一覧 戻る 進む エルリーク暗殺指令-24 軽快な音楽が響いている。 しかし、その軽快さとは不似合いな、異様な緊張感が酒場の中に満ちていた。 太鼓の奏でるリズムに合わせて、二人の男が踊る。 間奏中。これで、攻守交替は五回目を越えた。いつの間にか別の曲が始まっているが、それでも勝負がついていないのだ。 当然ながら互いが披露する技の種類や難易度も上がっており、周囲で賭けをする者たちも盛り上がる。賭けの倍率があがり、追加の賭け金が飛び交っている。 シャー=ルギィズの動きはあくまで勇壮で、なおかつ今日は切れ味が鋭い。回転は速く鋭く、足運びは華麗かつ力強く……。振付は複雑で難しいが、それを投げかけられてもアイード=ファザナーは落ち着いたものだ。攻撃性を裏に隠したように、流れるように美しく踊る。 「すっげえ勝負になったな」 ゼダがぽつんと呟くと、周囲にいた船乗り風の男が頷く。 「当たり前だろ。あの三白眼のヤツ、若旦那についていくんだもんよ」 「いや、アイツはもともとこういうのうまくてさ。オレでもついてけないんだけど。驚いているのは、あっちの若旦那の方だよ」 ゼダは華麗にやり返すアイードを見やりながら、船乗りに言った。シャーのことはよく知っているが、アイードの方もあれだけ踊りながら、まだ息が切れていない。余裕があるのだ。 「あんなにやるにーさんだったとは思わなかったのさ」 ゼダが本音でつぶやくと、彼は笑った。 「当たり前だ。うちの若旦那は、”やればデキる”ぼんくらだぜ。そこいらの箱入りのお坊ちゃんと一緒にしてもらっちゃ困る」 「やればデキるのに、なんで普段はポンコツカワウソ男なんだよ」 「そりゃ、”やれない”からじゃねーか」 別の男がそういう。 「やれない? なんでさ? やらないじゃないのかよ?」 ゼダが興味深げに顔を上げる。 「やらないんじゃなくて、やれねーんだよ。あの若旦那」 ほかの男がため息まじりにいう。 「あの性格が問題なんだよな。なんというか、性根が草食動物だからなあ」 「そう、いざってなると普段から草食ってる感じの弱腰がさあ……。勿体ねえボンクラなんだよな」 「へー」 そんな会話は外野でなされている間も、シャーとアイードは相変わらず鎬を削っている。 いつもなら、この辺りでもう少し余裕のある動きを見せるシャーだったが、今日の彼は少し余裕がない。 少なからず、アイードの健闘はシャーにも意外だったのだ。 (コイツ……、オレにここまでついてくるなんて……) シャーはアイードの踊りを睨みながら、リズムをとる。 最後に必ずアドリブを入れてくるので、それを返す必要があるのだが、既にお互いかなり難しい技を盛り込んできているので気が抜けない。 難しいステップを入れてやっても、彼は必ずついてくる。シャーは軽業的なことも得意だが、アイードもそれなりに返してくる。そして、シャーはあまりやらない、ちょっと優雅で抒情的な振付を咄嗟に入れて返してくるのだ。 (ここまでできるのに、今まで何故見せなかったんだ?) こんな特技があるなら、七部将間でもちょっと有名になってもおかしくないはずだ。ハダートあたりが何かと話題に出しそうなものだが、それもない。宴会の余興でも、彼がこんな風に踊ることはなかった。 (コイツ、なんで今まで隠してたんだ) ふと、シャーはこの間の会議のことを思い出していた。 例の件について一通り打ち合わせた後、アイードは忙しいと言って逃げるように帰ってしまった。ゼハーヴやカッファなどにあれこれ叱られてはいけないと焦っているようだった。 まあ、それは良いとしよう。実際アイードが忙しくなるのは間違いない。 ラゲイラ卿の一派の者たちが入り込んでいるのだとしたら、それに対抗できるのは、やはり現在最大の軍事力を誇るアイード=ファザナーの力は大きい。そして、不審な人物が水門から入って来ている海賊達を含むのだとしたら、明らかにそこは彼の管轄だった。 アイードが帰ってしまってからも、レビ=ダミアスやカッファ、ゼハーヴは何かと打ち合わせをして忙しそうだった。 そんな中、シャーはふとカルシル=ラダーナ将軍と二人になる機会があった。 「そういえば、オレ、アイードのことで、ちょっと気になることがあったんだけどさ」 ラダーナは、彼にとって気安い存在であり、なおかつアイードとも仲が良い。それもあって、彼は何気なく話を出してみた。 「アイツ、そういえば過去がよくわかんないんだよな。少年のころに北部諸島の方で、海戦とか学びに留学してたって聞いたけど、本人は西の航路の方が詳しいみたいだし。ここんとこ、よくアイツと会うんだけど、なんだか、よくわかんないところがあったんだよ?」 ラダーナがちらりとシャーの方を見やる。 「ラダーナはアイードのこと、よく知っているのかい?」 そんな風に聞いただけなのに、ラダーナはふと考えてから言った。 「殿下、アイード=ファザナーの忠誠を疑ってはいけません」 無口な彼がそんな風に意見を出すのは珍しい。ちょっと驚いていると、彼はつづけた。 「あの男は、善い男です。必ず、殿下を守ってくれる。殿下は彼を信用なさいませ」 そんな風に言われたのが、少し意外だった。 カルシル=ラダーナは、シャーに最も近しい将軍だった。彼が幼いころから、常に従軍していて、一緒に過ごした時間も多い。無口な彼のこと、じっくり突き詰めて話すというようなことにはならなかったが、ラダーナはいつでも彼の気持ちを汲もうとしてくれていた。 そんな彼の言葉に、シャーは少し意外に感じていた。 「いや、疑っているわけではないんだ。ただ、ちょっと……」 「ちょっと?」 「違和感、かな。……アイツだけ、他の七部将と、なんか違う……気がしてきたんだ」 無口なラダーナは、それ以上の答えをくれることはなかったが。 違和感。 確かにそうなのだ。どこか、この男だけ他の六人とは違う。 しかし、何処が違うのかわからない。自分に対して確かな忠誠を感じてはいるのだが、何か違う。 「やれやれ」 ふとそんな声が聞こえて、シャーは我に返る。間奏の合間、ふとアイードがシャーの方をみて、にやっと歯を見せた。 「ちょいと疲れてきません? そろそろ切り上げたらどうでしょ?」 「何言ってんだ」 シャーがむっとして返す。 「悪いけど、勝負着くまで終わんねえよ」 「そりゃ困ったですね。しかし、勝負つけるだの言いだすと疲れますよ?」 アイードはそう言って愛想笑いを浮かべたが、シャーの態度は変わらない。それを困ったように見ていたが、彼はふと笑って言った。 「やれやれ、強情ッ張りですねえ。まあいいや、それじゃ、もうちょっと楽しくなるまで続けましょうか?」 「楽しく、だと?」 シャーが眉根を寄せる。 と、アイードがふと動いた。今度はアイードが先攻なのだ。 「こういうのは、楽しくしないとね!」 ばっとアイードが躍り出る。アイードはふと、今までとは違う振付で踊りつつ、手をたたいて楽隊に声をかけた。 「さって、いい加減この曲も飽きたぞ! 曲変えるぜ! ノリのいいやつをくれ!」 そういうと、楽隊が了解とばかりに、うまく別の旋律を奏でだす。 今までより明るい音楽とわかりやすいリズムが、酒場の中を満たし始める。 「じゃ、この曲で行こうぜ!」 アイードはそういうと、先に踊りだす。相変わらずキレが良く、足が良く上がっていた。軽快な踊りは、今までとは打って変わって楽しそうで、軽く歌でも口ずさんでいるようだ。一節おどり、彼はシャーにそれを振る。 シャーは一気に雰囲気が変わったことに面食らったが、先ほどよりもずいぶん踊りやすい曲だ。アイードの踊る内容も、それほど難しい振付ではない。体の赴くままに踊ると、酒場の男たちがふと歓声を上げて盛り上がる。そのまま踊ってアイードに返す。 「ははは、さすが。でも、楽しくいこう!」 アイードは、あくまでそう言ってシャーを含む皆を煽る。 踊りの雰囲気も変わっていたが、実際はアイード自体の持つ空気が変わっていた。彼は周囲の熱気をあおるようにしながら、常とは違う陽気な気配に満ちていた。 アイードが少しだけ難易度を上げてシャーに返す。 しかし、それは、先ほどまでとは違っていた。先程までは相手を潰すために意地をはり合いながら、踊っていた。だが、この軽快な音楽とアイードの変えた流れの振付が、どうも気持ちを軽くさせてしまう。 シャーはともあれ、アイードはすでに笑顔で踊っている。ちょっとシャーの様子をうかがいつつも、さほど大きな勝負を仕掛けてこない。彼を怒らせない程度にふと難しい振付を混ぜつつも、あくまで楽しく踊っているのだった。 そして、時折、皆を煽るのだ。歓声が上がり、この酒場の空気を彼だけが一方的に操っているかのように。 そんな彼に引きずられて、シャーもいつしか踊りかわすのが楽しくなってきていた。 しかし、楽しくなってきているのは、何も彼らだけではなさそうだった。観客も、体を揺らしながら音を楽しんでいる。 それを見計らったかのように、唐突にアイードが陽気に声をかけた。 「お前等ー! そんなトコで金の算段してるだけで、楽しいのかよ!」 ハッと彼らが我に返ったところで、アイードが笑いながら呼ばわる。 「さあ、一緒に踊ろうぜ!」 彼がそう言った途端、観客たちは顔を見合わせ、わっと踊りの輪の中に入ってくる。 「不景気なツラしてないで、楽しく踊りあかそうぜー!」 「おおー!」 アイードに煽られて、男たちが踊り始める。さほど広くもない酒場はそれだけで人が溢れている。 もはや勝負どころでなく、シャーも相手の動きがつかめなくない。 「お、おいっ、ちょっと……っ!」 周囲の楽しげな空気に流されそうになりつつも、シャーは踊りつつ、人の波に押されつつ、アイードを探した。酒場の中心では、ゼダが楽しそうに踊っている様子が見えたが、肝心のアイードがいない。 どこだ。と慌てて探して、シャーはようやく赤い髪がひらめくのを見つけた。 「あ、アイツ!!」 ふと見ると、アイードが酒場の入り口からコッソリ逃げていくところだった。 (あの野郎、もしや皆を巻き込んで踊らせたのは……!) シャーはアイードの思惑がようやく読めていた。 「あ、ちょ、ちょっとどいて……。通して……」 どうにか人波をかき分けるようにしつつ、シャーはあわてて彼の後を追った。 酒場の外に出るころには、アイードの姿は周囲にない。 「どこだ! あのカワウソ野郎!!」 イラつきつつ、彼を探しながら小走りで周りをうかがっていると、アイードの声がどこからか聞こえた。 「悪いね。急に頼んでしまって」 路地裏。料理店の裏口で、アイードが愛想よく、陽気におかみさんと話しながら籠を二つ受け取っていた。料金を払って挨拶をしたところで、彼はふとシャーを見つける。というよりは、アイードはどうやらとっくにシャーの存在に気付いているらしかった。 だから、あくまで彼はゆったりとその一連の交渉を済ませたのだろうが、敢えて目を合わせると、わざとらしく笑顔になった。 「あっりゃー、思ったより早く出てきましたね。流石、お坊ちゃん」 アイードはすっとぼけたようなことを言う。 「お前、わざとだろ」 「何がです?」 アイードは目を細めつつ小首をかしげる。シャーは無言だ。 その気まずい沈黙に、アイードはくすくすと笑った。 「まーね。お坊ちゃんをあの程度で撒けるとは、俺も思ってませんですしね。せっかくですし、ちょっとその辺でお話しましょうか」 苦笑しつつ、アイードはそういう。彼はそのまま、不機嫌そうなシャーを川を臨む小道に案内した。 * 狭い路地裏を抜けてちょっと開けた場所だ。かすかに傾斜があり坂になっている。そこを上ると、建物の間から、大きな川面が現れ、船がゆうゆうと流れる水に浮かぶ。 しかし、人気のない場所だ。視界が開けている分、誰もいないのがよくわかる。 「ここ、ちょっとイイトコでしょ? 俺、意外と気に入ってるんですよ」 アイードは川べりの欄干に身をゆだねて川を見ている。 「ちょっと疲れましたね。いやあ、久々に本気出しましたしね。相変わらず、お上手で……。ついていくのがキツかったですよ」 アイードはため息をついてそんなことを言う。 シャーはしばらく無言のままだ。 シャーには、彼が何を考えているのかがわからない。 目の前の男が、自分の知っているアイード=ファザナーなのかどうかも、確信が持てなくなりそうだった。今はいつもの彼のように見えていたけれど、あの酒場のアイードも、彼が見たことのないアイード=ファザナー。 酒場の空気を支配し、皆の視線を浴びながら、彼らを煽動する。まるで別人。知らない男だ。 「お前、なんで逃げた?」 シャーがぼそりと尋ねると、アイードは余裕の表情だ。 「何をです?」 「勝負だよ。お前がみんなを盛り上げている隙に店から出て行ったの、すべて計算ずくだろう? オレと決着をつけるのを嫌がったんだ」 「勝負なんて……。そんな重大なことですか? 勝ったところでせいぜい酒の一杯おごられる程度。一銭にもなりゃしない」 アイードはにやりと笑う。シャーは無言のままだ。彼はふっと笑った。 「まーでも、わかりますよ。だとしたら、殿下、まだお若いのですね」 アイードはつづけた。 「確かに、私は殿下《アナタ》の部下なので、そのまま勝つってのはどうも。そんなわけで、ちょっと頭使ったんです。……でも、本当は私に本気になってほしかったわけでしょ?」 「そ、そういうわけじゃねえよ……」 シャーがやや動揺しつつ、不機嫌に吐き捨てると、アイードは不意にがらっと話をかえるように言った。 「ところで、殿下は私にどっちの姿を求めるんで?」 いきなりそんなことを言われて、シャーがきょとんとするとアイードはつづけた。 「いや、部下のアイードでいてほしいのか、それともお友達のアイードでいてほしいのか。……今まで私は殿下《アナタ》の部下でしたよ。だから、対等の立場にはなれない。私が本気で勝負をするなら、立場は対等じゃなくちゃ無理ですよ」 にっとアイードは笑う。 「気持ちはわかりますよ。実際、今の殿下《アナタ》に必要なの、私みたいな部下より、お友達な気がします。あのネズミのボーヤみたいな子とかね。ですが、対等でいてほしいという願いなら、私の立場じゃ、ちょっと覚悟が要ります」 シャーは黙っている。アイードは笑った。 「昔からうっすら、そうなんだろうなーとは思っていました。そろそろ一回はご希望を聞いておかなきゃと思っていましてね。殿下がどうしたいかで、俺も考えます。……答えは、また教えてください」 アイードはそういってふと優しい顔になる。 そうしてみると、どこかいつもの彼らしい、柔らかい穏やかさが空気中に流れているようだった。 「でも、さっきの、楽しかったでしょ?」 アイードは悪戯っぽく笑った。 「モヤモヤしてるときは、体動かすのが一番ですからね」 「お前……」 シャーは、少しむっとする。 「殿下《アナタ》顔に出やすいんで、見りゃわかるんですよね。どうせ、この間の件、気に病んでらっしゃるんでしょ?」 そう言って、アイードは優しげな顔になる。そうすると、なんだか見慣れた彼だった。頼りなげだが、穏やかで優しい。 「指輪の件に、ジャッキールさん巻き込んだんじゃないかって」 「それは……」 シャーはやや俯く。 「相手のコト、俺も一応調べましたよ。サッピア王妃のところの連中もいますケド、直接手を下したのは、彼らの下請け業者だった。表向きの目的は、殿下《アナタ》が持っているだろう指輪だ。それなのに、何故か、ジャッキールさんに因縁のある少女が使われて、そして彼自身も巻き込まれてしまった」 「そうだ。本当はオレが狙われたんだろうからさ。名前も借りたりしたし、そのせいはあるんじゃないかって……」 アイードの優しさに、つい素直に吐き出す。 「あんなに錯乱してるのは初めて見たし……、メイシア=ローゼマリーを使われたのが、あのダンナにとってどんだけキツイかってわかる。あのメイシアって娘にしてもさ」 シャーはため息をついた。 「だから、オレがあんな作戦考えなきゃこんなことにならなかったかなって……」 「はは、ジャッキールさんが羨ましいな。そんな風に心配されて……」 アイードは笑った。 「まあ本人にも聞くのが一番ですけどね。……あの人、そんなの気にしてませんよ。全部自分の過去が引き起こしたことだと思っていますんで、巻き込まれたとも考えてないでしょう。ですからね、そんな顔してちゃだめですよ。あっちが病んじゃいますからね。あの旦那も、何かと落ち込みやすいヒトなんですから……」 アイードは、あくまで軽く続けた。 「ジャキさんは、随分殿下《アナタ》に感謝してましたよ。まあ、それは蛇王さんもですけど……。いてくれてよかったって……。殿下《アナタ》がいないと、多分どちらか死んでたんでしょう。今回に限らず、あの二人、あの二人だけではね、お互い救えないんですよ。蛇王さんはどうにか助けてやろうとは思っているんですが、彼の力では殺す以外の選択肢がないのだと、自分でそう言っていました」 アイードは首を振る。 「本当は親友みたいなもんなのに、どっちも不器用で救い方も救われ方もわかっていなくてね。二人ともそのことはわかってて、だから、次に顔を合わせたら殺し合うと思っていた。そんな時に殿下が間に入って来てたもんで、今みたいな平穏な生活が送れているって、感謝してるんですよね」 アイードは向き直って川の方を見た。シャーに背を向けるようにしつつ、彼は続ける。 「彼らに限ったことでなく、ネズミのボーヤやリーフィちゃんにしてもね。我々七部将だってそうだ。殿下は今まで皆を助けてきた。だから、たまには助けられてもいいんじゃないでしょうか」 アイードの声色が優しくなった。 「もう少し自信をお持ちなさい。殿下はご自分が考える以上に、愛されていますよ」 シャーは、それには直接答えない。 「オレは別に。そういうんじゃないんだ。助けるって程、立派なことはできてない」 少しの沈黙の後、シャーはため息をつく。 「ジャッキールのダンナや蛇王さんがそういってるのは、成り行きでそうなっただけのことさ。そういう、皆助けて回っていたのは、親父の方だよ。親父は確かに皆に希望を与えて回ってた。オレは別に何もしてない」 アイードはそういわれて振り返って軽く笑う。 「はは、それは違いますよ。先王陛下は確かに人に希望を与える男でしたけどね」 そして、ふとこう告げた。 「”あの男”は、他人を救いませんよ」 ドキリとしてシャーは思わず身を固めた。 ”あの男”。 今、アイード=ファザナーはそう確かに言った。 先王セジェシスは、この国の中でも信奉者が特に多い。特に軍人たちの中では崇拝対象といっても過言ではない。七部将の中でももちろんそうだ。 口さがないハダートでも、気を遣って名を使う。 それが先王、セジェシス陛下。 それなのに、アイード=ファザナーは、”あの男”と彼を呼んだのだ。それがどういう意味であるのか、シャーは瞬時に理解する。 「お前……」 「彼は、確かにイイ男でした。人に夢を見せることに長け、それで希望をもらった人間は数知れない。そういう意味では人を救ってきましたよ」 シャーの反応に臆することなく、彼は続ける。 「けれど、何処か冷めていた。人々を熱狂に巻き込みながら、当の本人は冷めていました。俺はそれに気づいてしまった。殿下なら気づいていたのでしょう? 周囲を熱狂に巻き込みながら、彼が冷めきっていたことをね」 アイードは振り返って小首をかしげた。 「もちろん、聡い先王陛下は俺がそう考えていることにも気づいていましたよ。『アイード、お前は恐ろしい奴だなあ。俺の本心がわかるのかい?』って。ご本人に尋ねられました」 アイードは静かに首を振る。 「別にそんな恐ろしいものでもないんです。ただ、あの時、既に彼は絶対的な魅力を持った支配者でした。皆を夢で酔わせる男でしたから。だから、皆気づいていなかった。でも、俺は気づいてしまっただけなんだ。何故でしょうね。あの頃の俺が、ちょっとひねくれていたからかもしれないな」 川面の冷たい風が足元を撫でた気がした。シャーは彼を凝視していた。 「けれど、それは当たっててね。セジェシス様は、結局、すべてを捨てて消えてしまわれた。それが故意なのかどうかはわかりません。もしかしたら、本当にお亡くなりになったのかもしれない。けれど、俺はあの男は生きていると思うんですよ。面倒くさいことを一切合切、息子に押し付け、好きな女とでも自由を謳歌しているのでしょう。そういう男だと、俺はあの時すでに気づいていた。それはそれで幸せなことです。彼は突然支配者になってしまった。けれど、玉座に座ることを幸せと感じられる人物ではなかった。しかし、彼に救われた者たちは、それで再びどん底に突き落とされたんだ。それは救ったことにはなりはしない」 アイードの声が、聞いた事がないほど冷たくなる。 「あの男は、皆がそうなるのを知っていた。知っていたうえで、知らぬ顔をして、それを実行した。ほんっと、冷徹で無責任な、人の情のない男ですよ、”あの男”」 吐き捨てるように言って、にやりとアイードは笑う。 思わずぞくりとした。 唐突に、シャーは彼が怖くなった。父が彼を「恐ろしい」といった理由を理解したような気がした。 シャーは、今の今まで、ここまでセジェシス王をこき下ろす人物に会ったことがない。いや、正確には一人知っている。自分だ。 絶対的な魅力を持つ偉大な男、建国者セジェシス。その父が実は非常に無情で、責任感のない男だと、シャーは心底思い知ってはいたが、今まで誰もそんな風に彼を評価しなかった。 彼を貶めることは、いわば禁忌。 彼を唯一批判できたのは、息子である自分だけ。それも、彼を信奉する者たちの前で声高に唱えることはできない。 彼は、それほど偉大な、消えた今でも影響力のある男なのだ。 シャルル=ダ・フールが国王の座についたのは、まさに彼自身がセジェシス王の気配を一番色濃くまとっていたからだった。シャーですら、その影響を逃れることのできないもの。 それを、こともなげにこんな風に言い切る。 しかも、彼の王子である自分に向かって。名高い七部将の一将軍ではあるが、まだ若輩者のアイード=ファザナーが、だ。 それが示すのはただ一つ。 ――この男、セジェシス王の威光を心の底では何も恐れてもいない!。 一覧 戻る 進む |