、彼はリリエスから剣を引いた。
「貴様の望みは、七部将の一人にこれを与える、だな？　わかった。詳細は後で連絡する」
　彼は剣を鞘に収めると、薬瓶を懐におしこんだ。そして、肝心のリリエスがなにも命令しないため、静かに並んでいるだけの刺客の中をゆうゆうと通り過ぎる。
　ようやく解放されたというのに、リリエスはまだ呆然としていた。その彼に、もう一度声が降りかかる。
「リリエス」
　顔を上げると、ギライヴァー＝エーヴィルの背中が見えた。
　その昔、カリシャの王には大きな翼が生えていた。末端王族だったはずの彼に、そんなものが見えるはずもないのに、まるで翼を背負っているかのように彼の存在は大きく見えた。
「今日はその非礼許してやるが、二度はないと思え」
　そういうと、ギライヴァー＝エーヴィルは、夕暮れの街の中を何事もなかったように歩き去って行った。

　*

　アイード＝ファザナーの別荘は、暖かく穏やかな太内海沿岸の街を想起させるような、美しい建物だ。
　多分彼がそう作ったのであろう、白亜の建物は原色の青い空とよく合うし、花壇の花々が程よく色付いて綺麗だ。穏やかで時間を忘れてのんびりしてしまうような、そんなところだった。
　一方で、この落日の時間は、なにか物悲しい異国の旅情をかきたてるようなところがあった。空と同じ茜色に染まった白い壁が、どこか甘さのある哀愁を感じさせていた。夕暮れの風が草木を揺らし、向こうには船の浮かぶ川面が見える。その川面のきらめきとたゆたう船の姿に、なんとなく物思いにふけってしまう。そんな妙に感傷的な光景だった。
　気障だが、どこか気取りきれない、そして感傷的なところのあるアイードらしい演出だった。どうやら、それにまんまと乗せられてか、シャーもなんとなく感傷的な気持ちで、ぼんやりと沈んでいく太陽を眺めていた。
　今日は色々なことがあった。
　一言で言えばそうだったが、今の彼には考えることが多かった。そのすべてに思いを巡らせると、なんだか疲れてしまうので、シャーはあくまで漠然と考えるだけにした。
　シャーは小舟の浮かんだ小さな桟橋のところで、小石を投げながら座っていた。アイードは別荘から直接小舟に乗れるように、小さな桟橋を作ってある。彼のものらしい縄でつながれた小舟が揺れて、ぎいぎいと音を立てる。
「信じる、かぁ」
　ぼそりと呟きつつ、前髪をぐしゃぐしゃとかきやる。
「オレなんかで、本当にいいのかなぁ」
　自信なさげにそうブツクサ言いながら、シャーは何度目かのため息をつく。
「シャー、そんなところでどうしたの？」
　ふとそんな声がきこえて、シャーは慌てて立ち上がった。
「あ、リーフィちゃん！」
　ちょうど夕日を背にして、黒髪が風に揺れていた。すらっとしたリーフィの姿が、夕日の赤い光を遮る。シャーは、リーフィのところまで駆け寄っていった。
「遅かったんだね。いや、そろそろ迎えに行こうかと」
　さっきまでしんみりしていたシャーだが、リーフィを前にするとすっかりいつもの調子だ。
「オレ、心配したんだよー。いや、リーフィちゃんに嫌われちゃったんじゃって思っちゃうじゃん……」
「ごめんなさいね。急に用事が入っちゃって……」
　リーフィは、かすかに微笑んで答え、軽く首を傾げた。
「あら、シャー、なんかちょっと元気になったわね」
「え、あぁ、まぁね」
　シャーは、ちょっとギクリとして、
「い、いやぁ、あのオッサン、マジで丈夫くてびっくりだよー。心配してた自分が馬鹿みたい……。いや、心配って言うか、そんな心配してたわけじゃないんだけどぉ……」
　急に素直でないことを言い出すシャーに、リーフィは思わず笑い出しそうになる。
「ジャッキールさんとは、十分お話しできたかしらね」
「う、うんまぁ、それはね」
「それは良かったわ。ジャッキールさんも、シャーと話をしたかったみたいだから」
　リーフィにそう言われて、シャーはふと大きな目をきょろっと泳がせた。
「ねぇ、リーフィちゃん」
「なぁに？」
　思わず反射的に声をかけてしまっただけなので、シャーは続けるのをすこし躊躇っていたが、
「人を信じるって、やっぱ難しいことだよね」
　なんとなく素直にそう尋ねてしまう。
　リーフィは笑うこともなく、ただ静かに頷いた。
「ええ、そうね」
　そんな彼女の反応に安心して、シャーは堰を切ったように続けた。
「実はその、オレ、うまくできるかなあって、ちょっと不安なんだ。そりゃ、オレは信頼してなきゃ、その、込み入った話ができないヒトなんだけどね。実際、面と向かって信じられるかって尋ねられるとさ」
「ふふ」
　リーフィは軽く笑う。
「ジャッキールさんのことね？」
「うん」
　リーフィには立場上詳細は話せない。が、リーフィは相変わらず追及せずに聞いてくれるので、シャーは素直に不安を口にする。
「実際に面と向かって尋ねられると、後々から不安になってきてさ。期待を裏切るって一番怖いから」
　大丈夫よ、とリーフィはすぐに答える。
「ジャッキールさんとどんな話があったのかは知らないけれど、ジャッキールさんは少なくともシャーを信じてくれてるんでしょう？　だったら、うまくいくのではなくて？」
「うん、そうだけどさ」
　リーフィは軽い調子でそんなことを言うので、シャーはやや面食らう。
「オレ、ほら、結構未熟だし、ダメなとこも多いから」
「それはみんなお互い様ではないかしら。ジャッキールさんも、今回散々言ってたもの。自分はやっぱりダメだ、消えたい、とか。蛇王さんはそういうのなだめるのが苦手みたいで、とっても困っていたわ。喧嘩でもして、そういう空気を変えられるならいいんだけれど、本当に落ち込んだ時にどうやって声をかけたらいいか悩んじゃうみたい」
「蛇王さんが？」
「ええ。ジャッキールさんもそれがわかっているから、余計に凹んでしまうでしょう？　あのね、あの二人だけだといっそう落ち込んじゃうの。だから、今回は明るいルーナさんがいてくれて良かったと思うのよね」
　くすりとリーフィは笑う。
「でもね、そういうジャッキールさんだからこそ、シャーが頼ってくれているのがとても嬉しいんだと思うのよ」
「そうかなあ。カワウソのやつもそんなこと言ってたけど」
「そうだわ」
　リーフィは、うなずく。
「あのね、自分はダメだなって思ってる時に、肯定してくれる人がいるのって、とっても嬉しいことなのよ。私だって……」
　リーフィは言いかけて、慌ててごまかすように言葉を濁す。
「ううん。とにかく、シャーは今まで通りにしていればいいだけよ。だって、今までシャーはジャッキールさんを信じてきたでしょ？　そんなに改めて考えなくても大丈夫だわ」
「そうかな？」
「ええ。いつも通りに頼りにしていればいいだけよ」
　シャーは、思わず笑う。
「はは！　やっぱり、リーフィちゃんと話すと元気出るなあ。オッサン達と話すと疲れちゃうけど、リーフィちゃんには癒されるよー」
「あら、そんなこと言っちゃダメよ」
「だって事実だもん」
　シャーは頭の後ろで手を組む。
「ジャッキールもアイードも、なんかと小難しいこと言うしさ。なんか疲れちゃうんだよなー」
「あ、そういえば、ジャッキールさんはどちら？　先にお屋敷に入ったんだけど、いなかったの」
「あれっ、そうなの？」
　シャーは、屋敷の窓を見上げる。どうも人気がなさそうだ。
　うーんとうなった後、シャーは言った。
「外で夕陽でも眺めてるんじゃないかな。あの人、たそがれてる自分とか好きそうじゃん。カッコつけだし」
「聞こえると怒られるわよ、それ」
「いいんだよー。聞こえてないって。第一悪口じゃないもん。事実じゃん？」
　いつもの調子で悪態をつくシャーに、リーフィは苦笑しながら安堵していた。

　

（まあ、全部聞こえてはいるんだがな）
　ちょうどシャーとリーフィが話している場所から死角となる土手に、噂されている当人であるジャッキールは腰を下ろしていた。
　まさに彼はたそがれていたところで、シャーの言うことは多少図星ではあるので、当然、イラっとはしたものの、たそがれているがゆえにシャーを殴りにいく気分ではなかった。
　ジャッキールの手のひらには、黄金の指輪が転がっている。それは、総司令の印章を兼ね、その身分を示す証が刻まれていた。
　小さな指輪だが、それは実に重い。
「オレは信じるよ」
　先ほどのシャーの言葉を反芻する。
「うまくできるかわからないけど、頑張る。それでもいい？」
　シャー＝ルギィズは、正直に自信なさげな様子を見せていた。
（少々かわいそうだったかな）
　ジャッキールは、思わず苦笑した。
　彼が戸惑ってしまうのはわかっていた。
　ジャッキールも、シャーの人物はよくわかっている。人を手玉に取ってしまうような魅力があると思えば、自分を肯定できずに自信のない様子を見せてくる。
　シャーが自分を頼ってくるのは、彼自身が自分に自身が持てないからだろうとジャッキールは思っている。
　しかし、頼られるのはリーフィの言う通りで、確かに嬉しいことだった。
「まあ、いいんだがな」
　そういってため息をつき、続く言葉を彼は口には出さなかった。
　――口約束でも、俺を信じると言ったものは他にはいないのだから。
　そう言ってため息をつき、ふと彼は顔を横に向けた。
　人の気配がするのに少し前から気づいていたのだ。
「蛇王、遅かったな。寄り道か？」
　流石に昼間の怒りもとけたらしく、ジャッキールは少し嫌味っぽくそう告げるだけにとどめる。
「どうせ貴様の使いなど急がないだろうが。あと、俺も忙しいのだ」
　ザハークは、ジャッキールに頼まれた荷物を部屋に置いてきたらしく、身軽になっていた。
「起きていていいのか？」
「寝るのには飽きたからな」
「相変わらず丈夫な奴だ」
　一応病み上がりなので気を遣ってみたものの、ぶっきらぼうな返答にザハークは半ば呆れた様子で肩をすくめた。
　しばらく、ジャッキールが無言に落ちる。視線の先には川面に残光を映しながら沈んでいく太陽がある。
「エーリッヒ」
　ザハークは、ジャッキールの真横に立つと、じっと彼を睨みつけた。
「貴様何を考えている？」
　ジャッキールは返事をせず、しかし、彼の方を見上げた。
「貴様がそのような顔をしている時は、ろくなことを考えていないことは知っている。一体、何を考えている？」
　ザハークが何を持って"そのような顔"といったのか、ジャッキールには正確にはわからないが、今の自分が普段と違って見えるのは予想がついた。
　今のジャッキールはいかにも無防備だった。
　たそがれている、といえばそれまでだが、普段のジャッキールはそんなぼんやりした様子を他人に見せることはしない。
　もっとも、もともと彼はそんなところがあった。こんな風になる前は、彼はどちらかというとおっとりとした青年だった。一人で物思いにふけってぼんやりするのも好きだった。
　しかし、いつからかそれを他人に見せることはしなくなった。
　ザハークからしてみると、今の自分はスキだらけなのだろう。それがかえって気持ち悪いのだろうな、とジャッキールは考えていた。
「何を、だと？」
　ジャッキールは、鼻で嘲笑う。
「言葉にするほどのことを考えていたわけではない。ただ、色々と思い出していた」
　ジャッキールは足を組み直して、その場に座り直した。
「色々とだと？」
「昔のことだ。特に、ラゲイラ卿に雇われていた時のことや、ローゼといたころのこと」
　ジャッキールはため息をついた。
「俺は貴様と違って不器用でな。血を流すことでしか、何も成し遂げられん」
　ジャッキールは、自嘲的に笑う。
「俺にとっては、肉体も精神もただの消耗品だ」
　こともなげに彼は告げる。
「俺はそれらを削っていくことでしか、何をすることもできない。特に何を守るのならな。他人の血を流し、自分の血も流す。それしかできない。体も心も削れていくが、それが当然。いつか、どちらかが……、俺は精神が肉体より脆弱だから、おそらく体より魂の方が先に磨滅するのだろうが。そうして削れてなくなれば、その時に死ぬのだと思っていた。それまでは、それを武器に戦い続ける」
「お前らしい破滅的な考えだな」
　ザハークが静かに頷く。
「だからこそ、いつも中途半端で、死ぬまで何を成し遂げることもできんのだと思ってな」
　彼は続けた。
「今までそれしかできないと思っていた。俺には他の方法がない。今まで当然のようにそうしてきた。他の方法を考える努力すらしなかった」
　ジャッキールはうつむいた。
「当時、ラゲイラ卿にはそのことで随分と叱られたが、俺は改善することはなかった。俺にはそれが正しい答えとしか思えなかった。しかしな、それは間違いではないかと、思ったのだ」
　ザハークは、少し驚いたようにジャッキールの方を見やる。彼は、顔を上げ夕陽をまっすぐ見やりながら続けた。
「事実そう思って努めてきた俺は、何にしても中途半端だ。成し遂げようと思えば、死ぬしかないのだからまあそうだろうな。ラゲイラ卿には信任されず、ローゼ、メイシア＝ローゼマリーすら救えなかった。特に、彼女には要らぬ負い目をおわせてしまった。俺は、ただ、彼女を守りたかっただけだったのに、まことの意味では守ることができなかった」
　ジャッキールは、深々とため息をついた。
「守ることは難しいが、攻めることより俺には向いている。それは貴様の言うとおりだ。しかし……、しかしだ、俺がこのような考え方をしている以上、俺は守り抜くことができないと思い至った」
　ジャッキールは、目を細めて夕日を睨むように見た。
「だから、俺は。今この瞬間から、その考えを、改めようと思う」
　ふとザハークが驚愕の表情を浮かべた。
　ジャッキールはそれに気づいているようだったが、まじめな顔でちらりと彼を見上げる。
「今までのような、捨て身で戦えばいいような考えは捨てる。勝つ為には、守る為には、消耗戦ではダメなのだ。特に"彼"に勝つ為には」
「エーリッヒ、貴様……」
　呆気に取られるザハークに、ジャッキールは続けた。
「俺の命などかけたところで、所詮、端金程度の価値しかない。ラゲイラ卿にはそれでは何の脅威にもならん。だからこそ、今までとは別の戦い方をしなければならない。それには、まず”生きて”いなければならない」
　ジャッキールは、珍しくやや熱を帯びた話し方をする。そのくせ、外見上はてんで冷めきった、ぼんやりした様子で、それはバランスを欠いて奇妙だった。
「死ぬのでなく生きる、そして剣ではない方法。それでもって戦ってはじめて、彼と渡り合えるはずだ！」
　一通り話し終えて、ジャッキールは静かに拳を握る。ザハークは静かに考えるように彼を見ていたが、やがて俯いて苦笑した。
「ははは、随分と唐突な方針転換だな」
　ザハークは、肩を竦めた。
「何故そんなことを言い出したのかは、大体俺にも予想がつくぞ」
　ザハークは、向こうでリーフィと談笑しているシャーを見て、軽く目を細めた。
「だが、その仕事は難しいことだ。お前にとっては、死ぬ方が楽なこと。今まで、生き延びようとして行動したことはないだろう？　得手勝手が違うことだ」
「それは十二分にわかっている」
「まあ、さすがにわからんほど馬鹿ではないか」
「しかし、やるしかないのだ」
「そうだなあ」
　ザハークはため息をついた。
「やれやれ、あのカワウソ男も困ったものだ。どうも、この屋敷から見る落日は、演出が行き過ぎている。こんなものを見ると、どうも余計な考えがよぎるものだな」
　ザハークは、立ったまま夕日に目を移した。もはや太陽は地平線の向こうに沈みゆくところだった。最後の輝きが、彼らの瞳を赤く染めている。
「エーリッヒ、お前も厄介な仕事を抱えるのが好きだなあ」
　いつのまにか、ジャッキールの左手の中指に、黄金の指輪がはまっていた。


　*

　待ちぼうけを食わされた彼は、たいへんに不機嫌だった。
「全く、殿下は自分勝手すぎる！」
　ブツブツ文句を言うのは、ギライヴァー＝エーヴィルの護衛官である青年、キアンだった。いかにも両家の子女といった風貌の、容姿端麗で上品な青年だ。それだけに素行不良で自由奔放なギライヴァーとは、何かと合わないことも多い。
　キアンとて、好きで彼に仕えているわけではない。主君が選べたのなら、もっと別の主君を選ぶだろう。
　キアンの祖父が、ギライヴァーの後見人、つまり"じいや"だったからこそ、彼はギライヴァー＝エーヴィルの側近を務めているのだ。
　しかし、ギライヴァーは、三十路も半ばを越えた曲者で、まだ青二才の気配を漂わせているキアンなどは体良くあしらわれるのが日常茶飯事だった。特に女がらみの件では、何度も途中で撒かれてしまうことがあり、一人で外出されてしまうことも多い。
　そういう時は、本当に単独行動のこともある。いや、一応ギライヴァーにも陰ながら彼を守る、隠密行動もとれる護衛はいるにはいるのだが、そういう者がいないで”本当に”一人のことも多いのだ。
　今日などは本当に一人らしく、護衛のものが慌てた様子で行方を探そうとして、乳母のエスメラにたしなめられていた。曰く、「その内帰っていらっしゃるわよ」。
　キアンは、結局イライラとしながら彼の帰りを待つ羽目になるのである。
「また女遊びなのだろうが、一人で出掛けるのは危険とあれほど……。いや、そもそも、お屋敷にいるようにと口酸っぱくお伝えしたのに！」
「キアン、なんだかんだでお前も殿下が心配なのだねえ」
　相変わらず、針仕事をしていたエスメラがぼんやりと言った。なんとはなく無表情。緑の目が印象的な彼女は、かつては西方から拉致された、売られてきた奴隷だときいている。
　ギライヴァー＝エーヴィルの乳母であるエスメラは、キアンにも幼い頃から馴染みの人物だが、表情が薄い上にギライヴァーにも気後れしない気の強さもあり、なんとなく苦手だ。
「べ、別に私は。殿下をお守りするのが私の仕事なので」
「まあ、お前にもそれなりに忠誠心があるということだわね」
「それなりとはなんです！」
　からかっているのかどうなのか、そんなことをいうエスメラに、キアンは真面目に反応するが、彼女は歯牙にかけていない。
「殿下もあれで馬鹿ではないわ。それなりにご自分で身を守れるのでしょう」
「しかし……、伴のものが一人もいないなどと……！」
「殿下なら、伴の者がいないのにもかかわらずいるように装うでしょう。要するに”ハッタリ”ね。今までもそれで切り抜けてきたのを何度も知っているわ」
　彼女は冷静にそう答えて、ふと付け加えた。
「まあ、本気を出せば、殿下、お前より強いかもしれないし、心配することはないわよ」
「殿下の剣や格闘技のお腕前など、わたくしは見たことがございませんので、そうかもしれませんね！」
　むっとしてキアンは不満そうになるが、エスメラは気にした様子もなく続けた。
「殿下もああ見えて良いところはあるのよ。たまの散歩ぐらい許してあげたらどうかしら」
「それは、わかっております。しかし、女性がらみはどうかと思いますよ！　まあ、殿下は女性にはことのほか、お優しいと評判ですが」
　キアンが皮肉っぽくいうと、エスメラはふと視線を落として呟いた。
「殿下は、本当は今も昔も優しい方さ。口は随分悪くなったけれどね」
　ふと入り口のほうで声が聞こえ、キアンはむっと眉根を寄せた。どうやら、当の本人が帰宅したらしい。どう文句をつけてやろうかと思いながら、キアンはつかつかと足を進め彼を迎えに部屋を出ると、ギライヴァー＝エーヴィルは他の使用人と会話しながら居間に入ってきたところだった。
「殿下！」
「キアン、悪りぃけど、ちょっと頼みがあるんだよなー」
　開口一番、キアンにも文句を言わせず、彼は例の調子で声をかけてきた。
「殿下、帰るなり何です？　大体、今までどちらに……」
「ちょっと、アイード＝ファザナーに会いたいんだよなァ」
　キアンを無視して彼は話を続ける。キアンは、文句を連ねるつもりだったが、いきなり思いもよらない男の名前が出てきて、思わず口ごもった。
「アイード＝ファザナー？　殿下が、ファザナー将軍に何の用です」
　キアンの知る限り、ギライヴァーとアイードには面識はない。なにかの時に挨拶したくらいはあるかもしれないが、間違いなく親交はないはずなのだ。
　しかもアイードは、今のシャルル＝ダ・フールの陣営では間違いなく守備の主力。ラゲイラ卿の計画を迎え撃つ上では、重要な位置にいる。
「いや、この間、ちょっと万引きしたのがバレてよう。リリエスの奴の頼み事を受けるハメになっちまったんだよなー。で、ファザナーの若旦那に会いたいワケ」
「事情がよく飲み込めませんね」
「まあ、お前は事情なんざぁ、知らなくて良いんだよ。とにかく、アイードに会いたいんだ。あの坊ちゃん、噂じゃ結構街の中フラついてるんだろう。だったら、お忍びで会う機会ぐらいはあるかなーってさ」
「殿下、リリエスとおっしゃいましたが、あの男が絡むということは、さてはあの怪しげな薬に絡んでのことでは？」
　キアンは声を高めた。
「まさか、ファザナー将軍に近づくとはそのような……！」
「声がでけえんだよ、お前は」
　ギライヴァーは、あきれた様子で肩をすくめる。
「まあ、俺も面倒だなあとは思ったんだけど、よくよく考えれば、それぐらいならいーかなーって思ったわけよ」
「よくありません！　ファザナー将軍は、今の王都の守護のかなめでしょう？　敵方の要人といってもよいのですよ！　そんな気軽に、珈琲を飲むような調子で引き受けてよいはずがありません」
「リリエスの望みは、その”要人”に薬を盛ること」
　ギライヴァーは、いきり立つキアンを宥めるように落ち着いた声で彼を遮った。
「ってなると、まあ、何人か候補はあるよな。まず、宰相のカッファ＝アルシール。だが、まずもって大物過ぎて近づけない。それに、リリエスは軍人相手の方が面白いと思っている。てなると、将軍たち、とりわけ七部将ってことになるだろう。ジェアバード＝ジートリューとハダート＝サダーシュは、そもそも王都にいない。デューアンとカンビュナタスも赴任中。王都にいるってなると、ラダーナとゼハーヴ、そしてアイードの三人だ」
　ギライヴァーはそう数えだてた。
「で、ゼハーヴのジジイは、王宮の守護が仕事なこともあって、そう簡単に俺なんかが近づけねえやな。カルシル＝ラダーナは、あれで意外と下町を歩いていることがあるけど、あんなやたら腕が立って、しかも何考えてるかわからねえヤツ、危険すぎる。となると、残されるのはアイード＝ファザナー」
　ギライヴァー＝エーヴィルは、ふっと冷徹に笑う。
「アイードが桟橋付近でうろうろしているのは有名な話だ。それに、性格はお人好しで気さくだっていう。だとしたら、俺がコッソリ会うとすれば、アイードが一番安全だ。それに、アイードはまだ若い。つけいるスキがあるなら、まずもってアイードってことになるだろう」
「しかし……！」
「お前、何を懸念してるんだ？　俺がラゲイラの親父のタメになることしてるんなら、それでイイじゃねえか」
「し、しかしですね」
　キアンは少し考えて、
「この間、殿下はリリエスを妨害しました。その時、殿下は、シャルル＝ダ・フールを狂わせるようなことはしたくないと、そうおっしゃったのでは」
「だから、こーやってするんだよ。アイードみたいなやつが被害にあえば、向こうもそれだけ備えるだろうしさ。大体、アレは一回程度でおかしくなるようなモンじゃねえ。継続的に使われるとしらねーがな。まーでも、騒ぎにはなるんだろう」
　ギライヴァーは、軽率な様子でそういうとやけに冷酷に微笑んだ。
「別に死にゃしねーと思うが、本音じゃ俺は別にあのファザナーの坊やがどうなろうと知ったことじゃねえんだよ」
　キアンが思わず黙り込む。
「アイツが失脚しても別に構わねえし、運悪く薬が当たっちまって死のうが狂おうがカワイソーって思うダケ。第一、あそこで一番怖いのは、”奥様”ことアイツのおかんだろ。あの母親が生きてりゃ、ファザナーはどうとでもなるんだろう。だから、あんな甘ちゃんのボーヤ、いてもいなくても俺にとって何の不都合もない。普通のイケメン程度で、特に絵にかくような魅力もかんじねーしな」
　キアンは、珍しく主君に空寒いものを感じる。
「まあ、イイんじゃねえか。シャルル＝ダ・フールの為に役立つのがあいつ等の使命なんだからよ。そういうわけで……」
　ギライヴァーの目がキアンをちらっと見る。彼が思わずびくりとしたのを、ギライヴァー＝エーヴィルは苦笑する。
「ビビってんじゃねーよ、キアン。大したことじゃねーって。殺すわけでもないんだし、一回、気分良くさせてやるだけ。気楽なもんさ。第一、お前は単に調べてくればいいだけ」
　そういって、彼はキアンの肩を軽くたたいてすれ違い、いつもの、気怠い口調で言った。
「お前は、アイード＝ファザナーがうろついてる場所の情報聞いて来れば、それでいいんだよ」
　その瞬間、ちらりと半分だけ顔を向けて笑う彼が、キアンにはまるで悪魔のように見えた。
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