一覧 戻る 進む エルリーク暗殺指令-23 アイードの別荘まで、なんとなく重い足取りでシャーは歩いていた。 そこに行くには、まずは河岸を通る必要がある。 夜とは違い、運河の周囲は人の往来が多い。近くに市場があるのか、子供を連れた母親の姿も見られた。 物資が行き届いていないのはここも同じなのか、閉まっている店が多いものの、水門に近いこともあってか、シャーの根城であるカタスレニアよりどこか明るく活発な印象だった。そのせいか、一軒開いている酒場があり、そこからは楽しげな音楽が聞こえてくる。 今のシャーはそんな酒場を覗く気分ではなかったが、それでも足を止めたのは見たことのある顔がそこから出てきたからだ。 「おう、すまねえな。恩に着るぜ!」 いかにも若い衆といった人相の悪い若者を連れた男だ。隻眼らしく眼帯をしている。 「あれ、ビザンのおやっさんじゃないか」 その男はビザン=ハーキムだ。ハーキムといえば、この王都でも有名なヤクザもので、その勢力をシャーと同じ名前の悪徳親分と二分しているという。その割に自分で酒場をコッソリ切り盛りしている変わり者で、何故かジャッキールと縁があるという男だ。 ジャッキールの行方を探すときは、シャーは彼にも話をきいたものだったが。 (ここはあのオヤジの勢力範囲外だと思うけどなあ) そんなことを考えつつ、とりあえず挨拶しておこうと考えていると、 「やあ、珍しいなあ」 不意に別の声が割り込んだ。 「誰かと思ったら、ビザンのおやっさんじゃないか?」 そんな声が聞こえ、思わずシャーは身を隠す。 そこにいるのは、一見、伊達男風の青年だ。しかし、帽子からはみ出る赤い髪で、シャーは彼の正体を知る。 (アイツ、忙しいっていってたんじゃなかったっけ?) そこにいるのは、七部将の一人、アイード=ファザナーだ。 ここ数日、宮殿の打ち合わせでも幾度となく顔を合わせてはいたが、そのときはアイードの奴は、素知らぬ顔をしていたものだった。 いっそのこと不気味なほど、彼はいつものアイード=ファザナーで、ラゲイラ卿の部下らしい兵隊たちがすでに船で運ばれてきていることを知ったカッファ達に怒られて弁明していた。手を打ちます、という慌てた彼を、カルシル=ラダーナがそっとかばっていたのが印象的だ。 「あ、そうだ、ジャッキールさんは大丈夫ですよ」 それから、そんな感じで報告を受けたりもしたが、シャーとしてもその普段の彼がいっそのこと不気味な気がするほどだった。 ともあれ、今は物凄く忙しいはずのアイードだったが、何故そんな彼がオシャレして街で一人で出歩いているのか、ちょっと説明を求めたくはある。 「なんだ、ファザナーの若旦那さんかい。相変わらず伊達男だなあ」 ビザンはそう褒めて笑顔になった。 そういえば、普段の草食男子っぷりから忘れていたが、アイード=ファザナーはああ見えて洒落ものなのだった。一張羅のシャーとは大違いで、現れる都度服装が違う。 今日は洒落た柄物の短い外套を羽織り、首のあたりで一つのボタンで留めている。ちらっと異国風な要素も入れているが、あまり風景から浮いておらず、不思議と違和感がない。 ともあれ、洒落た帽子を斜めにかぶって、今日は例の赤毛を見せている。黙ってさえいれば、確かに伊達男なのだ。 (まあ、でも、草食男子ってのも怪しいんだけどさ。なんか野暮用とかいって夜明けまで来なかったしな) あの夜、アイードはなかなか来なかったのだ。副官は野暮用だ、そういう奴だ、などと冷めた調子で言っていたが、一体どういうわけだろう。女の子でもいるとも思えなかったが。 「まさか、ここまで攻め寄せてきたわけじゃないんでしょ? おやっさんにやりこまれて喧嘩になったら、俺が困っちまうよ」 「ははは、まさか。若旦那ンとこの衆と喧嘩する気はねえって。俺達は仲良くやってるさ」 「それは助かるね。でも、若い衆一人だけ連れてあるいてると、ほかの子分さん心配するでしょ? 相変わらずだねえ」 なるほど、アイードは、ビザンがあのやくざ者のビザン=ハーキムだと知っているらしい。わかっていて声をかけているのだ。 ビザンは手下に持たせてあった籠の魚を指さす。 「いや、ここんとこ、市場が滞っちまってるからさ。ここならいい魚でも手に入るかなって思ってさ。早速分けてもらったのよ。ほかの地域なんか、酒場なんかもしめちまってるトコもあるんだよなあ」 「はは、また趣味の酒場かい? 人のこと言えないけど、おやっさんも趣味人だねえ」 「まあそういうことで、若旦那には早いトコ、水門を解放してもらいたいところだね」 「そりゃあ俺もそうしたいけど、こればっかりは俺だけの意思じゃ無理だよ〜。でも、早いこと何とかするようにするね。とりあえず今日許可された商人の商品が明日は並ぶ筈だからさ。待ってて」 アイードはそれから彼らと一言二言かわすと、手を挙げて離れていった。 アイードが離れたのを確認し、シャーはビザンの方に歩み寄る。 「おお、三白眼のにーちゃんじゃねえか」 ビザンの方が愛想よく声をかけてくる。 「どうだ、ジャッキールのダンナ、見つかったかい?」 「ああ、その件は一応解決したんだ。ありがとう」 (本人寝込んでるけど……) 今までの経緯を話すと長くなるので、シャーはとりあえず礼を言うだけにとどめる。 「それよか、ビザンのおやっさん、アイツのこと知ってんの?」 シャーはそう尋ねてみた。 「アイツ? あー、ファザナーの若旦那のことか。そりゃ知ってるよ。ザファルバーンの川と海は、あのダンナの縄張りみてえなもんだしな。面識あって損はねえよ。それに、なんてったって善い男だよ」 ビザンはにやりとする。 「まー、ここいらを探しても、あそこまでいい男もそう見つからんさ」 そう言われてアイードの方を見ると、親子連れがアイードに挨拶しているところだった。 「この間いただいた薬で、この子も良くなって……」 「ああ、それはよかった。またなんかあったら言ってきて」 「よう、若旦那! 相変わらずシケた面してますねえ!」 次に酔っ払っているらしい二人が笑顔で声をかけてきていた。 「どうです、たまにはいい喉きかせてくださいよ。ここんとこ、市場がアレで不景気で」 「いや、俺仕事中だからさ」 「そんなシャレた格好して仕事中じゃねえでしょうよ」 「若旦那にも責任あることなんですから、さあさあ!」 アイードは断るが、結局二人に肩を組まれて酒場の中に消えていく。 「なんだ、すっげえ慕われてるんだな」 「結構慈善事業にも熱心だからな。それに、気さくだし、慕われないわけがねえよな。そういう意味では出来た兄ちゃんだよ」 シャーはそれを何か物思いにふけるように眺めつつ、ふとため息をついた。 「なんだか、理想的な領主って感じなんだな。自分のとこ見回って、みんなから慕われて……」 それをきいてビザンが思わず笑いだす。 「いやあ、アレは領主とか将軍の好かれ方じゃあねえよ? 支配とか統治とかとは無縁だぜ。それがイイかどうかはまた別の話。将軍としてヘッポコって呼ばれてる理由もわからんでもねえんだよな」 シャーはビザンの顔を見つつ、 「おやっさんは、結構ファザナーの若旦那のこと詳しそうだね。何か面白い話知ってるの?」 「ドジ踏んだ話とか以外で、アンタの好きそうな話、ってことだよな?」 ビザンはいたずらっぽく笑みつつ、しかし、すぐに腕を組んで首を傾げた。 「いやー、しかし、あの男、伊達男の割に草食って生きてそうな話題しかないからな」 「やっぱりそうかあ……」 「あ、待てよしかし、真偽不明の妙な噂話が一個あったな」 「どんな?」 シャーは思わず食いつく。 「あの旦那、餓鬼のころに一度すっげえ荒れてた頃があったって噂話さ。なんでもそのころ、お忍びで街に出ては、道行く荒くれものの船乗りに無差別に喧嘩売ってはぶっ飛ばしてたって話。餓鬼の癖に強くてなあ。そのころの船乗り連中からは、今でも恐れられてるっていう……」 「え? あいつにそんな話が?」 シャーは素直に驚く。 「そんな話初めて聞くぜ。いや、少年時代も割と真面目みたいな話よく聞いてたから……」 「はっは、だから、真偽不明なんだよ」 ビザンは笑う。 「俺もその話一回しかきいたことねえし、本人はあの通りのどっちかというと気弱なトコのある兄ちゃんだろう? 本当のところはわからねえんだよな。でも……」 ビザンはふと含むような顔をした。 「船乗りってやつは、荒くれものが多いもんさ。水の上は陸地と違って逃げ場がねえ。そんなところで日がな過ごすやつなんざ、怖いもの知らず揃いだぜ。俺だってやくざもんを束ねる立場だから、そこんとこは理解してるつもりなんで、こんな話をするんだが。なあ三白眼の兄ちゃん。そんな荒くれもん、人がいいお坊ちゃんが、ただ”人がいい”っていうだけで引き連れられると思うかい?」 ビザンがうっすらと笑う。 「あの若旦那は、太内海の海のように穏やかで優しい男さ。しかし、太内海の海も、嵐になると恐ろしい荒れた海と化す。あの兄ちゃんにも、もしかしたら、嵐の海の荒波みたいな部分があるんじゃないのかね?」 酒場の中から音楽が聞こえてくる。 シャーは、ビザンに挨拶すると彼と別れることにした。 そのまま、気になって酒場をのぞこうとしていたところ、ふと、先に酒場に入ろうとしている男に目が留まる。 「あれ、ネズミ」 そこにいるのはゼダだった。 シャーとしてはゼダと会うのが妙に久しぶりな気がして、珍しく今日は喧嘩腰にならない。 「何やってんだ? お前、まだこの辺りうろついてたのかよ」 「なんだ、お前かあ」 相変わらず派手な服装のゼダだが、先程のアイードを見た後なので、これが普通のような気がしてきている。寧ろ、自分がちょっともさいのでは、などと珍しく思ってしまうシャーなのだ。 「いや、ちょっとカワウソ、見かけたんで覗いたんだよ。あのカワウソ兄ちゃん、結構いい喉してんなあって思ってさ」 「え?」 シャーも続いて覗いてみる。 酒場の奥でアイードが弦楽器を手にして弾き語りをしているところだった。 哀調を帯びた曲調に、アイードの甘い美声が乗っていく。そういえば彼は美声の持ち主だった。 そんな彼は、なんとなくシャーの知らないアイード=ファザナーだ。あの時とは状況は違うけれど、やはり知らない誰かのようだった。 「しっかし、なんというか、既視感あるよな?」 「は? なんだって?」 不意に後ろでつぶやかれ、シャーはきょとんとした。 「いや、ほら、ちょっと違うけど、あのカワウソ兄さん、酒場のお前にちょっと似てんなーって」 ゼダがそんな感想を述べる。 ちょうどその時、歌は終わり、周りの男たちが歓声をあげて拍手した。 「若旦那、相変わらずいい喉してるじゃねえですか」 アイードは弦楽器を返しながら、喉を触りつつため息をつく。 「ダメダメ。最近、忙しすぎて声が出てねえの。本当ダメ」 「酒が足りないんじゃないです?」 「おいおい、俺は仕事中なの。本気で、飲んでるヒマはないんだから。一曲、今日は一曲で終わり!」 押しの弱いアイードは、あまり頼まれると断れない。強い意志を示すように慌てて立ち上がった。 「それじゃ、歌じゃなくて踊ってくださいよ」 「あー、あれイイよな! 見るの久しぶりだし、若旦那、もう一声!」 「だから俺は仕事なの!」 ふと、シャーは意を決して酒場に入った。 「あ、それ、オレも見たいなー!」 新入りの登場に、シャーの方に視線が向く。当然ながら、最も驚いたのがアイード=ファザナーだということは言うまでもない。 「げげっ! ちょ、殿……、いや、なんでここに!」 あわあわとなりつつ、アイードは今にも逃げ出しそうだが、入り口にシャーがいるので逃げられない。酒場の男たちは、新入りがどうやらアイードの知り合いだということに気づいたので、一瞬で警戒心を解いたようだ。 「いやあ、オレ、兄さんが踊ってんのみたことないからさ。歌も知らなかったけど、踊るの、それ以上に知らないわー。是非見たいよなー」 後を追いかけてゼダが入ってくるが、ゼダも興味深そうにみている。 「えー、あー……」 相変わらず入り口に二人が立っているので、アイードが逃げ出すのは絶望的だ。 「いや、その、ホラ、ワタクシ、仕事が忙しくって……。疲労困憊寝不足なので失礼させていただきたい……」 「踊って勝負する奴とかいいんじゃね?」 そんなことを言い出したのはゼダだった。 「西方でもよくやってたけど、なんだっけ、北方の踊りも取り入れて、踊って勝負するやつ。アレ、よく賭けして遊ぶんだよなあ。お前もたまに店でやってんだろ? 挑戦者いる時しかできないけど」 「あー、あれかあ」 「いきなり何を言い出すんです?」 アイードはすでにげんなりしているが、シャーはにんまりしている。 「若旦那、それいいんじゃないです? 俺達も賭けができるしな。若旦那にかける人―!」 早速、酒場の男たちが乗り始める。 「まて、お前ら、待て!」 「音楽は、えと、アレがいいかな」 中に楽器を持っている者たちがいるので、シャーがそう頼むと、彼らも気軽に応じる。 「冗談じゃありませんよ。お坊ちゃんと舞踏で勝負とかヤですよ」 アイードはため息をつく。 「大体俺は仕事中なんで、本当忙し……」 「はいはい、それじゃ始めるぜ!」 アイードがごにょごにょいうのを手をたたいて終了させる。途端に、太鼓を持っていた男が太鼓をたたくと、店の中に軽快なリズムが流れた。続いて弦楽器。 そうなると店内の雰囲気が代わり、男たちが手拍子を始める。 「先攻はオレから。兄さんついてこれるかな?」 シャーはそういうと、さっと体を開く。 ふわりとシャーのまとう雰囲気が代わり、た、と一歩を踏むと、そのまま鋭く回転する。その動きのキレの良さに、男たちが歓声を上げる。 この遊戯の決まりごとは簡単だ。一節ずつ一人ずつ即興で踊り、相手に振る。振られた相手は、先攻の者が踊った要素を模倣しながらも、自分で新しい振付を入れる。その繰り返し。間奏の間に踊りながら先攻後攻が入れ替わる。 つまり、相手についていくことのできる技量と即興で振付を考える対応力が試される。 特に北方の高山地方の要素を取り入れている王都式のものは、特に男の踊り手同士が力を示す合うものであるので、しなやかさよりも技術の高さや雄々しい動作を求められるものだった。 相手についていけなくなると勝敗が決し、双方体力が尽きると引き分け。 技量が同じ程度のものが勝負をしないと、即勝負がついてしまい、負けると恥をかくわけだった。 シャーは、カタスレニア地区ではそういう意味では有名で、今のところ負けなし、全勝中なので、ここの所ずっと挑戦するものはいないので、これをやるのも久しぶりだった。 (ここでアイードがどれだけやれるのか、見ておきたいところだしな) わざわざ仕向けたシャーにも、そういう思惑があった。 もちろん、舞踏のうまさが即強さにつながるわけではないのだが、これはある程度の判断力と応用力を求められるので、相手の力を推し量る材料にはなる。 あと、純粋に興味もあった。 (ま、最初は手加減してやるけどさ) 一節踊りきると、シャーは挑発気味に手をアイードの方に向ける。 それに何を思ったのか、アイードが唇を引きつらせて苦笑した。 「ヤレヤレ、まったくなんで俺が……」 アイード=ファザナーはため息をつくと、襟のぼたんを外し外套を脱いで、ゆらっと立ち上る。 そして半円を描くように歩み寄ると、さっと踊りの中に入り込んだ。 唐突に入ってきながら、彼は確実にシャーの踊る振付をなぞり、鋭く回転した後、しなやかに身をそらして手を顔の前でくるりと回してから力強く振り、そのまま複雑に足でステップを踏む。それは難易度の高い動作だ。 普段は色気も素っ気もない、草食動物のようなアイードが、それだけで不意にどう猛な獣の気配をまとう。それでいて、どこか所作は上品で貴公子的でもあるのだった。 わっと男たちから歓声が上がる。 一瞬あっけにとられたシャーに視線をくれて、彼はざっと手を彼に向けた。 「次、どうぞ」 軽くリズムに乗って体を揺らしながら、 彼はにやと笑う。 そんなアイード=ファザナーは、あの太内海の海のような碧い瞳に挑発的な光をくれて。 ――なんだ、コイツ! シャーは思わず、むっと唇を歪めた。 それだけのことで、一瞬で闘志に火がついてしまう。 急に酒場の中の温度が上がったかのように、自分も周囲も熱くなる。先ほどまで頭にあった疑念も不安も、燃え尽きてしまうかのように。 * 「ちくしょー、なんで俺が謹慎させられるんだよ」 どっかと柔らかいクッションに身を預けつつ、ギライヴァー=エーヴィルは煙草をやけ気味に吸っていた。 窓から柔らかな光が入る昼下がり。 煙の立ち上る先を眺めながら、ギライヴァーはむっつりとふてくされていた。 近くで縫物をしている初老の上品な女が、冷淡に告げる。 「殿下が何か悪いことをしたのでしょう」 「うるせえ、ババア」 ギライヴァーはぼそりと呟く。 もっとも、ギライヴァー=エーヴィルは、誰かに命じられて謹慎しているわけでもないのだ。 彼に命令を下せるのは、それこそシャルル=ダ・フールぐらいしかいないのである。なので、正式には自主的に謹慎しているということになるだろう。 「ラゲイラ卿にも止められております!」 彼の護衛を務める青年キアンは、先程そんな風に口すっぱく言ったものだ。 「あれ以降、王都の守備がさらにきつくなりました。こんなときに殿下に、あのような不埒なものたちとの付き合いをされては困ります」 不埒なものたちとは、リリエス=フォミカ一派のことを言っているのだろう。 ともあれ、ジェイブ=ラゲイラの名前を出してでも、キアンはこの評判の悪い主君を、どうにか屋敷に縛り付けておきたいらしかった。 屋敷といっても、ここは彼の別宅で、運河にほど近い高級住宅地の一角にある隠れ家だった。その二階、暇つぶしといえば本を読むか、外を見るだけ。そんな狭いところに、押し込まれて気分がいいわけがない。 「おねーちゃん呼ぶのもダメっていわれてるしなー」 「こんなむさくるしいところ、女性を呼ぶものではありませんわよ、殿下」 古参の女官にそう告げられ、ふん、とギライヴァーは鼻を鳴らす。 「だったら、殿下も落書きでもなさったらどうです?」 「落書き扱いすんなババア。俺の絵は国宝級だぞ!」 「最近すっかり描かないではありませんか」 「描く題材がいねーんだよ! わかってんだろ、ババア。ちっ、ババアのことも描き飽きちまったしなァ」 寝ころび、煙管を置いてしまって、ギライヴァーは両手を頭の上で組む。 窓の外では四角く切り取られた空が、青々と広がっていた。 (にしても、ありゃイイ女だったな) ギライヴァーは、そんなことをふと思う。 そんなギライヴァー=エーヴィルが思い出しているのは、あの時、シャー=ルギィズと一緒にいた娘だった。 シャー=ルギィズ。いや、彼はあの三白眼の少年が、本物の”シャルル=ダ・フール”であると気づいていたわけだが。ともあれ、血のつながらない甥っ子と一緒にいた女。自分相手に意見をはっきりいう、なかなか気が強い、しかも美人だった。 「なんであんなクソガキに、あんなイイ女がいて、俺にはいねーのかねえ」 ぼそりと呟く。 (あの女なら、描いてもいいかもしれねえのになあ) まさかこんなに暇になるとは思わなかった。連絡先ぐらい聞いておけばよかったか。いや、さすがにあの状況でそれは間抜けが過ぎる。 しかも、まさかの訳ありの”甥っ子”と一緒にいる女だ。 「あーああ、ちくしょー。暇……」 起き上がって窓の外を眺め、ふと、ギライヴァーは目を見開き、振り返った。 「ちょ、キアン、どこだ、キアン!」 急に騒ぎ立てる主君に、女官は冷淡に告げる。 「キアンならさっき出ていったでしょう、殿下」 「ちッ、肝心な時には使えねえ野郎だなっ!」 ギライヴァーはしびれを切らして、慌てて窓辺に駆け寄った。 「ちょ、ちょっと、そこの、そこの娘!」 ギライヴァー=エーヴィルの視線の先には、石畳の街を歩く娘が一人いた。その娘がはたと足を止め、軽くきょろりと周囲を見回す。 「そ、そうだそうだ、お前だ、お前! 上だ!」 そう呼び止められ、彼女は無表情に上を見上げる。 「私?」 ぽつりと娘が呟く。その声と全身の印象で、ギライヴァーははっと気づく。 やはりそうだ。あの時、シャーと一緒にいた娘に違いない。 「そ、そうだ。お前だお前、ちょっとそこで待っててくれ。な、ちょっとだけ、いいな!」 そういうと彼は窓から頭を引っ込めた。 「何かしら……」 リーフィは、唐突に呼び止められて、内心困惑はしていた。 リーフィは、ちょうどお使いの帰り道だった。 早めに昼の営業を終えた後、今日は客も少なくその後片付けも少なかった。ほかの娘たちがやってくれるというので、リーフィは早くお使いにでていたのだった。 とある貴族の家にお届け物をするお使いだったのだが、それもあっさりと終わり、それでこんな時間にこんな通りを一人で歩いていたわけだった。 流石のリーフィも、急に屋敷の二階の窓から呼び止められたのには驚いてはいたのだが、彼女のこと、表面上はあまりあらわれない。 そうこうしている内に、先程の男が息を切らしながら下に降りてきた。 どこか崩した衣服の着方だが、着ているものがいかにも上等だった。髪の毛もぼさっと長髪にしてあるが、髭は綺麗に整えてあり、一言で言うなら貴公子風の美男子である。年のころは四十がらみといったところ。 「すまねえな、急に呼び止めて」 意外にも紳士的にそういうと、男は息を整えた。 「いえ、何か御用がおありかしら?」 「いや、用っていうかさ……」 ふと、男は言いよどむ。 「いやな、こんなこと、初対面でいう男ってどうかと思うんだけど、ちょっと頼みがあるんだよ。いや、変な頼みじゃねえんだけど」 男はそう前おいて、しかし、存外に真面目な顔つきだ。 「もし、時間があるなら、俺に絵を描かせちゃくれねえか?」 きょとん、とリーフィは小首をかしげる。 「あ、変な絵とかじゃねえぞ。ただ、佇んでるところを絵に描きたいだけなんだ。俺は、その、見たものしか絵に描けなくてよ。ちょうどモデルがいなくて困ってたんだよ。お前なら描けそうな気がしてさ、一目惚れみたいなもんなんだぜ」 男はまじめに言った。 「ま、まあ、もし時間があるならなんだが……」 リーフィはじっと彼を見上げていた。黙っているので男がやや不安げな表情になったところで、リーフィは静かに頷く。 「夕方までなら、少し時間があるわ」 「本当かあ!」 男は意外にも無邪気な笑顔になる。 「じゃ、ちょっと待っててくれ! 準備して来る!」 そういうと、彼は身を翻して屋敷に入っていく。 「待ってろよ!」 リーフィはその背中を静かに見送りつつ、 (どこかで会ったかしら……) と記憶を探るが、どうにも思い出せないのだった。 屋敷に入ったギライヴァー=エーヴィルは、慌てて部屋の片隅の道具箱から大きな布製のカバンに画材を詰めていた。 「殿下、女性を誘うときは、もっと優雅でないとナンパも成功しませんよ」 例の女官は、取り立てて表情も変えず、縫物をしながらそんなことを彼に告げる。ギライヴァーは彼女に視線を向けて、キャンバスの飛び出たカバンを持って告げる。 「ナンパじゃねえよ! 俺はでかけんぞ!」 「お供もつけずに? キアンに怒られますよ?」 「いねえのが悪いんだろ! あんな役立たずのクソ、勝手に怒らせとけってんだ!」 そういうと、ギライヴァーはもう一度背後に怒鳴りつけた。 「ついてくんなよ! いいな!」 そういうと、貴人らしからぬ動作でばたばたと行ってしまう。 そんな彼を見送りつつ、女官は再び縫物を始めるが、別室にいた別の若い女官が姿を現し、不安そうに声をかけた。 「良いのですか、殿下おひとりで……」 「ご本人が良いというのですからよいのでしょう」 彼女は動じずにそういう。 「それに、久しぶりに楽しそうな表情でいらっしゃったわ」 ふと彼女が一瞬表情を緩めた気配があった。 階段を降りるのももどかしく、ギライヴァーが慌てて外に出たとき、約束通りリーフィは待っていた。 「すまねえ、待たせたな」 「いいえ」 その姿を見てリーフィが首を振る。 「この先にいい庭があってさ。噴水もあって綺麗なんだ。初対面で、いきなり建物の中ってのは、お前も嫌だろ。だから、人目のある野外がいいかなって」 彼はすでに絵のことしか頭にないのか、そんなことを笑いながら言う。 「ああ、そうだ。肝心なこときいてなかったな? お前、名前は?」 「私は、リーフィよ」 「リーフィだな。そうか、いい名前だな」 かみしめるようにそうつぶやき、ギライヴァー=エーヴィルは自分の胸に手を置く。 「俺のことはギルって呼んでくれ」 「ギル様?」 「ああ、そうだ」 彼は上機嫌に言ったが、ふと眉根を寄せた。 「あ、でも、今更なんだけど、なんで俺を信用してくれたんだ? 変な申し出だと思っただろう?」 そういうと、リーフィは初めてくすりと笑う。 「ええ、けれど、あまりにも真剣だったし……、それに」 とリーフィは画材満載のカバンを指さす。 「貴方は高貴な方みたいなのに、自分でそれを持ってきたから。もし、不埒な目的なら、自分でそんな重いものをもたないと思うの。おまけに一人で降りてきた……」 「あ、そ、それもそうか」 彼は少し照れたような笑みを浮かべつつ、目を伏せた。 「やっぱさ、俺の勘当たるんだよな。イイ女だわ。アイツにはもったいねえなあ」 小声でつぶやいたその言葉は、リーフィには聞き取れない。きょとんとしたところで、彼がごまかすようにいった。 「あの、リーフィ。それじゃあ、少しの間よろしく頼むな」 そういうと、彼は近くの庭園に彼女を案内する。 その不可思議な奇妙な二人連れを、並木道を闊歩する猫だけが見つめていた。 一覧 戻る 進む |